川島雄三という人ー藤本義一著『生きいそぎの記』より(5)
2018年 09月 27日
『鬼の詩/生きいそぎの記-藤本義一傑作選-』
このシリーズ、最終回。
川島雄三と藤本義一のシナリオづくりの間、川島はいろんな話題を持ち出す。
酒が入っていると、二人はちょっとした口論となることもあったが、そんな中で、ある二者択一問題(?)は、熱を帯びたものになった。
「君、弁慶と牛若と、どっちが好きですか」
不意に聞かれて、おれは迷った。夜明けの疲れが重い。いい加減に聞き流しておくのが無難だと思って、おれは、そうですねえと曖昧に答えた。こんなことを別に深く考えるだけ野暮だと思ったのだが、これが相手の癪に触れたのだ。
「はっきりと答えてください」
「牛若です」
「牛若・・・・・・ぼくは弁慶、絶対に弁慶です」
異様なほど力の入った言葉に、おれは唖然となった。
「弁慶の、あの壮烈さがいい。矢が何本も突きささっていて、死んでいるんだが、なお、敵の矢面に立っている。ぼくは、そういう人間が好きだ。いいと思う。牛若なんて、あんな小才の小僧。弁慶がわからん者は馬鹿です」
おれは、むかっとなった。
むきになった藤本が引き下がらず反論する。
川島は、万年筆を藤本に投げつけ、怒鳴った。
「帰りなさい。帰れ!」
畳に滲んだインキの色は、貪り食って滴った葡萄の汁の生々しさがあった。
藤本は、宿を出た。
なお、文庫の巻末に収録されている「下北半島・川島雄三映画祭」(1988年10月)の藤本の講演の内容では、弁慶派が藤本、牛若派が川島と逆だったようだ。
宿を出た藤本は、映画館でギャング物の洋画を観た。
おれは映画館を出て、閑散とした堂島の小さな古本屋に入り、何げなく『映画』という小冊子の創刊号を繰っていると、昭和十三年五月発刊の随筆欄に、「小さなものに」と題して川島雄三の短文が掲(の)っていた。
ーかつて、生態映画か何かで、花に蜜をもとめる蝶の、大写しの触鬚のはなやかな振動に、軽い眩暈(めまい)に似たものを感じたことがある。ある時又、フランスの女優アナベラの唇の動きに、それと同じおもひをした。
と読むすすんでいる裡に、
ー二十日鼠に限らずすべて矮小な禽獣には、血液の量のすくなさが感じられて不安である。あるひはこれは病的な感覚に近い。けれども漫画映画などにみる小禽獣はさうした感覚からむしろ遠いものなので、物足らなさを覚えるものがある。かへって、ポパイなどのサディズムに、ある種の抵抗を感じる。
おれは二百円を投じて、表紙のぼろぼろになった雑誌を買った。
その後、藤本が家に帰ると、川島の電報が届いていた。内容は、
「サヨナラヲイワズニカエルノハヒキョウデス、カワシマ。」
雑誌という土産もある、藤本は宿に戻った。
しかし、監督は部屋にいなかった。
雑誌と置手紙でもしておこうと思って、おれは監督の部屋に入った。机の上は綺麗に整理され、新しいドイツの新薬の瓶があった。鉄分血行障害云々という日本語の解説文が瓶の横に展げられていた。
おれは、短い詫びの文と雑誌を瓶の下に置き、部屋を出ようとして、ふわりと紫の風呂敷の乗った件(くだん)の白表紙の本が目についた。頁の間に爪楊枝か燐寸の軸のようなのが挟んである。おれは、厚いずっしりとした本を取りあげた。白背表紙のに剥げかかった金文字で『家庭医学全書』とあり、おれは、なんの躊(ためらい)もなく、薬の部分を折り取った燐寸棒の個所を展げた。
びっしりと犇(ひしめ)くように並んだ活字を見た途端、おれの背筋に慄えがはしった。
見てはならないものを見てしまった。
脊髄の病気という五文字が黒い枠の中のい閉じ籠められ、シャルコー病のところに、何本も爪痕のような斜線が入っていた。括弧の中に、筋萎縮性側索硬化症という字が並んでいたが、その厄介な病名を全部覚えるまでに、おれは本を閉じて、息を詰めて、もとの場所に置き、風呂敷の真ん中を抓みあげて、もとどおり、ごく自然にかけられた風呂敷のイメージをつくりあげた。シャルコー病、シャルコー病と耳慣れない病名を、おれは部屋に戻ってからも繰り返していた。筋肉が縮んでいく病気だとは括弧の中に並んだ活字から漠然と理解出来たが、それが一体なにを原因にして起ってくるのかは皆目わからなかった。
“件の”とあるのは、以前に、川島の部屋に無言で入った際、監督がその本を慌てて隠したことがあるのだ。
自分が病を気にしていたことを、他人に隠そうとしていた川島。
それも、彼のダンディズム、と言えるのかもしれない。
