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「忠臣蔵」を作った男、多門伝八郎(3)ー佐藤孔亮著「『忠臣蔵事件』の真相」より。

 昨日のアクセスランキングで、『談志楽屋噺』を元に書いた“キザな小円遊”に関する記事(2013年10月)へのアクセスが急増していた。

 この記事は安定的にアクセスがあり、「笑点」関連のニュースがある際には増えるのだが、昨日のアクセス数は約150もあった。

 きっと、BS笑点ドラマスペシャルの影響かとは思うが、昨夜午後七時からの五代目圓楽を主人公としたドラマは、野暮用のため見ることができなかった。

 歌丸さんのドラマが予想外に良かったので、なんとか見たかったが残念。録画もしなかった。まぁ、こういうことも、よくある。

 ということで、そのドラマのことではなく、このシリーズの続編。

 旧暦十二月十四日は、1月19日。あと、六日だ。

「忠臣蔵」を作った男、多門伝八郎(3)ー佐藤孔亮著「『忠臣蔵事件』の真相」より。_e0337777_11283185.jpg

「忠臣蔵事件」の真相(佐藤孔亮著・平凡社新書)

 佐藤孔亮著「『忠臣蔵事件』の真相」(平凡社新書)を元に、このシリーズの三回目。

 一回目は、浅野長矩作とされる辞世、「風さそう花よりもなお我はまた春の名残をいかにとかせん」は、浅野長矩の取調べをした目付、多門(おかど)伝八郎の覚書にしか存在しないものであること、二回目は、長矩が介錯に使う刀として自分の差料を望んだことも、同じように伝八郎のみが伝えていることを紹介した。

 三回目は、その後創作された「忠臣蔵」で重要な場面の元となったとされる、あの話について。

 「多門伝八郎覚書」より。

 ちなみに、この逸話の前には、多門が上司である大目付の庄田下総守と、切腹の場所について衝突していたことが紹介されている。

「片岡源五右衛門の暇乞い」というフィクション

 もう一つ、重要なことがある。田村邸で浅野長矩が切腹をしたときに、片岡源五右衛門が田村邸を訪れ、主君に一目逢いたいと言って暇乞いが許された、という話である。これは映画やドラマにもなっている有名な場面である。しかしこれまた、首をひねらざるを得ないことなのである。さきほど庭先の切腹をめぐる正使(大目付)庄田下総守と副使(目付)多門伝八郎との衝突について考えたが、『多門覚書』によるとその騒ぎが終わる頃である。田村右京太夫が伝えるところによると、「ただ今、浅野内匠頭家来片岡源五右衛門と申す者が来て、主人がお宅で切腹を仰せ付けられていると聞いて主従の暇乞いに一目主人に逢わせてもらいたい、と言っている。断ったところ、一度検使の方にお願いしたいと、顔色を変えて言っているが、どうしたものか」というのである。
 庄田下総守は「それしきのこと、大検使に言うまでもないことだ」と言って、いいとも悪いとも言わない。多門は「差し支えないではないか、長矩切腹の場所に出て、間を隔てて無刀にして、警護をすれば、家来は大勢いるし、主人を助けようと飛びかかってきても取り押さえられるだろう。一目くらいは慈悲である」と認める考えである。これを聞いて庄田は「思うようにされたらいい」と認めた。
 田村右京太夫が多門伝八郎の一存で許された旨を片岡へ伝えると、ことのほか喜んだという。そして小書院次の間に無刀で控えさせて、大勢の家来で警護させる、と多門に伝えた。こうして「片岡源五右衛門、主君への暇乞い」が叶ったというわけだ。
 「仮名手本忠臣蔵」での主従の最後の対面など、この片岡源五右衛門の暇乞いがネタ元となっているわけだが、本当にこんな場面があったのかどうか・・・・・・。

 片岡源五右衛門は、九歳にして片岡家百石の家督を相続し、小姓として浅野長矩に仕えた。長矩とは同い年で、信任が厚かったと言われている。

 この片岡暇乞いについて、田村家の三つの史料には何ら記述はない。
 いろいろ疑わしい点が、ある。
 多門覚書には、翌日十五日、片岡が多門に家を訪れて主人との対面の礼を述べたとも記されている。
 また、その年の十一月にも片岡が再び訪ねてきたとされている。
 本書での見解。

