龍馬の命日に、暗殺犯諸説を振り返るー磯田道史著『龍馬史』より。
2018年 12月 21日
坂本龍馬の命日である。
実は、誕生日も同じ十一月十五日。
慶応三(1867)年十一月十五日、京都の近江屋で、何者かに斬殺された。
その犯人には、いくつもの説がある。
命日に、その犯人を探る本をあらためて読んだ。
磯田道史著『龍馬史』(文春文庫)
いまや、テレビでも引っ張りだこの磯田道史の『龍馬史』は、2010年に単行本で初版、2013年に文庫化された。
結論から先に書こう。
著者は、龍馬の手紙などを精査することで、さまざまな他の犯人説を否定し、見廻組が犯人であることに疑問がないとしている。
まず、見廻組以外の犯人説とはどのようなものか。
その黒幕については、次のような説が紹介されている。
(1)新撰組黒幕説
(2)紀州藩黒幕説
(3)土佐藩黒幕説
(4)薩摩藩黒幕説
それぞれの説の疑問や反証について、本書「第三章 龍馬暗殺に謎なし」からご紹介。
(1)新撰組黒幕説への疑問
龍馬が殺された後に、真っ先に犯人として疑われたのが、新撰組。
本書では、このようにこの説に疑問を呈す。
新撰組説は成り立ちません。戊辰戦争で敗れ、新政府に捕らえられた元隊士たちは一様に、龍馬暗殺について尋問を受け、その取調べ調書が残っています。なかでも横倉甚五郎という元隊士の供述は重要です。彼はこう言っています。
坂本龍馬を討った(暗殺した)かどうかということじゃ一向に知らない。しかし、事件後、近藤勇が龍馬を討ったものは「先方にては」新撰組だと騒いでいる。おまえらは油断するなといったのをきいた。「先方」というのは土佐藩や海援隊のことです。
また最後の新撰組隊長だった相馬主計(かずえ)の供述では「隊中で龍馬暗殺の嫌疑が晴れたという回し文があった」とも言っています。近藤の口ぶりからして、どうも新撰組はやっていないようです。このような証言がある上、そもそも新撰組の実行を裏付ける直接証言は、何一つありません。
ということで、新撰組黒幕説は、消去。
(2)紀州藩黒幕説
なぜ、紀州藩が疑われてのか。
それは、慶応三(1867)年の四月、海援隊が四国の大洲藩に出資してもらって運用していた船「いろは丸」が、紀州藩の船に衝突して沈没するという事件(「いろは丸事件」)に起因する。
この事件で、龍馬は紀州藩を相手取って、莫大な賠償金をせしめたのだった。
また、海援隊に元紀州藩士の陸奥陽之助(宗光)がいて、紀州藩の弱みを熟知していたことも、龍馬の交渉を有利にした。
龍馬というと「颯爽としてイメージ」がありますが、こういう交渉事になったときは、颯爽どころかじゃなりあくどい。沈没した直後、原因が分からない状況で「万国公法」を持ち出したのです。
紀州藩は、御三家のひとつで、おおらかな人が多い藩ですから、こういう交渉事にあまり慣れていません。なにより体面を傷つけられることを非常に嫌っていました。龍馬は「お金よりは体面が大切だ」という紀州藩の基本方針を見極めて、次第にそこにつけ込んでいきます。
多額な賠償金をせしめるため、龍馬は「いろは丸」の積荷が米や砂糖だったのに、銃を積んでいたと偽り、あげくには現金を何万両も積んでいたとして紀州藩に迫った。
結果として、七万両の賠償金を大洲藩と海援隊は獲得する。現在価値で数百億円にのぼる額。
龍馬というタフネゴシエーターに丸め込まれた紀州藩が龍馬暗殺の黒幕とされるのは、この「いろは丸」事件の恨み、という理由。
この説について、磯田は、こう指摘する。
しかし、紀州藩が龍馬を「殺す」という命令を出したり、実行部隊を動かした形跡は全くありません。少しでも実行に移していれば、証言や史料という形で残るのでしょうが何も残されていないのです。
事件直後に紀州藩黒幕説が叫ばれたが、明治になるとこの説は消える。
(3)土佐藩黒幕説
