噺の話

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「忠臣蔵」を作った男、多門伝八郎(1)ー佐藤孔亮著「『忠臣蔵事件』の真相」より。

 今年の旧暦十二月十四日は、1月19日の土曜日。

 元禄十四年の十二月十四日、あの有名な事件があった。

 その日までに何回かに分けて、このシリーズを書くつもり。

 「忠臣蔵」については、2013年の旧暦十二月十四日に書いたことがある。
2013年1月25日のブログ

 樋口清之さんの本『江戸と東京』を引用した短い記事だった。
 引用部分を再度ご紹介。
嘘忠臣蔵

 元禄の快挙として、忠臣蔵程芝居講談で人気のあったものはなく、又、それだけに脚色に脚色が加えられて真実の誤りを伝えられているものも少くありません。
 殊に「仮名手本忠臣蔵」をはじめ、戯曲の忠臣蔵類は、芝居としての舞台変化と、ストーリーの曲折をねらって、良くもあんな嘘が言えたものと思う程に、色々と妙な話が附随してしまいました。いわゆる赤穂浪士には私も十分の同情と、理解を持っているつもりですが、それだけに、俗説忠臣蔵には一方甚だ憤りを感じています。今後機会を得てできるだけその真相を詳しくお話申し上げたいと存じます。
 第一堀部安兵衛高田馬場の仇討も十八人斬どころか相手は僅かに五人、味方は四人でありましたし、討入りにつきものの山鹿流の陣太鼓も実はただの銅鑼でありましたし、上野介が斬られたのは松の廊下ではなく大廊下でした。豪酒家といわれる赤垣源蔵は全然酒を飲みませんし、本所松坂町などという名の町は討入りの頃にはまだありません。一行が勢揃いした楠屋というそば屋はなく、勢揃いしたのは実は堀部安兵衛の私宅でした。それに第一討入りの正確な日は元禄十五年十二月十五日午前四時で、十四日ではなく、かつ雪等は降らず月夜でした。天野屋利兵衛は義士と何の関係もなく、忠僕直助等は実在しません。

 史実と俗説や芝居(ドラマ)の大いなるギャップは、現代でも頻繁に散見されるが、「忠臣蔵」ほどその乖離が大きいものはないかもしれない。

 樋口さんが指摘するように、あの事件はあまりにも脚色されてしまった。

 言い換えれば、あまりにも“劇化”された、とも言える。

 それは、江戸の町人たちが、それを期待したという社会情勢もあっただろうが、“劇化”を促す情報が背景にあった。

 今回は、ある本を元に、あの事件を劇化させることに大きな貢献(?)をしたある人物のことを紹介したい。

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「忠臣蔵事件」の真相(佐藤孔亮著・平凡社新書)

 「『忠臣蔵事件』の真相」は2003年に平凡社新書で発行されたもので、作者の佐藤孔亮(こうすけ)という人は、出版社勤務を経てフリーライターになった方で、年齢は私とほぼ同じだ。
 本書巻末のプロフィールには、次のように紹介されている。

