崇徳院と西行のこと(2)ー白洲正子著『西行』より。
2018年 05月 31日
白洲正子著『西行』
さて、この本から崇徳院と西行について、二回目の記事。
少しおさらい。
白洲さんがある本を元にした推理では、西行が出家を決断した背景にあると思われる失恋の相手は、鳥羽上皇の中宮(妻)となった待賢門院(たいけんもんいん) 璋子(たまこ)であるらしい。
待賢門院は、白河法皇に幼い頃から可愛がられていた。その結果、二人の間に子供(崇徳院)ができてしまった。
崇徳院は、父の鳥羽上皇の子ではなく、上皇の祖父白河法皇と母の待賢門院との間の不義の子であるために、上皇に疎まれていた。
白河法皇の崩御をきっかけに、時代は不穏な空気に包まれていく。
上皇は、寵愛していた美福門院得子との間にできた子の体仁(なりひと)親王を崇徳院の養子にさせることで、崇徳院が院政を執ることができないようにした。
これは摂政藤原忠通の策謀といえた。
待賢門院は心労もあって、崩御。
と、ここまでが前の記事からのいきさつ。
さて、それでは、あらためて本書から引用。
生まれながらに暗い影を背負わされていた崇徳院には、悲しい歌が多いのであるが、その日その日を生きること自体が、薄氷を踏むおもいであったに違いない。
早瀬川水脈(みを)さかのぼる鵜飼舟
まづこの世にもいかが苦しき
(中 略)
憎しむとて今宵かきおく言の葉や
あやなく春のかたみなるべき
最後の歌は詞花和歌集に、「三月尽の日、うへのをのこどもを御前に召して、春の暮れぬる心をよませさせ給ひけるに、よませ給ひける 新院御製」としてあり、いつ頃の作かはっきりしたことは知らないが、「今宵かきおく言の葉」が、いつ何時「かたみ」となるかも知れないことを、懼れていられたのではなかろうか。
*
やがて病弱な近衛天皇が夭折すると、崇徳院の同母弟の雅仁親王(後の後白河天皇)が即位され、「われても末にあわむとぞおもふ」望みはついに断たれてしまう。それと同時に頼長も、近衛天皇を呪詛したかどで宮廷から完全に閉めだされてしまった。実はそれだけの理由ではなく、長い時間をかけて忠通が裏でさまざまの工作をしたのであるが、それは歴史の本を読めばわかることだから触れずにおく。
実は、崇徳院が、これほどまで不幸に見舞われた人だとは、本書を読むまで知らなかった。
西行のことを知りたいと思って読んでみて、この本からは他にも多くのことを教えられている。
肝腎の西行の歌は、あまり覚えることができていないんだけどね^^
そうそう、その西行と崇徳院とのこと。
再び、引用する。
保元の乱が何日にはじまったか、はっきりしたことはいえないが、七月八日に天皇方が頼長の東三条邸を襲ったのが最初の合戦で、十一日の朝にはあっけなく終っていた。崇徳院は出家して、弟の覚性(かくしょう)法親王のいられる仁和寺へ逃亡し、頼長は流れ矢に当って死んだという。
この時、西行は、いち早く仁和寺の崇徳院のもとへ伺候した。
世の中に大事いできて、新院あらぬ様にならせおはしまして、御髪(みぐし)
おろして仁和寺の北院におはしましけるにまゐりて、兼賢阿闍梨(けんげん
あざり)いであひたり、月明(あか)くてよみける
かかる世にかげも変らずすむ月を
見るわが身さへ恨めしきかな
保元元年といえば、西行が高野山で修行していた時代で、鳥羽上皇の葬送に参列したばかりか、敗残の崇徳院のもとへも馳せ参じているのである。当時の情況としては、これは中々できにくいことで、まかりまちがえば殺されかねない。西行は覚悟の上で実行したのであろう。この歌にも、止むに止まれぬ崇徳院への思いがこもっており、世が世なれば自分も院に味方して、命を落したであろうにと、生きて今宵の月を見ることが悔まれたに相違ない。これで私たちははじめて崇徳院に対する西行の真情を知ることができるのであるが、それは単なる判官びいきとか、主従の情愛とかいうものではなくて、長年の間に育くまれた人間同士の理解の深さによるのではないかと思う。