比較的多くささやかれるのが土佐藩説です。黒幕は後藤象二郎説と岩崎弥太郎説の二説あります。しかし、龍馬が殺された時点で、土佐藩ほど龍馬を必要としていた藩はありませんでした。特に後藤象二郎説というのは、動機に無理があります。磯田は、龍馬が音頭をとった大政奉還により、後藤や土佐藩の京都での地位が上昇したことや、慶応三(1867)年正月に長崎で後藤と会った龍馬は意気投合し、同志への手紙に、「後藤は近頃の人物だ」と書いていることを反証材料として挙げている。
また、岩崎弥太郎と龍馬は、テレビドラマのように幼友達ということではなく、龍馬が亡くなるほんの数ヵ月前に対面したという説が有力で、岩崎が龍馬の利権を奪うために暗殺の黒幕となることも考えられない、と指摘する。
(4)薩摩藩黒幕説
磯田は、京都において、薩摩と会津が、田舎者として嫌われていたことも、薩摩藩黒幕説の背景にあると指摘する。
しかし、この説には相当無理があると次のように書いている。
龍馬暗殺について薩摩藩犯行説がありますが、この説で一番妙なのは、実行自体は見廻組であるとする人が多いことです。見廻組は会津藩の支配下です。それなのに薩摩藩がわざわざ見廻組をつかって龍馬を殺させたというのです。
こんな馬鹿なことはありません。薩摩は龍馬と親しいので当然、龍馬の居所も知っていました。
もし薩摩が龍馬を殺したいなら、回りくどいことをする必要はありません。呼べば竜馬は来ますから、薩摩藩邸に呼び出して帰りのい闇討ちにすれば、証拠も残さず簡単に殺すことができるのです。薩摩藩には人斬り半次郎と呼ばれた中村半次郎(桐野利秋など、剣の達人がいくらでもいます。敵対している見廻組に龍馬を殺させる必要はないのです。
第一、土佐藩邸の目の前の近江屋に滞在中の龍馬を狙うということは、救援が駆けつける可能性もあってリスクが大きい。
ということで、薩摩藩黒幕説も消去。
では、見廻組犯行説はどのように裏づけられるのか。
龍馬が暗殺される直前の数日、龍馬は、ある人物の家を度々訪れている。
相手は、なんと幕府の大目付、永井玄蕃。
永井は小さな旗本から異例の出世を遂げたリアリストです。彼の諱(いみな)は「なおのぶ」とか「なおむね」と訓じられますが、永井家では「なおゆき」といっていたようです。この時期は大目付の職からさらに出世し、旗本の最高位ともいうべき若年寄格となっていました(慶応三年十二月には正式に若年寄就任)。戊辰戦争後は投獄されますが、許されたのち元老院権大書記官(ごんのだいしょきかん)になっています。彼の玄孫(やしゃご)にあたるのが作家の三島由紀夫です。龍馬暗殺を辿っていて、なんと、三島由紀夫の家系を知ることになった。
死の五日前の十一月十一日、龍馬は同じ土佐藩の福岡孝弟と一緒に永井玄蕃を訪ねています。永井は二条城近くの「大和郡山藩」の屋敷に下宿していました。龍馬の下宿のあった四条河原町の近江屋から三キロ以上の距離があります。ここに一日で二度いった説まであるのです。
本書には、関連する地域の地図も掲載されている。
永井が下宿していた大和郡山藩の屋敷の近くに住んでいた人物に、実は、龍馬暗殺実行犯を解く鍵があった。
この永井の下宿の隣には「やす寺(松林寺)」という寺がありました。そこには見廻組の佐々木只三郎が下宿していたのです。四日後の龍馬暗殺の実行指揮官です。佐々木は、旗本で剣客としても知られていました。倒幕勢力の糾合を目論んでいた、清河八郎という志士を暗殺したことでも知られています。
龍馬はこの人の下宿の横に平気でずかずかと入っていきました。この一帯は完璧に幕府方のテリトリーですから、大声の土佐藩士が日に何度も現れて、ついには永井の屋敷に入って行ったという話を見廻組は簡単に掴むことができたはずです。ほぼ隣に住んでいた佐々木が直接見た可能性さえ否定できません。
