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ドナルド・キーン著『日本人の戦争ー作家の日記を読むー』より(4)

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ドナルド・キーン著『日本人の戦争ー作家の日記を読むー』

 ドナルド・キーン『日本人の戦争ー作家の日記を読むー』から最終の四回目。

 先に、「あとがき」から、永井荷風の日記のことについてキーンの説明を引用したい。

 永井荷風の日記は戦後になって書き直した、殊に軍閥への憎悪や占領軍に対する好意を強調した、という意見が、かなり前から広く言われて来ました。しかし、どの点が書き直されたか証明できる訳ではありません。とは言え東都書房刊の「永井荷風日記」と、岩波書店から発行された「断腸亭日乗」は確かに相当違います。荷風自身か、荷風の名誉を重んじる編集者が、元の日記にかなり手を加えたに違いありません。
 例えば、昭和二十年九月二十八日の記載ですが、東都書房の本ではこうなっています。

   昨朝陛下徴服長徴行して赤坂霊南坂下なる米軍の本営に馬氏元帥を訪はせ給へりと云。

 一方、「断腸亭日乗」では、こう書かれています。

   昨朝天皇陛下モーニングコートを着侍従数人を従へ目立たぬ自動車にて、赤坂霊南坂下米軍
  の本営に至りマカサ元帥に会見せられしといふ事なり。

 意味は同じですが、東都書房のテキストにはいかにも荷風らしいエスプリがあります。徴服(一目につなかい粗末な服装)と徴行(身分の高い人が人目を忍んで外出する)といった皮肉が、岩波書店のテキストからは消えています。また、「馬氏元帥」も「マカサ元帥」より遥かに面白いでしょう。前者には政治的皮肉がはっきり現れ、大げさな言葉遣いが滑稽な雰囲気を醸し出すのに対し、後者からはユーモアが消され、事実を淡々と述べるに過ぎない調子になっています。

 キーンは、他の二つの日記の違いを紹介した上で、東都書房版の“原作”を本書では採用したと書いている。

 その荷風の日記のことを、「第五章 前夜」から。

 永井荷風にとっては、この戦争は軍部によって被った生活の不便以外の何物でもなかった。これまでずっとそう思ってきた荷風は、自分の屋敷が灰燼と帰した時、戦争が何かを初めて知ったのだった。荷風は仮の宿を転々とし、その三度とも焼け出された。今や、リプトンの紅茶がないどころの話ではなくて、荷風は本物の窮乏生活に苦しんでいた。五月一日、荷風は「水道涸渇す」と日記に書いている。ガスは、すでに先月十五日の空襲以来切れていて、「毎日炊事をなすに取壊し家屋の木屑を拾集めて燃やすなり。戦敗国の生活、水なく火なく、悲惨の極みに達したりと謂ふべし」。


 明治十二年(1879)生まれの荷風、昭和二十年は六十六歳。
 彼が『濹東綺譚』を発表したのは昭和十二年。戦前は印税などのおかげで、経済的に困っていたわけではなかった荷風にとって、あの戦争はまったく迷惑な出来事でしかなかった。
 荷風にとって、日本はすでに敗北していた。罹災免税の手続きをするために税務署へ行った荷風は、その手続きが煩雑なので諦めた。誰も、手を差し伸べる者とていなかった。荷風は、自分を見失ってしまったかのように見える。あらゆることが、荷風を苛立たせた。しかし荷風の憎悪の対象はあくまで憲兵であって、アメリカ人ではなかった。

   東京市街焦土となり戦争の前途を口にするもの、憲兵署に引致せられ、又郵書の検閲を受け
  罰せらるるゝ者甚多しと云。

 荷風が日記に記録していることの多くは、ただの風聞に過ぎなかった。しかし荷風は、目黒の祐天寺近くに住む占い師が、戦争は六月中に日本の勝利で突然の終局を迎えると予言したことを、日記に書き留めずにはいられなかった。新宿笹塚あたりでも、お地蔵さまのお告げとして、やはり戦争の六月終結という流言が流れていた。
 その六月になっても、一向に戦争の勢いは衰える様子がなかった。もっとも、東京の空襲は以前より少なくはなっていた。荷風は六月二日、友人と共に東京を離れる。神戸から遠くない明石にある友人の故郷に、一緒に疎開するよう勧められたからだ。しかし二人が到着した時には、すでに故郷の家は避難民で一杯で空き部屋がなかった。近くの寺や友人の家に仮寓して空襲に遭った後、二人は岡山に向かう。ここでも、まるで待ち受けていたかのように荷風は空襲に見舞われた。
 この時期、荷風は山間の小さな町勝山に疎開しているかつての弟子、谷崎潤一郎に手紙を書いている。谷崎は小包を送って寄越し、中には鋏、小刀、朱肉、半紙千余枚、浴衣一枚、角帯一本その他が入っていた。「感涙禁じがたし」と荷風は書いている。
 
