桂歌丸という噺家さんのこと。
2018年 07月 03日
それは、三遊亭小円遊について書いた、2013年10月の記事。
談志の本を元に、「笑点」でつくられた“キザな男”というレッテルが、あの噺家さんの重荷になった、ということを書いたものだ。
これまでにも、桂歌丸が入院するとか、あの番組を降板するなどで話題になると、この記事のアクセスが急に増えていたが、今回は尋常じゃない。
やはり、歌丸という噺家さんの影響力は大きいと痛感。
私が体験した歌丸の高座で印象深いのは、何と言っても一昨年の末広亭5月上席の二日目。
あれは、副鼻腔炎の手術から退院してから行った、昼夜居続けの日で、昼の主任で『おすわどん』を聴いた。前の年と同様、板付きだった。
ちなみに、夜の部は真打昇進披露興行。
2016年5月3日のブログ
あの日が、私が体験した末広亭の最多来場者数日だ。
ブログの内容を少し振り返ってみる。
まだ午後1時を少し回ったばかりなのに、「立ち見」とのこと。
五日までの昼の部の主任が、桂歌丸・・・あの、笑点降板発表効果、ということもあるか。
どこかでお茶でもしようか、と思わないでもなかったが、覚悟(?)を決めて会場に入る。
立ち見を含め、とにかく、凄い入りだ。
昨年も同じ五月上席の真打昇進披露も歌丸が昼の主任で立ち見だったが、それ以上。
桂竹丸の高座の途中だったが、立ち見のお客さんを含め、彼の漫談で笑いの渦、という状態。
笑いたい人、あるいは、寄席初体験のお客さんも多そうだ。
しばらく後ろで聴いていた。
二階に上がる階段にも、座っているお客さんがいたので、その横に腰を掛けていた。
小南治の高座が始まった。
そうそう、あの番組の降板を発表したばかりの主任の高座だったなぁ。
その一年前には、やはり板付きで『城木屋』を、二重に取り巻く立ち見の客の一人として聴いた。
2015年5月6日のブログ
晩年積極的に歌丸が取り組んだ円朝作品については、聞かず嫌いを後悔した高座が、2012年の国立演芸場の『双蝶々 雪の子別れ』だった。
2012年4月14日のブログ
その時は、次のように書いている。
桂歌丸『双蝶々 雪の子別れ』 (48分)
どう言えばいいのだろう。なぜ今までこの人を聞かず嫌いでいたのかを、今は反省している。音源なら何と言っても円生になるが、最近は五街道雲助一門が、『長屋』~『定吉殺し』~『権九郎殺し』~『雪の子別れ』の通しで演じるなど、新たな試みもあって決して過去の噺ではなくなったが、歌丸の円朝もの(このネタは円朝作ではないという説もあるが)への取り組みは年季が入っているようだ。
談志と同じ昭和11年生まれ今年76歳の歌丸の口跡ははっきりしているし、地の部分と登場人物が語る部分も流れるように展開されていく。たしかに、白酒が一門の会の楽屋ネタとして、この噺は病気の老人の噺でつまらない、という会話があったと言っていたが、本来『双蝶々』と言えば、この噺。終盤、雪に見立てた紙吹雪の演出と三味線も程よく効果的。この高座に出会えただけでもこの中席は満足である。もちろん、今年のマイベスト十席候補とする。
結果としてその年のマイベスト十席には選ばなかったが、歌丸という噺家さんの認識を新たにした高座だった。
談志との関係や「笑点」のこと、実家のこと、奥さんのことなどは、多くのメディアで取り上げているので私が紹介するまでもない。
私にとっては、末広亭を階段まで含め超満員にする動員力を持った噺家さんであったことが、何と言っても思い出深い。
そして、明解な口調が地を中心にした内容との相性の良さもあって、円朝の怪談噺で新境地を開いた噺家さんであったことも記憶されるべきだろう。
世の中には、大喜利が落語だと思っている人が、少なからずいらっしゃる。
それも、あの番組の影響力の凄さと言えるだろう。
柳家小満んが、関内ホールの小ホールで独演会をする同じ日、大ホールで歌丸独演会があり、多くの方が並んでいたのを思い出す。
テレビの人気者だったからと言って、桂歌丸の噺家としての実力は表層的なものではない。
落語芸術協会の会長として、末広亭の席亭から客の入りの少なさに苦言を呈されたこともある。
今思うと、末広亭に板付きで出演していた時、歌丸の目には二階までぎっしり埋まった客席は、どう映っていたのだろうか。
小円遊について書いた五年前の記事に、こんなことを書いていた。
2013年10月5日のブログ
小円遊が亡くなった時、番組では喧嘩相手という役割にあった歌丸が号泣したと言われている。同じ芸術協会の仲間として、きっと小円遊を心配する思いも強かったに違いないし、高座に上がるよう忠告したこともあるだろう。