藤本は、シナリオに養蜂家が出てくるので、蜂のことを調べるために中之島図書館に行った時、ついでに医学書で川島の病のことを調べている。
その病が「先天的」であることを知る。
先天的という文字だけが離れなかった。家族のことを話さない監督、故郷に憎悪の眼差を投げる男、なにが津軽の地にあったのだろうかと考えると、ストーブに馴染んだ躯に、薄っすらと汗の惨みを覚えるのだった。
家族のことを話さない、川島。
故郷については、憎悪の念を表わす川島。
川島の故郷に関する思いについては、小沢昭一さんにも印象深い体験があるようだ。
以前『KAWADE夢ムック 小沢昭一』から、藤本義一との対談を紹介したことがある。
2012年1月15日のブログ
今村昌平と小沢さん、そして川島と三人がバーで飲んでいた時、今村が関心を持っていた東北地方のことを話題にしたところ、川島は実に不愉快な顔をしたらしい。
いったい、彼にとって、故郷とは、そして、家族とは何だったのだろう・・・・・・。
昭和38(1963)年6月11日、川島雄三は、四十五歳で旅立った。
遺作『イチかバチか』公開の5日前での急死だった。直接の死因は肺性心となっているが、筋萎縮性側索硬化症が関係していないはずはなかろう。
監督予定の三作品があった。
・『江分利満氏の優雅な生活』(1963年/東宝、原作:山口瞳)
これは、岡本喜八が監督した。
・『忍ぶ川』(1964年/東宝、原作:三浦哲郎)
・『寛政太陽傳』(1964年/東宝)
この中の「寛政太陽傳」という題が、大いに気になるじゃないか。
Wikipediaの「幕末太陽傳」から引用する。
Wikipedia「幕末太陽傳」
「影響」の部分。
スタッフ、キャストのうち、今村昌平とフランキー堺は特にこの映画と川島から影響を受けている。今村が昭和56年(1981年)に製作した『ええじゃないか』は、舞台を両国橋周辺に移し時代も数年先としているが、『幕末太陽傳』でやり残した部分を映画化した気配が濃厚な作品だった。フランキーは生前の川島と東洲斎写楽の映画『寛政太陽傳』を作ろうと約束していたという。それが果たされずに川島が死亡したため、フランキーは俳優業の傍ら写楽の研究を続け、平成7年(1995年)に自ら企画・製作に参加して『写楽』(篠田正浩監督)を作り上げた。フランキーが高齢になったため、写楽役は真田広之が演じることになりフランキーは蔦屋重三郎役に回ったが、川島は「写楽はフランキー以外に考えられない」と語っていた。フランキーは師とあおぐ川島との約束を果たし、その翌年に死去している。川島を師と仰ぐ藤本義一は、舞台を大阪にした『とむらい師たち』の脚本で、勝新を川島に見立て、主人公を造型した。(葬式屋の生涯:墓場は、川島が好んで使用したシーン)。ラストで勝新が生と死の挟間で彷徨する地獄とも思えるシーンは、川島の出身地恐山そのものである。『ええじゃないか』、『とむらい師たち』は、どちらもCSで観ている。
歴史に「IF」はタブーを承知で、もし、川島雄三の脚本・監督、フランキー堺主演で『寛政太陽傳』が製作されていたら、『幕末太陽傳』に並ぶ代表作となったのではなかろうか。
さて、この本のことに戻る。
『生きいそぎの記』のやや暗い部分の引用が多かったが、鍋にビールを注いで大失敗する逸話などもあるし、川島と藤本の楽しい会話などもあるので、必ずしも全編通じて暗いわけではない。
とはいえ、やはり、読後には川島の病のことを思わないではいられなかった。
川島雄三の宿痾のことを思うと、いろんな感情が浮かんでくる。
なお、『生きいそぎの記』は、小説として脚色されている部分もあるから、巻末の講演記録と両方を読むことで、川島雄三という人物像がより鮮明に浮かび上がってくるように思う。
このシリーズ、これにてお開き。
長々とお付き合いいただき、ありがとうございます。
かつて家元が、「幕末太陽傳」より志ん生の「居残り佐平次」の方がいいね、
と言っていたことを思い出しました。
映画と落語、別物ですからね。
確か「居残り佐平次」の枕で言った言葉だったと思いますが、
そのあと家元が「居残り」をやるのですから、
おれの「居残り」を聞いてくれ、という意味合いがあったのでしょう。
あるいは、太陽傳の中の佐平次が病的で重い雰囲気であるのに批判的で、志ん生が描く佐平次の健康で軽い点を評価している、ということでしょうかね。
加えて、自分の高座でも志ん生と同じような佐平次を表現したのかな。