噺の話

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『たがや』から思う、都筑道夫と志ん生、そして安藤鶴夫のこと。

 今日7月11日は、旧暦で5月28日。

 隅田川花火大会は、享保18(1733)年の5月28日に始まった。

 花火大会公式サイトから、引用する。
隅田川花火大会の公式サイト

川開きと花火その由来

歴史的記録の残るものは両国の花火が最古となっています。江戸時代の享保17年(1732)の大飢餓で多くの餓死者が出て、更に疫病が流行し国勢に多大な被害と影響を与えました。
幕府(8代将軍吉宗)は、翌18年(1733)5月28日(旧暦)犠牲となった人々の慰霊と悪病退散を祈り、隅田川で水神祭を行いました。この時に、両国橋周辺の料理屋が公許(許可)により花火を上げたことが「両国の川開き」の由来とされています。

※江戸時代、隅田川は別名「大川」とも呼ばれていました。古典落語の中では大川と表現されていることがあります。
※両国橋の名称の由来、貞享3年(1686)武蔵国と下総国の国境に掛かっていたので両方の国をつなぐ橋として両国橋の名がついたそうです。

 落語のことを含む注釈も含め、なかなか結構な説明だ。

 両国の花火、となれば落語『たがや』だが、あの噺については、ずいぶん前に書いた。
2009年6月3日のブログ

 あの記事では、由来や画像を「NPO法人 すみだ学習ガーデン」さんのサイトからお借りしたのだが、同法人は今年三月末で解散になったらしい。
「すみだ学習ガーデン」のサイト
 花火のことを知るのに大いに参考になったのだが、残念。

 さて、その『たがや』で思い出すことがある。

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 この噺となると、まずは三代目桂三木助、そして、三遊亭金馬を思い浮かべるが、志ん生ももちろん手がけており、立風書房「志ん生文庫」の「志ん生長屋ばなし」に収められている。

 この本、解説は推理作家、SF作家、そして翻訳家としても活躍した都筑道夫。

 昭和四年生まれの都筑道夫、まずは、落語との出会いから。

 古今亭志ん生を最初に聞いたのは、レコードによってで、演目は「替り目」だった。わが家にはそれまでにも、柳家金語楼の「兵隊」や、三遊亭金馬の「居酒屋」のレコードがあったが、三歳上の兄が買ってきた志ん生の「替り目」は、たちまち私の気に入って、口まねするくらい、なんども聞くようになった。

 志ん生「替り目」との出会いは、小学校の時。

 兄の影響もあってレコードの落語が好きになった都筑道夫は、寄席にも出向くようになる。
 神田の神保町にあった花月、上野の鈴本、人形町の末広、四谷駅から四谷三丁目のほうへ少し行った左がわの裏通りにあった喜よし、たしか現在地とは反対側にあった新宿の末広、あちらこちらに出かけたが、山の手線の大塚駅前、天祖神社のわきの道を入ったところに、大塚鈴本という寄席が出来ると、そこへいちばん頻繁に行くようになった。私たちの家が小石川の江戸川橋にあって、ほかの寄席よりも、この大塚鈴本が近かったからだ。
 短篇小説「円太郎馬車」や長篇小説「寄席」、寄席芸能に関する随筆で、注目はじめていた正岡容が、そのこと大塚の三業地のなかに住んでいて、隔月だったか、毎月だったか、「寄席文化向上会」という会を、大塚鈴本で主催していた。現在の目で見ると、なんとも嫌味な名前の会だけれども、戦争ちゅうだから、しかたがない。
 正岡容については、今さら説明するまでもないだろう。

 都筑道夫の兄は、落語好きが高じてその後、噺家になった。

 たしか昭和十八年ごろだったが、兄は正岡容のところへ出入りしていたので、その口ききで古今亭志ん生の弟子になった。兄を通じて、志ん生の芸談を聞くのが、私の楽しみになった。

 このお兄さん、志ん生門下では、古今亭志ん治を名乗った。

 昭和二十一年には、志ん生が大陸から戻って来ないこともあり、正岡容のすすめで五代目古今亭今輔門下となり、桃源亭花輔を名乗る。その三年後には、鶯春亭梅橋で真打昇進している。
 そうそう、桂歌丸が五代目今輔に入門したのが昭和二十六年なので、当時、一門の真打として梅橋が同門だったということになる。