 荷風は、よほど谷崎の気配りが嬉しかったのだろう。
 岡山で荷風は八月六日のことを知った。
 日記には八月十日に、「広島市が消滅したニュースが岡山の人々を戦々恐々とさせている」と書いている。
 谷崎は勝山に谷崎を訪ねる決心をした。
 荷風は、勝山で谷崎夫婦に手厚くもてなされた。

 岡山に仮寓先に戻ると、友人が言うには、今日の正午にラジオ放送があり、日米戦争が突然終わったことが公表されたという。「恰も好し」と荷風は日記に書き、日暮れには友人たちと「平和克復」の祝宴を張った。
 戦争が終わったというニュースに永井荷風は、信じられないような平静さで対応した。これで平和になり、白米を見て感涙にむせばなくてもいい戦前の生活が回復される、と荷風は思ったかもしれない。

 そんな荷風と対照的だったのは、山田風太郎だった。
 荷風が六十六歳だったのに対し、大正十一年生まれの山田は、この時、二十三歳。
 山田は、ヒットラーの死を知った時、日記でヒットラーを絶賛している。

   近来巨星しきるに堕つ。ヒトラーの死は予期の外にあらずといえども、吾らの心胸に実に
  いう能わざる感慨を起さずんばやまず、彼や実に英雄なりき!
   当分の歴史が何と断ずるにせよ、彼はまさしく、シーザー、チャールス十二世、ナポレオン、
   アレキサンダー、ピーター大帝らに匹敵する人類史上の超人なりき。
   
 そして、その山田や伊藤整など他の作家たちの原爆投下後の日記。

 山田は八月十四日、日記に書いている。

   日本は最後の関頭に立っている。まさに滅失の奈落を一歩の背に、闇黒の嵐のさけぶ断崖
  の上に追いつめられている。
   硫黄島を奪い、沖縄を屠ったアメリカ軍は、日夜瞬時の小止みもなく数千機の飛行機を
  飛ばし、厖大な艦隊を日本近海に遊弋(ゆうよく)せしめて、爆撃、銃撃、砲撃をくりかえし
  ている。都市の大半はすでに廃墟と化した。無数の民衆は地方に流鼠(りゅうざん)した。
  あまつさえこの敵は戦慄すべき原子爆弾を創造して、一瞬の間に広島を全滅せいめた。
   しかも唯一の盟邦ドイツを潰滅させた不死身のごときソビエトは、八月八日ついに日本に
  対して宣戦を布告したのである。
   怪物支那民族を相手に力闘することすでに八年、満身創痍の日本が、なおこの上米英ソを
  真正面に回し、全世界を敵として戦い得るか?

 伊藤整は八月十二日の日記で、空と海からの攻撃の下で祖国が絶体絶命の境に追い込まれたことを認めた。しかし伊藤は、なお戦闘が延々と続くと信じていた。

   大和民族はどういう境遇になっても、戦えるところまで戦うであろう。しかしその実力、
  最後の実力は国民にも分らず、敵にも分っていない。我々はまだまだ戦う力があると信じている。

 大佛次郎は八月十一日、政府がスイスとスウェーデンの公使を介して皇室は残すという了解のもとポツダムの提議に応ずる、と回答したことを友人から聞いた。大佛は、日記に書いている。

   結局無条件降服なのである。嘘に嘘を重ねて国民を瞞着し来たった後に遂に投げ出した
  というより他はない。国史始って以来の悲痛な瞬間が来たり、しかも人が何となくほっと
  安心を感じざるを得ぬということ!卑劣でしかも傲慢だった闇の行為が、これをもたらした 
  のである。