歌舞伎、落語など古典芸能に造詣が深く、また独自の視点から忠臣蔵の史料に取り組み、芝居と史実の両面からアプローチを試みている。川柳作家、都々逸作家でもある。

 この内容を読んで、少なからず親近感が湧いてきた。

 さて、「忠臣蔵」が創られる背景には、さまざまな要因があるのだが、この人の残したものは実に重要だなぁ、と思えるのが、目付の多門伝八郎。

 本書の「第四章 忠臣蔵を作った男・多門伝八郎」より引用。

 まず、あの辞世への疑問から。

辞世の歌は別人の作か

  風さそう花よりもなお我はまた春の名残をいかにとかせん

 浅野長矩の辞世として知られている歌だ。あまりにも有名である。JR播州赤穂駅の構内ロビーに書家によって大きく書かれているのもこの歌だ。しかしこの歌は本当に長矩の辞世だろうか。いや、本人が本当に詠んだ歌なのだろうか、という疑問の声が多いのである。
 この歌が記されているのは『多門伝八郎覚書(おかどでんぱちろうおぼえがき)』という幕府目付多門伝八郎の書いたものである。他には記されていない。まず第一にこれがおかしい。浅野長矩は刃傷事件を起こした後、田村右京太夫建顕(たけあき)の屋敷に預けられ、そこで切腹を仰せ付けられた。元禄十四年(1701)三月十四日、事件を起こしたその日の六つ過ぎ(午後六時過ぎ)である。
 『多門伝八郎覚書』にはこうある。
 長矩が切腹の座について、「自分の差料(さしりょう)を介錯の刀として使ってもらいたい」との願いが許され(この話もおかしいが後述)、その後に硯箱と紙を所望するので差し出すと、長矩は硯箱を引き寄せ、ゆるゆる墨を摺り、筆を取り、「風さそう花よりもなお我はまた春の名残をいかにとかせん」と書いて、墨を摺っているうちに届いた刀(自分の差料)を介錯人磯田武太夫に渡し、辞世の歌は御徒付目付水野杢左衛門が受け取って「田村左京太夫」(多門は田村右京太夫を間違えてこう書いている)へ渡した、という。

 多門伝八郎は、刃傷沙汰の後に、浅野長矩を取り調べた目付。
 だから、彼が残した覚書は、信頼できるものとしえ当時は受け入れられたのだと思うが、それ以外に存在する史料には、辞世の句のことは、まったく残されていない。

 引用を続ける。

 ところが他の史料ではどうか。この切腹に関して田村家の記録は三種類ある。『一関藩家中(かちゅう)長岡七郎兵衛記録』(以下『長岡記録』)は、江戸城へ赴き長矩の身柄を預かるところから切腹までをもっとも細かく記している。『一関藩家中北郷(きたざと)杢助手控(もくすけてびかえ)』(以下『杢助手控』)は介錯の刀や切腹の場所をめぐる話が細かく書かれていて面白い。『三月十四日御用留書抜』(以下『御用留書抜』)は要点のみを書き記している。いずれも田村家がどのように対応したかについて書き残しており、貴重な記録になっている。
 『長岡記録』では切腹の場面はこう書かれている。
 大目付庄田下総守が上意の趣、すなわち「その方儀、意趣ある由にて吉良上野介を理不尽に切り付け殿中を憚らず時節柄と申し重畳不届至極に候、よって切腹仰せ付けられ候由」と申し渡す。それを受けて長矩は、「今日不調法なる仕方如何様にも仰せ付けらる儀を切腹と仰せ付けられ有難く存じ奉り候」と述べる。
 それが終わると御徒目付が左右後ろに付き添い、障子を開けて庭へ降り、毛氈の上に着き、小脇差を三方に載せ、中小姓(愛沢惣右衛門麻上下を着す)が三方を持って前に差し置く。介錯の磯田武太夫がただちに仕舞い、首を差し上げて検使に見せる。
 実に淡々とした様子で、辞世の歌などどこにも出てこない。

 田村家の他の記録にも、辞世のことは書かれていない。
 なんと、赤穂市刊行の『忠臣蔵』第一巻にも辞世の歌については他の史料で確認できず、「偽に近いようにも思われる」と指摘していると本書では説明されている。

 そして、辞世に限らず、多門伝八郎の覚書には、いくつも疑問があることを本書は指摘する。

 それらの問題点については、次回。

 講釈師見てきたような嘘をつき、なんて言葉があるが、伝八郎は講釈師ではなく、旗本であり、目付なのだ。

 なぜ、彼が残した覚書が、「忠臣蔵」というフィクションにつながっていくのか、なかなかに興味深いテーマなのである。


Commented by kanekatu at 2019-01-11 10:58
私も以前、忠臣蔵に関する書籍をいくつか読み、芝居や俗説が史実とあまりにかけ離れているのを驚きました。
忠臣蔵は一般に「赤穂事件」とも称されていますが、私見では「吉良家の受難」ではと考えています。
ただ、「討入りの正確な日は元禄十五年十二月十五日午前四時で、十四日ではなく」の記述は著者の勘違いかと。当時は夜明けと共に新たな日が始まるので、午前4時なら14日で良いと思います。
Commented by kogotokoubei at 2019-01-11 21:03
>kanekatuさんへ

以前書いた記事にコメントをいただいた時、三部作の力作を拝読させていただきました。
樋口さんの日付に関する記述は、現在の時間感覚でのことかと思います。
あくまで、赤穂事件であり、吉良家の受難と言えますね。
多門伝八郎の覚書について、もう少し紹介しますが、後の文楽、歌舞伎の脚色に利用されたようです。
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by kogotokoubei | 2019-01-10 12:50 | 江戸関連 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