(中 略)
西行(1118生)と、崇徳院(1119生)は一つ違いで、頼長(1120生)ともほぼ同年輩であった。「悪左府(あくさふ)」と呼ばれた学者の頼長は、強い性格の持主で、欠点も多かった半面、情熱家であったことは、西行の出家を大げさに賛美したことでもわかるが、この三人に共通する性格は、「純粋」であったことだろう。政治家の中でもっとも悪辣な忠通と太刀打ちできる筈はなく、勝敗は保元の乱で戦う以前にきまっていた。その中で、西行は身分の低いためもあって、早くに自己に目覚めて出家することができたので、別に来たるべき惨事を予見していたわけではあるまい。が、詩人の敏感さから、世の中の趨勢に不安を感じ、安心を得たいと願っていたことは、左のような歌からも想像がつく。
惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは
身を捨ててこそ身をも助けめ
これは出家するに当り、鳥羽院においとまを述べに行った時の歌であるが、年齢の近いせいもあって、西行が親近したのは、御子の崇徳院の方であったと思う。その上、崇徳院はすぐれた歌人であり、数奇の好みにおいても西行と共通するところが多かった。
乱のあった保元元年(1156)、西行は四十八歳、崇徳院が四十七歳。
寿命の短い時代とはいえ、本来であれば盛りと言える年齢において、二人は辛い出会いをしたのだろう。
西行にとっては憧れの女性、崇徳院にとっては母であった待賢門院がつないだ縁。
白洲さんが、“長年の間に育くまれた人間同士の理解の深さ”を物語る逸話が紹介されている。
西行が崇徳院の知遇を得ていたのは、ただ和歌の上ではなかったように思われる。
縁(ゆかり)有りける人の、新院の勘当なりけるを、許し給ふべき由、申し入れ
たりける御返歌に
最上川つなでひくともいな舟の
しばしがほどはいかりおろさん (崇徳院)
御返(をんかへし)奉りける
強く引く綱手と見せよ最上川
そのいな舟のいかりをさめて (西行)
西行に縁のある人が、崇徳院に勘当されたので、その許しを願った時、院から御返事を頂いた。
-最上川では上流へ遡る稲舟を綱で引くというが、もうしばらくの間はこのままで、いかりを下しておこう、という歌で、いな舟を「否」に、いかりを「怒り」にかけて、そなたがいくら取りなしてもまだ許しはしない、という意味である。「つなで」が「なべてひくらむ」となっている場合もあるが、これは綱手の方がわかりやすいし、似合ってもいる。
それに対して西行は、-私が一生懸命お願いしていること(強く引く綱手)をお察し下さって、お怒りをおさめて下さいましと、たくみに言い返したのである。「かく申したりければ、許し給びてけり」と記してあり、崇徳院は西行の歌に免じて勅勘を解いたのであろう。「縁有りける人」は誰だかわからないが、一説には、俊成のことだともいわれており、崇徳院と俊成と西行の間には、和歌を通じて切っても切れぬ縁があったのである。それはとにかく、西行が縁者の赦免のために、直接崇徳院と交渉できるほど信頼されていたことは、心にとめておいていいことだ。
この和歌による二人の会話の、なんとも雅で、かつ智に富んでいることか。
待賢門院は、康和3年(1101)生まれなので、西行の十八も上だった。
亡くなったのは、久安元年(1145)。
保元の乱による崇徳院の無残な姿を見ることがなかったのは、もしかすると幸いだったのかもしれない。
西行、そして、崇徳院。
ある女性を媒介にして、また、和歌で通じ合っていた二人。
よもや、後世に落語のネタにされるとは、想像していなかったに違いない。