 この話はどうだろうか。まず、田村邸での切腹の場に現れてきたということ。一度来て断られて、再度来たときは検使にもお願いする、ということで多門の出番となった。
 ふつう切腹の場は非公開である。その場にいるのは検使のほかは当家の主人と世子、他は介錯人などの役人にすぎない。そこへ切腹する当人の家来が「一目だけでも」と暇乞いをお願いするというのは、講談・浪曲の世界であって、いくら警護を大勢つけたといって、にわかには信じがたい。
 なにしろ少し前まで主君の死には殉死が一般的だった時代である。殉死は前代将軍の家綱時代に禁じられていたが、それにしても何が起きるかわからない。切腹する当人は大名とはいえ殿中で刃傷に及んだ者である。もし暇乞いのような願いが出されたとしても、断固としてはねつけるのが検使の役目であろう。もしこれが事実ならば、それこそ検使としてこれが落ち度にならなかったことが不思議である。
 田村右京太夫もおかしい。『多門覚書』では田村が片岡と多門の取次ぎをしているのある。片岡は感謝しております、などということを三万石の大名が、検使の目付にわざわざ報告に来るだろうか。相手は罪人の家来である。
 翌日の話もおかしい。片岡はお礼に多門の屋敷を訪れたという。しかし片岡は同日の十四日、主人内匠頭長矩の遺骸を泉岳寺に葬り、墓前で磯貝十郎左衛門、田中貞四郎、中村清右衛門と四人で主君に殉じて落髪している。そんな状態の者がいくらお礼が言いたいといって、目付の屋敷へ出かかていくだろうか。はなはだ疑問である。

 ということで、劇的な主従の別れのの対面も、多門伝八郎の創作と考えられるのだ。
 では、最後に長矩と家来との何らかのコミュニケーションはなかったのか、というと、田村家の記録の一つ『長岡記録』には、長矩が切腹する前に、家来への伝言があったことが記述されている。
 最初、手紙を遣わしたいと長矩が言ったら、番人が伺いを立てなければならないと答えたので、それでは口上にて伝えたいと言って残した言葉がある。

 宛て先は「田中源五左衛門」と「磯田七郎左衛門」となっているが、おそらく片岡源五右衛門と磯貝十郎左衛門のことではないかと思われる。

   此の段兼ねて知らせ申すべく候えども、今日やむを得ざること候ゆえ
   知らせ申さず候、不審に存ずべく候由」という内容。

 このことはかねてから知らせておくべきだったが、今日となってはもはや知らせることはできなくなった、さぞ不審に思うことだろう、ということだが、さっぱり要領を得ない文章だ。あえていえば、吉良との確執とか、胸にしまっておいた思いがあるのだろうが、とうという言えずに終わってしまった、らしいことがわかる。
 私はこの言付けは信用できると思う。これは番人が「伺いを立てなければならない」と言っていることから、検使の役人には聞こえない範囲で言ったことだろう。本当に最後に言った言葉というのはこんなものかもしれない。長矩は従容としてその場についた、と思われる。
 
 なんとも劇的ではない、長矩最後の言葉、と言えるなぁ。

 本書の著者は、この最後の言葉の宛先が片岡源五右衛門であると想定し、実際に遺骸を引き取りに彼が来たことから、暇乞いというフィクションを創作したと推理している。
 では、なぜ、多門伝八郎は、そんな作り話を後世に残したのか・・・・・・。

 謎は深まる。

 次回は、他にもある多門覚書の不思議について。

Commented by ばいなりい at 2019-01-14 20:50
忠臣蔵について、みなもと太郎の『冗談新選組』に『仁義なき忠臣蔵』なる秀作が載っております。播州弁の赤穂藩(浅野氏)の宗家は安芸広島藩で仁義なき広島弁だという考察から、
 「待たんかい吉良、おんどれ、遺恨受けくされ~っ」
 「こんな忠臣蔵、ありゃあすかーっ」
といった、司馬遼的な異彩を放つギャグマンガに仕上がっております。『赤穂事件』と『仮名手本忠臣蔵』って、三國志の『正史』と『演義』の関係に似てますよね。よく出来た物語だから、関連の考察本に事欠きません。
Commented by kogotokoubei at 2019-01-15 08:52
>ばいなりいさんへ

実際に赤穂浪士が行ったのは、集団での吉良家襲撃で、親分の仇を討ちに行ったのですから、広島弁は合ってますね^^
落語では「カマ手本忠臣蔵」がありますが、あまり好みではないなぁ。
たしかに『三国志』の『正史』と『演義』のギャップに、赤穂事件と忠臣蔵は似ているかもしれません。
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by kogotokoubei | 2019-01-13 17:27 | 江戸関連 | Trackback | Comments(2)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛
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