そして、何より本人の持ち味に近かったのかもしれないが、“キザな小円遊”というテレビ向けのキャラクターで人気は出たものの、落語を磨く上で、その虚像が大きな障害になっていたことを、歌丸が十分すぎるほど分っていたからこその、涙であったように思う。
その小円遊と再会し、さてどんな思い出話にふけっているのやら。
追いかけて聴くほどの落語熱狂時代にはほかの人を追いかけていました。
やはり「笑点」に出ていたというのがマイナスになって(私には)いたのと、得意とすると聞いていた圓朝怪談もそれほど好きじゃなかったなあ。
私も、聞かず嫌いの部分はありました。
三年前と一昨年の末広亭五月上席は、夜の真打昇進披露興行が主目的ではあったのですが、せっかくなので居続けしたおかげで、歌丸の貴重な高座を聴くことができました。
ずいぶん前(2009年)、朝日名人会によく行った時には、『鰍沢』も聴いています。
あの口調は、好みが別れるでしょうね。
落語初心者を寄席に動員した功績という意味では、初代三平の次に評価されて良い人なのではないでしょうか。
芸協で寄席に客を呼べる噺家は笑点関係以外ではごく少数なので、歌丸師の死は芸協にとって計り知れないダメージになりますね。
「そんな味噌かい、なら、いいや。」
やや甲高い声で・・・ここが記憶に残ります。
談志は歌さんといって慕っていた、そして、高い評価を与えていたそうです。
むこうでどんな挨拶を交わしているでしょうか。
三年前、そして一昨年、ゴールデンウィークという時期的なものがありますが、あの入りには驚きました。
昼の歌丸のトリを聴いて、そのまま夜の真打昇進披露興行も、というお客さんも少なくなかったと思います。
落語協会への競争心も秘めて、東京の落語界に良い緊張感を与えていたと思います。
テレビの顔だけでは分からない、大きな存在だったと思います。
そうでしたか。
私は、末広亭で聴いた『鍋草履』なども印象深いですね。
『おすわどん』『城木屋』などのネタも含め、できるだけお客さんが聴いたことのない噺を、というサービス精神の現れではなかったかな、と今は思います。
天国寄席の顔触れ、ますます充実ですね。
私が最後に歌丸の高座に接していたのは今年4月中席仲日の小間物屋政談でした。
あの細い身体からびっくりするくらい張りのある口跡でした。
お久しぶりです。
4月の国立にいらっしゃいましたか。
私も気にはなっていたのですが、何かと野暮用の多い時期で行きそびれました。
正直、いつまで聴くことができるのか、という状況がずっと続いていましたからね。
小遊三が会長代行となった時点で、悪い予感はしていました。
あらためて、テレビの人気者だけでなく、珍しいネタの発掘や円朝作品への真摯な取り組みという点で、評価されるべき噺家さんだと思います。
最近歌丸師(それも晩年)の『累ヶ淵』CDを通して聴いて、その明快さ力強さに唸っていたところでした。
もしかしたら、これから先代金馬のように、「名人」としての再評価が始まるのかもしれませんね。
お久しぶりです。
おっしゃる通りだと思います。
どうしても“笑点の、歌丸”と形容されますし、我々もそういう目で見ているので、タレントではあっても、噺家とは思わない人が多いと思うのですが、そういう先入観を抜きで高座を聴けば、並の噺家ではないことが分かります。
先代金馬も、アンツルさんが良く言わなかったこともあって落語愛好家の中での評価も低かったのでしょうが、今日の数少ない落語評論をする方々は、噺家歌丸の高座をしっかり聴いているのかどうか疑問です。
「圓朝モノなどたくさんのネタをお持ちの歌丸師匠ですが、ご自身の一番の得意噺は何ですか。或いは、これから手掛けてみたい噺などありますか」歌さん「そうですねえ」と暫く考え込んでしまい、長井さんが「師匠、これからやってみたい噺はありませんか」と質問を絞ってくれたので、ようよう「そうですね。お神酒徳利なんかを演ってみたいなと思いますよ」とのお答えをいただきました。「暮れの国立演芸場で聴けるかもしれないことを楽しみにしましょう」という言葉で、その日は終了したのですが、お神酒徳利は結局掛からなかったのかなあ、と思います。全然この話と関係ありませんが、歌さんには何故か「五代目さん」の柳亭左楽のイメージが被ります。
そういう企画がありましたか。
晩年、古典に執着していたことの証ですね。
五代目左楽のイメージというのは、よく分かります。
協会員の良き相談者であり、若手の育成にも熱心だったようです。
協会を越えた東京の落語界の元締め的な役割もあったかもしれません。
残念なのは、存命中に鈴本との和解ができなかったこと。
しかし、鈴本と仲違いした張本人の師匠米丸が元気ですから、それも難しかったことでしょうね。
歌丸の「御神酒徳利」、聴きたかったなぁ。
