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西行に「あこぎ」と言ったのは、誰か?(2)ー白洲正子著『西行』より。


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白洲正子著『西行』

 落語の『西行』でも重要な要素となる、北面の武士、佐藤義清(のりきよ)が出家するきっかけとなった、ある失恋。

 なお、北面の武士とは、平安時代に院の御所の北面 (きたおもて) に居て,院中を警固した武士のこと。白河上皇のときに設置された。この白河上皇は、本記事で後半に登場する。
 なお、院の御所とは、上皇の住まいのこと。
 上皇とは、皇位を後継者に譲った前の天皇のことであり、太上天皇(だいじょうてんのう)と呼ばれる。なお、出家した上皇を、法皇と呼ぶのだよ。

 さて、落語では、西行をふった女性は、染殿の内侍という設定だが、これは、あくまで作り話。

 白洲正子さんの『西行』から、いったいどの高貴な女性が「あこぎ」と言ったのか、白洲さんの推理をご紹介。

 その推理には、ある本が大きなヒントとなっている。

 先日、角田文衛氏の『待賢門院璋子(たまこ)の生涯』(朝日選書)を読んで、「申すも恐ある上﨟」とは、鳥羽天皇の中宮、待賢門院にほかならないことを私は知った。角田氏は極めて慎重で、そんなことは一つも書いていられない。が、実にくわしくしらべていられるので、読者はいやでもそう思わざるを得ない。
 (中 略)
 待賢門院璋子は、康和三年(1101)、正二位権大納言藤原公実(きんざね)の末子に生れた。公実の子の実能(さねよし)、-璋子の兄に当る人が嵯峨んび徳大寺を建立したので、その後は「徳大寺殿」と呼ばれるようになるが、西行がその家人だったことは前に記した。

 なるほど、佐藤義清と待賢門院(たいけんもんいん)が、この徳大寺で出会ったことは、十分に考えられる。

 その待賢門院璋子とは、どんな女性だったのか。

 璋子は生れてすぐの頃から、白河法皇の寵妃、祇園女御の養女となり、以来、院の御所で生活するようになる。父の公実は美男であったというから、幼時からすぐれて美しい子供であったらしい。白河法皇が、孫のように可愛がられた逸話が『今鏡』にある。
   をさなくては、白河院の御ふところに御足さしいれて、ひるも御殿ごもり
   たれば、殿(関白忠実)などまゐらせ給ひたるにも、「ここずちなき事の
   侍りて、え自づから申さず」などといらへてぞおはしましける。(宇治の川瀬)
 法皇のふところに足をさし入れて、昼も添寝をしていられたとは、何とも不思議な情景である。「ずちなき事」は術なきこと、仕様がないという意味で、関白が参内しても、今、手の離せない事情があって、答えるわけには行かないと、法皇がいわれたのもおかしなことである。いくら相手が幼い子供でも、妙に色っぽい話で、法皇がふくみ笑いをしながら、関白を追払っていられる様子が目に見えるようである。
 そのようにして、天下第一の専制君主と、その寵妃に甘やかされて育った姫君の将来に、どんなことが起ったか。先ずはっきりしているのは、法皇が璋子を寵愛するあまり、ついに手をつけられたことで、その関係は、彼女が鳥羽天皇の中宮になった後もつづいて行く。光源氏と紫上の情事を思わせるが、いかに男女の仲が自由であった時代でも、これは異常のことで、しまいには璋子を自分の孫(鳥羽天皇)の中宮に据えてしまうのだから、言語道断というほかない。

 なんとなんと、璋子は、そういう環境で育ったのであった。
 この後、白洲正子さんは、前述の角田さんの本を元に、最初の関係が、白河法皇が六十歳を過ぎ、璋子が十三歳の時と推察している。

 現代なら、間違いなく、犯罪だ^^

 法皇は、璋子の将来のことを心配もし、その婿探しをしている。
 白羽の矢が立てられたのは、関白忠実の息子、忠通(ただみち)だったが、忠実は応じなかった。
 そりゃそうだろう、法皇が幼い頃から璋子を、尋常ではなく可愛がっていたことを、忠実は知っているのだからねぇ。

 結局、璋子は法皇の孫、鳥羽天皇のもとへ入内。
 永久五年(1117)のことで、天皇は十五歳、璋子が十七歳の時。
 
 いよいよ入内がきまった時、忠実ははじめて日記(『殿暦』)に、このようなことを 暴露した。
 -件の院の姫君は、備後守季通(すえみち)と通じており、世間の人々は皆このことを知っている。「不可思議也」。その他いろいろの噂が耳に入り、とても真実とは思えないが、世間周知の事実であるのだ、と。

 忠実は、その後も日記に、璋子が他の者とも密通している、と書き残している。
 しかし、白洲さんが参考にした本において、著者角田氏は、忠実が書いている季通は、そんな好色な人物とは思えない、と疑問を呈している。

 そんな噂が立つほどの美女、璋子と西行、佐藤義清は、璋子の兄が建立した徳大寺で出会い、一夜をともにし、そして、その後、待賢門院璋子が、西行に「あこぎの浦ぞ」と言ったことは、十分に推定できる。

 この待賢門院は、鳥羽天皇の元に入内した後に子を何人か生むのだが、そのうちの一人が、白河法皇との子と鳥羽天皇も疑った、後の崇徳院なのであった。

 西行、そして、彼を取り巻く環境には、何かと落語との関係が深いのである。


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by kogotokoubei | 2018-05-28 12:54 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