 海野十三は、八月九日にソ連が北満および朝鮮国境を越えたニュースを聞き、頭がふらつき、最悪の事態が起ったと思った。日本の強硬な反共姿勢にも拘らず、政府は不可侵条約を結んでいたソ連が戦争終結の仲介をしてくれるに違いないと信じていた。

 山田風太郎は、信じていた日本の勝利に疑いを抱き始めたことが、分かる。

 伊藤整は、不安ではあるものの、日本は負けるはずがない、という気持ちが、まだ敗戦の不安より勝っている。

 大佛次郎は、怒っている。

 「鞍馬天狗」や「赤穂浪士」で有名な大佛は、明治三十年(1897)生まれで昭和二十年当時は、四十八歳。玉音放送から四日後の八月十九日に、「英霊に詫びる」の第一回を朝日新聞に掲載した。(第二回以降は宍倉恒常、吉川英治、中村直勝)。東久邇宮内閣の参与に招聘されたので、治安維持法の廃止、世論調査所の設置、スポーツの振興などを提言するが、その内閣が一ヶ月半で総辞職してしまう。戦後は『パリ燃ゆ』『天皇の世紀』などノンフィクションライターとしても活躍した。

 海野十三は知らない方も多いと思う。
 Wikipediaから引用。
Wikipedia「海野十三」
海野 十三(うんの じゅうざまたはうんの じゅうぞう、1897年(明治30年)12月26日 - 1949年(昭和24年)5月17日)は、日本の小説家、SF作家、推理作家、漫画家、科学解説家。日本SFの始祖の一人と呼ばれる。本名は佐野 昌一(さの しょういち)。
来歴
徳島市安宅町生まれ。徳島市立福島小学校3年生の時、神戸に移住。神戸一中(現兵庫県立神戸高等学校)を卒業後、早稲田大学理工科で電気工学を専攻。逓信省電務局電気試験所に勤務しながら、機関紙などに短編探偵小説を発表。

1928年(昭和3年)、雑誌『新青年』から依頼を受け、探偵小説「電気風呂の怪死事件」を発表して本格的文壇デビュー。

太平洋戦争以前には軍事科学小説を量産していたが、開戦後はその方向の作品の発表をやめ、ユーモラスな金博士シリーズ等を執筆。1941年10月、海軍従軍作家として徴用令状が届き、1942年2月11日から3月28日まで当時南方ラバウル方面で活動していた青葉型重巡洋艦「青葉」に乗艦する。徴兵検査で第二乙種となり不合格だった海野は、軍艦に乗艦したことに感激。2月21日の妻への手紙に、極めて強い印象を受けたことを記している。健康を害し、4月30日帰国。その後、敗戦に大きな衝撃を受ける。

1946年(昭和21年)2月の友人小栗虫太郎の死が追い打ちをかけ、戦後を失意の内に過ごす。健康を害し、この時期しきりに喀血する。

1949年(昭和24年)5月17日、結核のため東京都世田谷区の自宅で死去。多磨霊園に葬られた。
 この内容から、正岡子規を思い浮かべていた。
 
 大佛と同じ明治三十年生まれなので、昭和二十年当時四十八歳。

 ソ連が宣戦布告したことを知ったときの日記の内容を含め引用したい。

 海野にとって、日本の勝利どころか戦争の平和的解決の望みさえ絶たれたことは明らかだった。海野は書いている。

   わが家族よ!
   (中 略)
   われらが斃れた後に、日本亡ぶか、興るか、その何れかに決まるであろうが、興れば本懐
  この上なし、たとえば亡ぶともわが日本民族の紀元二千六百五年の潔ぎよき最期は後世誰か
  が取上げてくれるであろうし、そして、それがまた日本民族の再起復興となり、吾ら幽界に
  浮沈せる者を清らかにして安らかな祠に迎えてくれる事になるかもしれないのである。
   此の期に至って、後世人に嗤わるるような見ぐるしき最期は遂げまい。
   わが祖先の諸霊よ!われらの上に来りて、俱に戦い、共に衛(まも)り給え。われら一家  
   七名の者に、無限不尽の力を与え給わんことを!