磯田は、なぜ危険な幕府テリトリーに出向いてまで龍馬が永井を訪れた理由は、慶喜の処遇についての話し合いと、土佐出身の宮川助五郎という男の釈放を依頼していた可能性が高いと推理している。宮川は、大政奉還の後、三条大橋にあった幕府の高札を何度も抜いて川に投げ捨てたため、捕まっていた。
ともかく、見廻組の佐々木只三郎の下宿先の隣にいた人物をたびたび訪ねたことを、見廻組犯人説の有力な裏づけと考えることは不思議がない。
もちろん、後年、襲撃犯たち自身が証言している。
龍馬襲撃に参加した顔ぶれに関しては証言者によって若干の相違があります。
「龍馬を斬った男」とされた今井信郎は、襲撃に参加した人間として佐々木只三郎、桂隼(早)之助、渡辺吉太郎、高橋安次郎、土肥仲蔵、桜井大三郎の七名を挙げています。しかし佐々木をはじめ、彼らのほとんどは鳥羽伏見の戦いで戦死しています。
見廻組は、士気の高い佐幕派ですが、みな戦死というのは、やはり不自然です。龍馬襲撃犯をかばうために、戦死者の名前をわざと言った可能性が高い。今井は自分のことについては正直に供述していますが、他人のことについては信用できない部分もあります。
同じ渡辺でも渡辺篤という人物が、襲撃メンバーの一人だったと自ら証言していて、当事者しか知りえないような細かい内容を明かしているのだが、今井はその渡辺篤のことを隠すために、死んだ吉太郎の名を出したのではないか、と磯田は察している。
佐々木らは、下宿先である尼寺「やす寺」から出発し、各々を訪ね、襲撃者を一人ずつ呼び集めていったようです。これについては、今井信郎の家に口伝が残っていて、孫の今井幸彦が『坂本龍馬を斬った男』としてまとめています。
それによると渡辺という隊士が今出川千本の今井の仮寓を訪れ、奥でしばらくヒソヒソ話をしていた。しばらくすると、「ちょっとでてくる」と言って二人連れ立って出て行った。今井の妻は「また斬り込みだ」と直感したと、のちに語っています。
さまざまな説があるなか、この本を読むと、見廻組の犯行説は動かしがたいようだ。
では、黒幕は・・・・・・。
京都守護に当る会津藩支配下の見廻組である。
今井信郎と渡辺篤の証言は、どちらも、京都守護職、松平容保からの命令(御差図)であったとしている。
私は、長岡に住んだこともあり、河井継之助が好きなので、自然、会津藩にも好意を持っている。
松平容保という人にも悪い印象はないし、戊辰戦争での会津の悲惨な姿にも心が痛む。
だから、歴史上の人物の中ではきわめて人気の高い龍馬だが、彼を暗殺した見廻組、そしてその指令を発した松平容保を、そうは憎めない気持ちがある。
あくまで、自分の生まれ育った場所や環境、そして歴史上の役割として、それぞれに定められた運命であった、としか言えないのだろう。
今、もし、龍馬が日本の姿を見たら、果たしてどう思うだろうか。
上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事
有名な「船中八策」の中の、議会開設に関する文面。
二院制による議会制民主主義は、形式だけは存在している。
しかし、その形が、龍馬が理想とした内容を伴っているとは、思わないに違いない。
民主主義が、今の日本で機能しているとは、彼も思えないだろう。
長州出身の国のリーダーを見て、龍馬は彼が会った長州の志士たちの面影を見つけることは、到底できないはずだ。
容保は、病弱だったようで、とにかく公務をよく休んだとも言われています。
もし、彼が壮健だったら、また少し違った幕末の姿があったかもしれません。
「西郷どん」は途中で見るのをやめました。
藤田東湖が登場しない西郷隆盛の人生など、ありえない。
昨今の大河は、“スルー”している史実が実は重大なことが多い。
まぁ、来年はクドカンの作品なので、少なくとも最初は見るつもりです。