喬太郎が、楽屋で震えた!?
2018年 05月 05日
柳家喬太郎と、落語好きの俳優、東出昌大の対談。
後編から、引用。
文春オンラインの該当記事
「文春オンライン」編集部
2018/05/02
東出昌大が柳家喬太郎に聞く「真打になるということ」 落語“大好き”対談【後編】
異色の落語対談、まだまだたっぷりと
俳優・東出昌大さんと、落語家・柳家喬太郎師匠による異色の落語対談。後編は、二人の落語ブーム観から、「真打こわい」の話、そして役者と噺家の大きな違いまで。まだまだ話は尽きません!
今や、落語が好きって「カミングアウト」できるようになった
東出 落語ブームって言われていますけど、落語そのものと人々との関係って歴史的に見ると面白いなって思うんです。いろんなところに寄席があって、みんな夏になると何夜連続で怪談噺を聴いて涼をとるみたいな、生活に落語が根差していた時代。文楽、志ん生、金馬が人気を博したラジオ寄席ブームの時代。爆笑落語ブームもあったし、今みたいにドラマや漫画で、より多くの世代に支持される時代もある。
喬太郎 そう考えると隔世の感がするんですよ、今のブームって。今年僕は55になるんですが、大学の落研に入ったときには先輩にビックリされましてね。当時の落研なんてかっこ悪いものの象徴でしたから。戦後一番チャラチャラしていた80年代に、落語好きなんて自殺行為(笑)。「女の子にモテたくないのか」ってことです。つまり、ダサかったわけですよね。「落語ってじじいがそば食ったりするやつだろ」みたいなイメージ。ところが、今なんて「あ、俺、けっこう落語聴くけど」みたいなカミングアウト、普通にできちゃうでしょ。
東出 カミングアウト(笑)。今だと、深夜ラジオのファンってことも普通にカミングアウトできるようになりましたよね。
喬太郎 アハハハ、そうですよね。でも、そうやって落語が「ダサい」「かっこ悪い」ものではなくなったのは、ある段階で従来の落語というものがいっぺんなくなったからだと思っているんです。
東出 落語がなくなった?
喬太郎 ええ、従来の落語に対する固定観念が、おそらくチャラチャラした時代が終わったどこかの段階でプツッと消えてなくなったんじゃないかと。
東出 いったんそこで途切れているんですね。
この後、落語を素材にしたテレビドラマが人気になるなどの結果、落語が身近なものとなったことなどが語られ、真打に関して、少し意外な喬太郎の発言があった。
東出 小痴楽さんは「尊敬する噺家挙げてみろ」と米助師匠に言われて、喬太郎師匠だったり一之輔師匠だったり、白鳥師匠だったり、いろいろ噺家さんを挙げたんですって。すると「お前、真打になったら、その人たちと横並び一線で戦うことになるんだぞ。それだけの芸はあるのか」って言われたと。二ツ目ブームに、あぐらをかいてはいないけど、真打になるのが怖い、それがいまの悩みだっておっしゃってました。
喬太郎 僕自身も、真打昇進披露が終わったとき、怖いって思いました。披露目のときはお客さんも新真打として見てくれるけど、以降は一演者でしかない。小さんも志ん朝も、同じ真打として横並びになるわけです。そう楽屋で気づいたときに震えが止まらなくなっちゃって。怖くて怖くて。
一之輔が尊敬する噺家として名を挙げたのが、みな落語協会というのが、彼らしい。
喬太郎でさえ、真打になって、小さんも志ん朝もライバルだと楽屋で気づいて、震えが止まらなくなった・・・とはねぇ。
順風満帆で、怖いもの知らずだったのではないか、と思っていただけに意外だ。
たしかに、仕事を取りあうという意味においては、一人一人の芸人の戦いという面も、あの世界にはある。
そして、その競争における切磋琢磨の結果、我々客の側が楽しめる噺家さんが生まれる、ということも確かだろう。
志ん朝が高座に上がる直前、手に人と書いて呑んでいた逸話を、思い出した。
さん喬が弟子の誰も自分に似てないと言うので、ある人がお弟子さんがそれぞれの芸風を持ったということで喜ばしいのではと言ったら、「それがみんな喬太郎に似ているんだ」と答えたそうです。師匠としてはちょっと複雑?
喬太郎も、あのおまじない、しますよね。
以前、テレビで見たことがあります。
さん喬一門、みな喬太郎に似ていますかね。
芸風のことなのか、クスグリなどのことなのか・・・・・・。
たしかに、師匠に似た人は、少ないかもしれません。
師匠が弟子を育てて、弟子は真打になるわけですよ。つまり、ライバルを育てていることになるのですね。
縁起をかつぐ、というやつですね。
スポーツの場合は、監督やコーチは現役を離れている場合がほとんどですから、育てた選手がライバルになるということはありませんが、芸能の世界は、師匠が現役であれば、弟子を育てることはライバルを増やすことになる・・・ということですね。
これ、なかなか深~いことかもしれません。
