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本間雅晴という軍人のこと(3)ー今日出海著『悲劇の将軍』より。

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今日出海著『悲劇の将軍』(中公文庫)

 さて、三回目。

 この本は、本間雅晴と山下奉文に関する短篇の他に四つの作品が収められているが、中心になるのは題の通り、二人の軍人のことだ。

 山下奉文のことを書いた文章に、こう書かれている。

 軍司令官の本間雅晴中将はあまりに占領地行政が寛大すぎるというので、東條派で憲兵出身の田中静壹中将に代えられてしまった。しかし田中軍司令官の時代から軍紀頽廃の兆候が現われ出したし、現地人の離反が目立ち始めた。

 本間のことを書いた短編には、次のように書かれている。

 さて本間中将はマニラに晴れて入城し、先に述べた官邸に入ると、司令部通いで、夕方帰邸すると、副官とテニスをしたり、夜は読書に明け暮れし、文化工作にも肩を入れて、親善を機会あるごとに力説していた。しかしこんな文化司令官は当時の硬論派には気に入らず、殊に東條首相はバタアンの作戦が長引いたことを理由にして、相合わぬ彼を首にしてしまった。
 ちょうど更迭の電報が来た日に、報道部長と私は官邸に用があって行くと、このことを副官に耳打ちされ、早々に引退ろうとすると、
「まァいいじゃないか、一緒に飯を食おう」
 といかにも寂しげに言うのに、すぐにも帰れず、大食堂で最後の晩餐を共にした。どうしたことか、その時停電になって、銀の燭台に蝋燭を立て、しめやかな食事をした。
「ロンドンで公式のリセプション(招宴)に呼ばれると、必ず蝋燭を食卓に灯したものだが、期せずして今日は、本格のリセプションになったね」
 と灯影がゆらめき、達磨のような像がうしろに映って、私は酒盃を手にしながらも少しも心が弾まなかった。

 先に述べたマニラの官邸というのは、米国の高等弁務官(総督)セイヤアの官邸で、わざわざマニラ湾を埋めたてて建てた豪奢なもの、という説明のこと。

 蝋燭の灯りだけの大食堂での最後の晩餐。
 今日出海にとって、揺れる焔に照らされた本間の表情は、きっと忘れることのできない思い出になったことだろう。

 本間は、イギリスの大使館附武官を務め、英語が堪能だった。バタアン半島の付け根の町サン・フェルナンドで民家を借りた家で、蝋燭の灯りで読んだ本には、マニラ官邸にあった総督セイヤア夫人の蔵書も多かったらしい。
 
 ヨーロッパ的文化性を身に備えたばかりに、軍部からは親英派と言われ、当時の国家主義的硬論派からも軟弱武士と嫌われた。

 このへんの軍の事情は、日清・日露の時からは、大きく変貌していると言えるだろう。
 そういう意味では、本間は少し生まれるのが遅かった、ということかもしれない。

 その本間の不幸について。

 軍刀組の秀才で、仕事ができるので中将まで昇進したが、軍の潮流は彼の如き文化人をむしろ排斥し続け、どこかで躓けば首になっている人だった。比島派遣軍の軍司令官になって初めて躓いたのである。バタアン作戦が延引したことも十分弁解が立つことだった。マニラに入城した途端、大本営は最精鋭の師団を他へ転出する命令を出し、老兵未教育兵のみの守備隊でバタアンの大軍に当らしめたことは、むしろ大本営の認識不足であり、失態であるのに、本間将軍の責任にして更迭させてしまった。
 命令一本で動く軍にあっては、どんなに口惜しいと思っても後の祭である。対比政策が軟弱であってということもその理由で、大本営から派遣された某参謀は無断で司令官の名を使い、ひそかに捕虜の虐殺をしたことが、昨今になって判明したが、これが米国では「死の行進」と言われて、本間将軍は鬼畜の如き人物として米人の憤激を買った原因をなしている。

 戦犯として再びマニラに呼び戻された本間を裁く法廷は、皮肉にも、あの高等弁務官セイヤアの官邸、つまり日本軍軍司令官の官邸だった。

 起訴状の内容は、ほとんど本間の知らないことばかり。

 今日出海は、本間を弁護する証人の一人として、この法廷に出向いている。
 
 弁護団側の一隅に白髪と化した本間中将は私服姿で黙然と坐っている。彼は東京拘置所にいた頃、解体前の陸軍省が省内戦犯を調査した、処置せよと占領軍から命を受けた時、予備役の本間中将一人を槍玉にあげ、位階勲等を剥奪し、中将でもない単なる戦犯者として拘置所に送り込んだのである。そのために法廷でも軍服を纏わず、白麻の背広を着ていなければならなかったのである。
 もはや崩壊した筈の軍部の残党達がこのような陰謀を企て、本間一人を犠牲者に祭り上げた事実は世間の誰も知るものはいない。

