師匠と弟子ーこの不思議な関係。
2018年 05月 07日
現役を引退したコーチや監督に指導を受けるスポーツの世界の師弟関係と、まだ現役の芸人さんが師匠として弟子を育てる関係は、たしかに、違ったものなのだろう。
師匠は一所懸命に自分のライバルを育てている、とも言える。
落語とスポーツの世界の師弟関係の相違点が、もう一つ。
落語家の弟子は、自分で師匠を選んでいる、ということ。
師匠と弟子はライバル、ということで、以前にそんなことを紹介した記事を書いたような気がして、少し遡ってみた。
ずいぶん前の記事が見つかった。
その師匠は、五代目春風亭柳昇。そして、弟子は昇太。
柳昇の命日に書いたものだ。
2010年6月16日のブログ

浜美雪著『師匠噺』
その際に引用した本は、浜美雪著『師匠噺』。
Amazonには、レビューを書いていた。(ドートマンダー名義)
古い記事と重複するが、柳昇と昇太の師弟について、あらためて同書から引用したい。
落語に対するファイティング・スピリッツでもこの師弟は似ている。
昇太の高座からは「やってやろうじゃないの」の光線がビシビシ飛んでくる。独演会であろうがホールの落語会であろうが地方のいわゆる営業といわれる落語会であろうが、学校寄席であろうが、もちろん寄席であろうが、高座には俺さまが一番ウケてやるという気迫がみなぎっている。その気迫が必ずや爆笑に巻き込む。
柳昇もまた、闘う落語家だった。
八十三歳で亡くなるまで、柳昇は闘う姿勢を失わなかった。
「あの風貌であの口ぶりなんで、そうは見えないかもしれませんけど、うちの師匠は実はすごいファイターだったんです。だって輸送船の甲板から機関銃で米軍機を撃ち落そうとした人ですからね(笑)。
だから、『戦争には勝たなきゃダメだね。それには敵のことをよく研究して、敵がもってない武器で戦わないといけないね。それは落語も同じだね』ってよく言ってました」
戦争で手を負傷して、戦前の職場へ復帰がかなわなかった柳昇にとって、落語は食べるための命綱、背水の陣で臨んだ世界だった。
柳昇の戦争体験は、自著の『与太郎戦記』に描かれ、映画にもなった。
昭和19年にアメリカ戦艦の攻撃を受けて乗っていた船が沈没しながらも生き延び、玉音放送は入院中の北京の病院で聞いている。
そういう体験が、柳昇のファイティング・スピリッツの背景にある。
昇太は、こんな逸話も紹介している。
「弟子にだって、負けたくないって思う師匠でしたからね(笑)。亡くなる直前まで寄席に出ていたんですけど、最後まで誰にも絶対負けないっていうオーラが高座から出てました」
当の柳昇自身、こんなことを語ってくれたことがある。
「人生喧嘩ですよ。
泥棒でも戦争でも早くやったほうが勝ちだね。負けちゃだめ。
人間、泥棒根性がなかったら偉くならないですよ」
新作への思い入れも昇太以上だったかもしれない。昇太の時以上に新作は異端視され、古典に負けたくないという思いが常に心のなかに熱くたぎっていたに違いないからだ。
柳昇が八十近くなった頃、昇太が柳昇の古典落語の会を企画し、意向を確かめたことがあった。
だが、師匠の返事はノーだった。
「ありがとう。
でも、やらない。
そんな会をやると、もう柳昇は新作が書けなくなったと思われるからね」
あらためて、なかなか良い話だと思う。
晩年のテレビで見た、あの飄々とした優しい表情からは、壮絶な戦争体験をしたことなどは、とても察することができない。
柳昇は、「新作の芸協」の大きな柱だった。
その伝統は、ファイティング・スピリッツとともに弟子に伝承された、と思いたいが、あの人気番組の司会者になった弟子に、今、どれほどのファイティング・スピリッツがあるのかは、正直、疑問もある。
ともかく、落語家の師匠と弟子。
弟子は、ある時から、師匠をライバルとも思い、精進する。
師匠もまた、成長する弟子をライバルとみなして、負けないように切磋琢磨する。
他の伝統芸能にも、そういった関係性があるのかもしれない。
なかなかに、深~い関係だと思う。
落語にある「中村仲蔵」の団十郎と仲蔵の関係もそうなんでしょうね。
