根岸のこと。
2018年 05月 21日
舞台となった根岸は、今日では、ある落語家ご一家が住む地という印象が強いが、あの地については、少し認識をあらためる必要があると思う。
二冊の落語関連本からご紹介したい。

まずは、北村一夫さんの『落語地名事典』(昭和53年、角川文庫)より。
前半には、根岸が登場する落語の抜粋が並ぶ。
根岸
・・・・・・いろいろ思案した結果、おいらんを身請けして根岸の里へ妾宅をかまえてかこいました・・・・・・「悋気の火の玉」
・・・・・・日も長々と六阿弥陀、五阿弥陀ぎりで、引っ返し、根岸へまわった罰あたり・・・・・・「芝居風呂」
へェ、東京といえば東京でございますが、モウ片ッ隅でございまして、根岸の御院殿の傍におりました・・・・・・「猫の茶碗」
むすこさんは、江戸っ子でございますから、風流も心得ておりました、根岸に別荘がございます・・・・・・「茶の湯」
(他、「お若伊之助」)
▼台東区根岸一ー五丁目のうち。
かつては呉竹の根岸の里といわれた閑静な地で、音無川が流れ、鶯や水鶏(くいな)の名所だった。地内に時雨ヶ丘、御行の松、梅屋敷、藤寺などがあった。文人の住居や大商人の寮などの多かったところである。
▼光琳風の画家で、文人としてきこえた酒井抱一、町人儒者亀田鵬斎、『江戸繁盛記』の著者寺前靜軒をはじめ、文化・文政頃からこの地に住んだ有名人ははなはだ多い。
山茶花や根岸はおなじ垣つづき 〔抱一〕
明治期には饗庭篁村(あえばこうそん)、多田親愛、村上浪六、幸堂得知、正岡子規などがここに住んだ。有名人である点では、ここに豪壮な妾宅をかまえていた掏摸の大親分仕立屋銀次もひけはとらない。
子規の句。
妻よりも 妾の多し 門涼み
子規が主催した根岸短歌会は、後にアララギ派に発展した。
だから、以前は多くの方が、根岸->子規、という連想をしたはず。
また、根岸短歌会のことや饗庭篁村らの文人のことを、根岸派と呼んだ。

吉田章一著『東京落語散歩』(角川文庫)
吉田章一さんの、平成9(1997)年に青蛙房から最初に発行された『東京落語散歩』からも引用したい。
天王寺の前の芋坂を進んで鉄道を越える。通りに出た右角にある羽二重団子の店(荒川区東日暮里五ー54-3)は、文政二年(1819)に創業し、藤棚があって藤の木茶屋といわれた。餡と醤油だれの団子を供す。圓朝人情噺にも登場し、明治以後文人にも親しまれた。
このあたりから根岸の里(台東区根岸)になる。元は今の荒川区東日暮里四・五丁目と一緒に金杉村といったが、明治二十二年に音無川以南が下谷区に編入されて、今の根岸一~五丁目になった。呉竹の里ともいい、台東区根岸二ー19~20が輪王寺宮の隠居所御隠殿の跡である。公弁法親王が京から取り寄せた訛りのない鶯数百派を放って鶯の名所となった。弘化四年(1847)から関東大震災まで、梅屋敷(根岸二ー18)周辺で鶯鳴き合わせ会が催された。文人墨客が住み、茶の湯、悋気の火の玉にあるように隠居所や妾宅が多かった。
鶯谷の地名の由来が、紹介されているねぇ。
輪王寺宮の名前を見ると、吉村昭の『彰義隊』を思い出す。
『落語地名事典』と重複もあるが、もう少し引用する。住居の番地は割愛。
そのほか根岸には次のような多くの文化人たちが住んだ。
俳優市川白猿、伊井蓉峰、画家酒井抱一、谷文晁、北尾重政、初代及び二代目柳川重信、岡倉天心、儒学者亀田鵬斎、『江戸繁盛記』も作家寺門靜軒、寺堂得知、森田思軒、俳人河東碧梧桐、寒川鼠骨、漢学者大槻如電・国語学者大槻文彦、浜野矩随の門人の彫刻家、二代目浜野矩随。
今日、根岸は、どうしてもあの落語家一家の住む地、という印象が強いのだが、少し歴史を紐解いてみれば、根岸の印象は変わる。
根岸、子規をはじめ多くの文人・墨客が住んだ地だったんだよね。
おお、碧梧桐!
文学史上の敗者(?)でこれだけ存在感のあるヒトはまれ。
赤い椿 白い椿と 落ちにけり