 他の多くの日本人と同じように、海野は戦に敗れた日本で生きていくことは想像できなかった。海野は死ぬ覚悟をし、家族も道連れにするつもりでいた。

 あの戦争の時代、作家に限らず国民は一人一人、違った思いで生活していたことだろう。
 海野は、ある典型的な日本人の心情を日記に残していたと言えなくもない。
 神国日本の敗戦などありえない、と思っていた人は少なくない。

 永井荷風のような人は、例外的だったと思う。
 もちろん、年齢などによっても、戦争への向き合い方は違っていただろう。
 六十台だった荷風、四十台だった大佛、海野、三十台の高見順、そして、まだ二十代を迎えたばかりだった山田風太郎。

 取り上げた日記は、山田風太郎は「戦中派不戦日記」と「戦中派焼け跡日記」、高見順は「高見順日記」、伊藤整「太平洋戦争日記」、大佛次郎「大佛次郎 敗戦日記」、そして永井荷風は東都書房の「永井荷風日記」。

 このシリーズで取り上げられなかった日記は多い。
 しかし、それぞれの作家たちの戦争への向き合い方があるが、それらの日記からひしひしと伝わるのは、戦争の空しさであり、悲惨さだ。

 物理的な面のみならず、精神面でも日本人が打ちのめされたのが、あの戦争だったことを伝えている。

 最後に、巻末の「文學界」2009年9月号に掲載されたドナルド・キーンと平野啓一郎の対談から、キーンの言葉を引用したい。
キーン 私が戦地で出会った兵たちの日記は、忘れがたいものでした。まだそういう日記があったら、どこまでも探しに行きたいほどです。南太平洋のどこかの島で食べ物がなくなって、マラリアに罹って、近いうちに死ぬだろうと予期した兵が、家族について書く。そして最後の一行は英語で、これを拾うアメリカの軍人は家族に返してくださいと書いている。そういうことが、私は忘れられないんですね。戦争のとき、私はアッツ島と沖縄にましたが、あのときのことを忘れません。そして、今度この本を書いたのはそのためです。あのとき読んだ日記、あるいは当時の日本の捕虜との付き合いは決して忘れられません。


 キーンは、二度、死んでもおかしくない体験をした、と語っている。
 一度目は沖縄に向かう洋上で、「カミカゼ」に襲われた時。特攻機操縦士のミスで助かった。
 もう一度は沖縄に上陸してから。「捕虜になったら殺される」と日本兵から脅されていた市民が隠れる洞穴でのこと。投降させようと洞穴に入ると、そこに機関銃を構えた日本兵がいた。驚いて飛んで逃げたが、なぜか日本兵が引き金を引かなかった。

 そんな体験をしたキーンは、今や日本人。
 九十歳を超える今も、憲法九条を守ること、そして反戦を力強く訴えている。

 八月六日の広島、そして、九日の長崎への原爆投下を経て、十五日を迎える。
 あれから、七十三年。

 今日、広島での平和記念式典で、安倍首相は「核兵器国と非核兵器国の橋渡しに努め、国際社会の取り組みを主導していく決意だ」と言ったようだが、どんな“橋渡し”をすると言うのだ。
 相変らず、昨年7月に国連で採択された核兵器禁止条約には触れなかった。
 なぜ、唯一の被爆国が、「核廃絶」と言えないのか。

 まだ全国に十五万人を超える被爆者の方がいらっしゃる。
 放射能による染色体異常で、何十回となく手術を受けてきた被爆者の方がいらっしゃる。
 そういう人々に対し、国はどう向き合ってきたのか。

 そういう意味で、あの戦争はまだ終わっていない。
 
 愛国という言葉が、文字通りの意味では受け取られていない状況があるが、あえて書こう。
 敵国だったドナルド・キーンと、現在の日本政府の首脳の人々と、果たしてどちらが日本にとって愛国者と言えるのか。

 四回の記事で取り上げた日記は、本書の中のほんの一部。
 興味のある方は、ぜひお読みのほどを。
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Commented at 2018-08-07 12:23 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by kogotokoubei at 2018-08-07 20:08
>鍵コメさんへ

答えは、ハイ、です。
Commented at 2018-08-08 09:48 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by kogotokoubei at 2018-08-08 10:12
>鍵コメさんへ

九十を越えた両親が健在なのは、幸せなことだと思います。
最近になって、年に一度は故郷に帰っているのは、いろんな話を聞きたいからでもあります。
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by kogotokoubei | 2018-08-06 21:18 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