上野戦争(1)ー吉村昭著『彰義隊』より。
2018年 06月 28日
今から百五十年前、慶応四(1868)年の五月十五日に、あの上野戦争があった。
天気が良ければ今夜のような満月が天空に輝いていたのだろうが、百五十年前は、そうではなかった。
彰義隊、上野戦争については、以前、時代の波に飲み込まれた少年たちを描いた杉浦日向子さんの『合葬』が映画化されることを記事にした。そのすぐ後の記事でも『合葬』のことや、吉村昭の『彰義隊』、森まゆみさんの『彰義隊遺聞』についても、少しふれた。
2012年12月12日のブログ
2012年12月16日のブログ
吉村昭著『彰義隊』(新潮文庫)
あらためて吉村昭著『彰義隊』から、あの日のことを振り返りたい。
まず、官軍側の主要人物、大村益次郎のことから。
大村は、漢学を広瀬淡窓に、蘭学を緒方洪庵にまなび、兵学の修得につとめ、西洋学兵学教授となった。
幕府の長州征伐の折には、石州(せきしゅう)口の総参謀として連勝し、洋式兵術に卓越した知識をそなえていることが広く認められていた。かれは、討幕軍進発にしたがって江戸に来て、親兵を編成していた。
参謀の西郷隆盛は、兵術家として大村にまさる人物はいない、と高く評価し、今後の軍事に関する一切の権限を大村に託す、と公言していた。
広瀬淡窓の名を目にすると、葉室麟の『霖雨』を思い出すなぁ。
『霖雨』は、私の好きな葉室作品のベスト5に入る。
さて、話は上野戦争。
百五十年のこの時期の江戸は、雨続きだった。
閏四月中旬から雨の日が多く、五月に入ると梅雨期とは言え、例のない異常な気象状況をしめしていた。
五月一日から七日まで、わずかに二日間晴れ間がのぞいただけで雨がつづき、八日には豪雨があって江戸の町々は雨しぶきで白く煙った。
九日は雨があがったが、十日からは連日絶え間なく雨が降りつづき、河川は急激に増水して堤をやぶり、濁水が町々を流れた。神田明神と湯島の後ろの崖が水をふくんでくずれ落ち、家々が破壊されて怪我人が出る騒ぎとなった。隅田川をはじめとした川には樹木や小屋などがうかぶ水が急流のように流れ、橋の上まで水に洗われて、押し流されぬように大きな石が橋の上にいくつも運ばれた。
こんな悪天候の中、十五日を決戦の日と定めた大村は、攻撃のため諸藩の兵の配置を定めた。兵力は二万。
対する彰義隊は、三千の隊員が上野に屯集。
ところが、十五日の討伐決行を知った隊員の間には、動揺が広がった。
江戸市内の家に帰っていた者たちの中には、戦を恐れて上野山中の陣営に姿を現さぬ者もいた。また陣営に行こうとしても、すでに進出した朝廷軍が市中に土塁をきずいていて交通を遮断していたため、もどれぬ者もいた。
また、隊員の中には生きる糧を得るために隊に加わっていた者たちもいて、かれらはひそかに山をおりてのがれていた。
残ったのは二千人足らずであったが、かれらはあくまで朝廷軍に死力をつくして戦おうと誓い合った幕臣たちで、その士気はたかかった。
戊辰戦争の江戸局地戦と言える上野戦争は、大村益次郎率いる二万人と、幕臣たちを中心とする二千人、その差十倍の兵力差での戦争だった。
さて、その決戦の日。
翌十五日朝もはげしい雨が降りつづき、風も吹きつけていた。
八つ半(午前三時)頃、雨に打たれながら諸藩の兵が砲をひき銃を手にして、江戸城大手門前に集結した。
ただちに出撃命令が下され、各藩の者たちは総指揮者大村益次郎の指示にしたがってそれぞれの配置方面に進んでいった。
上野東叡山には正門が黒門、その他新黒門、穴稲荷門、清水門、車坂門、屏風坂門、谷中門、新門の七門があり、寛永寺を守護していた。
正面からの攻撃をおこなうため黒門口にむかったのは、西郷隆盛指揮の薩摩藩兵一番、三番各小銃隊、一番遊撃隊、兵員一番隊、一番大砲隊、白砲隊であった。
薩摩藩兵の黒門口での戦いについては、いろいろと逸話がある。
ちなみに、彰義隊士たちは浅黄色の羽織に白い義経袴、朱鞘の刀を差し、髪は「講武所風」に結っていたといわれる。そのいでたちに憧れて入る者も少なくなかったとも言われるが、彼らはもてた。吉原でも、「情夫(いろ)にするなら彰義隊」と歓迎した。
そうそう、『野ざらし』の先生こと尾形清十郎は、彰義隊の生き残りと、桂小文治が言っていたなぁ。
江戸っ子たちにしてみれば、薩摩や長州の田舎者が朝廷を騙して、徳川様をお城から追い出した、と思っているから、多くの町人たちは彰義隊の味方だ。
さて、この後、新政府軍と彰義隊との戦いは、どうなったのか。
もうじき上野戦争が始まるわけであが、日本のサッカーチームの戦争(?)も始まるので、本日は、ここまで。