川島雄三という人ー藤本義一著『生きいそぎの記』より(3)
2018年 09月 24日
『鬼の詩/生きいそぎの記-藤本義一傑作選-』
このシリーズ、三回目。
撮影所の掲示板にあった張り紙を見て川島を訪ねた藤本は、川島の面接に合格し、川島が泊まっている宝塚の定宿に行くことになった。
「お湯、入ってますさかいに、どうぞ・・・・・・」
女将が去ると、監督は、窓際に立って、不安定に前後に揺れる体を踏みとどまらせたといった格好で、背広の釦(ぼたん)を外しながら、この旅館の湯は、ビニールパイプで温泉を引き込み、それをまたガスで温めるのだといい、泉質はやや塩分を含んでいるが、石鹸の泡立ちもいいし、ぬめりがないなどどいった。
おれは、監督が一個の釦に、かなり手古摺っている様子を奇妙な光景を見物するかのように眺めていた。釦穴をひろげようとする左の指先が外側に折れるような不自然さを示し、右の拇指と人差し指が、黒い一個の釦を抓もうとして何度も滑った。グリーンのジャージ系統の背広は、おれの前で、ゆっきうり前後に揺れつづけている。ようやくのことで釦は外れ、背広の前が開いた。おれは監督の背にまわって、両肩から背広を脱がしにかかた。徒弟制度の礼儀といったものである。
私は、川島雄三のことを、この本で初めて知ったと言ってよい。
だから、川島の病のことなどはまったく知らずにいた。
最初に、この後に続く文章を読んで、なかなかその姿が想像し難かったことを思い出す。
ひとつの肩が脱け、もうひとつの肩から袖を外そうとしたのだが、奇妙なことに、背広は一枚の板のように、監督の背に貼り付いているといった感触だった。おれは、力を籠めた拇指の先で、背中から背広を剥がすようにして、背広を脱がせた。その途端、監督の肩胛骨が不自然な捩れをみせて、肩先は顎をかすめるようになり、前のめりに崩れ、さらに愕いたことには、おれの手に握られている背広は、くるっと内側に巻き込んだ態で、筒状になった。一体、なにが起ったのかおれには皆目わからなかった。一瞬、唖然となり、次に、見てはいけないものを見た時に覚える動悸の昂まりと身体の慄(ふる)えを感じた。
「丹前!」
監督は両方の肩を体の前に巻き込んだ姿勢で、両胸を子供のように投げ出し、顎を突き出し、虚空の一点を睨み据えるようにして怒鳴った。
この後、藤本は監督の背広をハンガーにかけようとして苦労する。その特異な身体に合わせて、背広も特異な仕掛けがあったのである。
川島雄三が自らの姿を曝け出したことも、弟子入り志願者への面接の続きだったのではなかろうか。
“見てはいけないものを見た”藤本の態度は、川島にとってその面接に合格するものだったのかもしれない。
この夜、鍋を囲んで二人は飲んだ。
話はあちことにとび、はじめての夜は、由比正雪、丸橋忠弥といった謀反浪人の話が並んだ。おれは、次回作の構想だろうと考えているとそういうわけもなく、次回作は大阪の安普請アパートに犇く男と女の色と欲だといった。
二時間ばかりで、二人で二升近くの酒が空いた。おれは頭の芯に鈍い羽音が聞える感じがしたが、酒の酔は、頭の片隅に塊となって全身にはまわらなかった。緊張のせいもあったが、この人が一体どんな精神構造をもっていて、肉体の欠陥とどういうふうに結びついているのかを見守ろうとしているうちに、変な塊が頭の片隅に棲についたといっていい。
二人の、創作活動が、始まった。
今回は、本書のもう少し先の内容にしようかと思っていたのだが、やはり、紹介した宿での出来事は割愛できないと思った。
本書を読んでから、川島雄三という人を、その肉体のことを抜きには語れないと思った。
それは、精神面にも少なからず影響したであろうし、その結果作品にもその傷跡が残ったのではないかと思うのだ。
次回は、少し話を進めたい。