 私は原稿を書いて生活するようになっていて、なるべく兄の内面には立入らないことにしていたから、くわしい事情はわからない。なにしろ、私はまだ十九、二十、独立して生活をはじめるのに、精一杯だった。けれど、兄が悩んでいることはわかった。その言葉のはしばしから、しだいに私は落語家がきらいになっていった。
 いまでも、私は落語は好きだが、落語家は好きではない。ふたたび、ホールの落語会なぞへ通うようになったのは、兄の鶯春亭梅橋が二十九歳で、若死にしてからである。寄席はすっかり変っていた。志ん生の芸は円熟して、「火焔太鼓」の底ぬけのおかしさ、「今戸の狐」の深い味わい、「黄金餅」の陰惨さが笑いに突きぬけているところ、悟りの境地のような笑いの世界に、私は堪能した。

 小学校で知ったレコードの志ん生から始まる、長い年季の入った志ん生ファンが、都筑道夫ということだ。

 しかし、その志ん生に、異変が起きた。

 その志ん生が倒れ、桂文楽の調子がおかしくなったときには、私はもう落語は聞くまいと思った。志ん生が再起して、ホールの落語会に出たり、独演会をひらくようになると、私はできるかぎり逃さずに出かけていった。
 しかし、人形町の末広で独演会を開いたときには、あまりのいたましさに涙が出た。小泉信三が好きだったという大津絵の「冬の夜」をうたったのだが、私はごく前のほうにすわっていたのに、声がかすれ、言葉はもつれ、まったき、聞きとれない。おまけに最後の演目の「たがや」では、武士の首のかわりに、たがやの首を飛ばしてしまったのである。
 それだけなら、名人も病いには勝てない。そうなってまで、独演会をひらきたがる志ん生に、拍手を送るだけですんだのだが、翌週、ある週刊誌にその独演会の記事がのった。筆者は安藤鶴夫で、まるでなにごともなく、好調な独演会であったかのように、しかも大津絵「冬の夜」をうたったあと、小泉信三をしのんで、志ん生が泣いている姿をえがいて、きわめて感動的な記事にしていたのだ。
 嘘をつきやがれ、と私は思った。あれは、めちゃめちゃな独演会だった。感動的なものがあったとすれば、それに黙ってつきあっていた客たちの、志ん生に対する愛情だけだ。私は落語家と落語評論家が、またあらためて嫌いになって、それからはもっぱらレコードで、志ん生を聞くようになった。

 『たがや』で、武士の首ではなく、たがやの首を飛ばすという筋がないわけではない。元々は、そういう筋だったとも言われる。

 しかし、この「志ん生長屋ばなし」収録のこのネタでも、飛ぶのは武士(殿さま)の首となっているから、わざと志ん生が筋を変えたわけではない。

 都筑道夫と安藤鶴夫が、同じ高座を聴いて、なぜ、こんなことが起ったのか。

 アンツルさんだって、その日の高座や大津絵を高く評価していたとは思えない。
 楽屋での志ん生の姿が、もっとも印象深かったのだろうし、病後の志ん生の高座を批判することを憚る気持ちが、新聞の記事につながったのだろう。

 かたや、小学生の頃からの筋金入りの志ん生ファン都筑道夫としては、「あれは、私の好きな志ん生ではない」という思いが強かったのだろうし、あくまで高座を客観的に見る姿勢が強かったのではないだろうか。

 また、「嘘をつきやがれ」という言葉からは、兄のみならず正岡容と懇意にしていた都筑道夫だから、正岡のライバル(?)アンツル、という強い対抗意識も感じる。

 隅田川花火大会が始まった旧暦5月28日、『たがや』に始まり、同じ志ん生の独演会の時間と空間を共有していた二人のことまで、思いは発展していったのである。

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Commented by 寿限無 at 2018-07-12 12:19 x
「たがや」ですか。
家元の談志もたがやの首を飛ばしていたっけ!
Commented by kogotokoubei at 2018-07-12 12:58
>寿限無さんへ

談志は、そうしてましたか。
原作に忠実に、ということより、家元らしさですね。
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by kogotokoubei | 2018-07-11 19:54 | 小説家と落語 | Comments(2)

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by 小言幸兵衛