噺の話

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宇野信夫という人ー矢野誠一著『文人たちの寄席』より。

 私のブログは、芋づる式なことが、多い。

 歌丸の記事からのつながりで、最初の師匠五代目古今亭今輔のことを宇野信夫の本を元に書いた。

 しかし、宇野信夫という劇作家のことを知らない人も多いかもしれない。
 私も、落語を通じて知るようになった人で、そう詳しくはない。

 歌舞伎作品を元にしたものが多いが、落語をいくつか創作している。
 柳家小満んの『大名房五郎』と『江戸の夢』を聴いているが、元は円生のためにつくった噺。円生のために作った作品は、他に『小判一両』という噺もある。
 雲助では『初霜』を聴いている。元は師匠馬生のための創作。
 前の記事では、『霜夜狸』を五代目古今亭今輔が真っ先に演じてくれたことを紹介した。

 正直なところ、劇作家としての宇野信夫については、よく知らない。

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矢野誠一著『文人たちの寄席』(文春文庫)

 ということで、矢野誠一さんの『文人たちの寄席』を引っ張り出した。
 本書の初版は、平成9(1997)年4月に白水社から発行され、文春文庫化は、平成16(2004)年。

 ずいぶん前のことだが、夏目漱石について書いた記事で、本書から引用している。
2009年2月9日のブログ
 また、正岡子規のことを書いた記事では、子規作のなんとも楽しい地口を引用したことがある。
2009年12月22日のブログ

 さて、本書の宇野信夫の章。
 冒頭から、まず引用。

 「昭和の黙阿彌」というのが、劇作家宇野信夫につけられた称号のようなものだが、嬉しくなかったわけはない。市井のひとたちの哀しい営み、世態、人情を描かせてこれだけの芝居書きはそう出るものじゃない。劇作家とよぶよりも、狂言作者がふさわしい最後のひとだった。

 「昭和の黙阿彌」とは、これまた凄い形容。
 1904(明治37)年埼玉県熊谷に生まれ、浅草は橋場に育った宇野信夫は慶應大学文科在学中から「三田文学」に戯曲を発表。1933年の『ひと夜』が友田恭助の築地座で上演され劇作家デビューを果たしたのだから、本人の言うように「出発点は新劇」だった。出世作となったのは、1935年二代市川左團次による『吹雪当峠』に次いで上演された六代目尾上菊五郎が破戒僧龍達を演じた『巷談宵宮雨(よみやのあめ)』で、以後六代目との提携をふかめ、『小判一両』『春の霜』『柳影沢蛍火』『怪談蚊喰鳥』など次々と歌舞伎に新作を提供する。
 1953年に、中雁治郎・扇雀親子(もちろん先代)のため脚色新演出にあたった近松門左衛門『曽根崎心中』は空前のヒット作となり、森鴎外『高瀬船』『ぢいさんばあさん』、谷崎潤一郎『盲目物語』などの脚色作品もくりかえし上演されている。

 そうだったんだぁ。
 二十代で、劇作家としてデビューしていたんだ。

 引用を続ける。

 1972年に藝術院会員に、85年には文化功労者に選ばれるなど、晩年の宇野信夫は劇界の長老的存在になるのだが、その長老は、日本敗戦まで住んだ浅草橋場界隈の下町的風情をなつかしむことしきりで、自分の作品の根底に息づくそのあたりの気分や、暮しのなかでさり気なく使われている魅力ある言葉のあれこれを、じつにしばしば洒落た随筆に仕立てていたものだ。
 なかでも、この橋場で送った学生時代の、おなじく若いまだ世に出ない落語家たちとの交流ぶりをくり返し描いたものは、このひとの晩年の随筆のなかでも珠玉の輝きを見せている。
 その“珠玉の輝き”を見せている随筆について、さらにこのように矢野さんは書いている。
 そんな若き日の落語家との交流を描いた随筆の極め付けと言っていいのが、1983年4月から85年8月まで二十七回に及び国立劇場演藝場のパンフレットに連載された「いまはむかしのはなしかの話」で、やたら面白くて、毎回が楽しみだったのを思い出す。

「いまはむかしのはなしかの話」は、昭和61(1986)年に河出文庫化(『今はむかしの噺家のはなし』)されていて、前の記事で、歌丸の最初の師匠五代目古今亭今輔のことを紹介した『私の出会った落語家たち』の底本となっている。

 この後、矢野さんは、橋場に集まった当時の売れない若い落語家たちのことを、少し紹介している。
 
 いったいなにがきっかけで、そんな坊っちゃん書生と落語家のつきあいが始まったかについて、宇野信夫にもはっきりした記憶はないらしい。
 と矢野さんは書いているが、実は、文庫版の『私の出会った落語家たち』には、『今はむかしの噺家のはなし』にはなかった「橋場の家」と「路地の痴話」という章が『昭和の名人名優』という著作から収録されており、「橋場の家」に、初めてつき合った噺家が、蝶花楼馬の助であったことが書かれている。
 金馬を知っている友人がいて、新石町の寄席立花亭で金馬がトリをとっていた時、その友人に連れられ楽屋に行った際、馬の助もいた。宇野は馬の助の『鰻の幇間』や『干物箱』が好きだと言うと本人が喜んで、「いずれお宅へうかがいます」と言って、数日後、橋場を訪ねたことがきっかけらしい。本名、小西万之助。その後、八代目金原亭馬生になった人で、志ん生の大の友人。自ずと、橋場には甚語楼時代の志ん生や当時柳楽だった八代目可楽が入り浸ることになった。

 『私の出合った落語家たち』によると、父親が出張所にしていた橋場の家には二軒の貸家、蕎麦屋と道具屋がついていて、その家賃が宇野信夫の生活費となっていたようだ。そして、貧乏落語家がやって来ると、よく隣の蕎麦屋から天麩羅蕎麦をとってご馳走してあげたらしい。

 さて矢野さんの本、宇野信夫の章の締めの部分。

 学校の教室や書物からは得られないざまざまなことを、落語や講談から学んだことに感謝しつづけ、遠慮なくひとをさらってしまう歳月に、やがては自分もさらわれてゆくとしていた宇野信夫が、ほんとうにそうなったのは1991年10月28日のことだった。

 志ん生のマクラ、「こんなこと、学校じゃぁ教えない」の名科白を思い浮かべる。

 若かりし日、売れない落語家たちとの交流によって得た、学校じゃ教えないいろんなことや体験が、「昭和の黙阿彌」を生み出すための大きな財産となったに違いない。

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by kogotokoubei | 2018-07-09 21:53 | 落語家の支援者 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