 私も、この本を読んで初めて、このことを知ったが、その時、なんとも言いようのない虚しさを抱いたものだ。
 戦争は、人の心をも蝕む。

 約五十日の論争の末、法廷は彼を銃殺と決めた。

 他のすべての司令官達は絞刑になった。絞刑とは米軍はその非人道的罪状により武人と認めぬものに死刑を科す時の刑で、本間雅晴は日本では武人と認められず牢獄の中で位階勲等を剥奪されたのに、皮肉にも彼だけはマッカーサー元帥の計らいで、罪一等を減じて、武人として認められ、銃殺されたのである。

 自国の軍隊には惨い仕打ちを受けた本間だが、マッカーサーは彼のことを十分に敬ったということか。
 略服とは言え、軍服を着て、最後を迎えることができたことは、本間にとっては最後の救いではなかっただろうか。

 本間夫人の富士子さんは、法廷に弁護側の一人として立つために、マニラを訪れていた。
 
 「鬼畜」と言われたホンマの夫人の世話をするのを、皆が嫌がった。

 ある中尉の看護婦がこの番に当り、いやいや夫人を迎えて、生活を共ににしたが、四十余日の滞在後、夫の銃殺の判決を聞いて帰国する時、この女中尉は夫人に対して涙を流して別れがつらいと述べたという。彼女は夫人の世話をやいているうちに、こだわりのない夫人の性格を理解し、彼女を好きになってしまったのだ。夫と共にロンドンにもいた。軍縮会議でジュネーブにもパリにもいた。確かに洗練された社交性を持っている筈だが、それよりも目立つのはまことに飾らぬ質素で素直な夫人の天性である。当時十八、九にしかならぬ令嬢の尚子さんは自作の和歌を綴じて小さい和本に作り、暗い牢獄で死を待つ父に僅かの慰めを贈った。
 戦後、今日出海は、主人のいなくなった本間家を訪れている。
 その文章からも、富士子夫人や尚子さんの人柄がしっかり伝わってきた。

 今日出海は、証人として訪れていたマニラから帰国する前日、本間に面会することができた。

 チョコレートの入った丸い缶が堆高く積んであった。監視のMPが自分の小遣いで買っては差入れしたものである。あるMPは私に言った。
「将軍と朝夕会っていると、どうして死刑に値する悪人と思えよう。あんな立派な人に接して俺は名誉だ」
 かくしてチョコレート缶が山と積まれたのだろう。
 本間将軍は今日の判決はすでに覚悟していたようだ。今さら何も言うことはない。
「ただ正しい日本を建設してくれ」とそれだけがわれわれに対する遺言だった。


 本間の遺言、「正しい日本」の建設は、果たして今進んでいるのか・・・・・・。
 

 今日は、八月十五日。

 落語愛好家仲間で、我らがリーダー佐平次さんのブログをきっかけに本棚なら取り出した本で、あらためて本間雅晴という軍人のこと、そして、戦争の悲惨さを振り返ることができた。


 海外事情に詳しい文人派の軍人、という意味で、本間雅晴と山本五十六は共通点がある。
 二人とも、客観的には日本の不利な戦いであることを分かっていながら、軍人として命に従い、できる限りの役割を果たしたのだと思う。

 しかし、彼らの知力やその命は、戦争ではなく、もっと別な道で生かすことができたのではないだろうか。

 まずは、山本の何百、いや何万分の一しか知られていない本間雅晴という軍人のことを、一人でも多くの日本人が知ることは、悪い事ではないと思う。


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Commented by saheizi-inokori at 2018-08-15 12:15
フィリピンを攻撃するにあたり再三の念押しにも関わらず、大本営はマニラを落とすというシンボル効果を優先、バタアンは二の次だとしたため、敵の敗走という最大のチャンスを見送ったのです。日本軍敗退の原因は最初から最後まで東條、大本営にあつたのですね。いまアベがその代わりを務めようとしています。
Commented by kogotokoubei at 2018-08-15 21:42
>佐平次さんへ

比島では、とにかく行き当たりバッタリのようでしたね。
レイテ戦が始まって参謀長として武藤中将が着任し司令部に現れた時に、参謀たちに言った言葉が「レイテってどこだ」だったとのこと。
勝てるはずがない。
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by kogotokoubei | 2018-08-15 11:09 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