「はなしの名どころ」管理人さんの本(3)ー田中敦著『落語と歩く』より。
2018年 04月 06日

田中敦著『落語と歩く』(岩波新書)
この本から、三つ目の記事。
落語を調べる際にお世話になるあのサイト「はなしの名どころ」の管理人さんの本。
あのサイトで、とにかく落語の舞台を丹念に歩いていることに驚いていたが、その旅の背景に、どれほどの準備があるのか、この本を読んで分かった。
「はなしの名どころ」
とはいえ、著者田中さんが訪ねたくても、それが叶わないこともある。
時代の流れの中で、落語の舞台だった地名が、今はなくなっていることも少なくない。
そんな地名のことについて、「第3章 まだ見ぬ落語をたずねて」から紹介したい。
失われた地名
すでに無くなってしまった場所も訪問しようがありません。大規模なものでは城や川、小さなものでは橋や路地、旅館や飲食店などです。市町村合併や住居表示の実施により、地図から消えてしまった地名もあります。
旧地名や跡などについては、近ごろ自治体が説明板を建てるようになったり、親柱を保存展示したりするようになってきました。個人・団体が地名を表示してくれていることもあります。
(中 略)
本所達磨横町は、二席の落語にとって、とても大事な地名です。「文七元結」の長兵衛親方の住まい、「唐茄子屋政談」の酸いも甘いもかみ分けた叔父さんの家が、達磨横町にあります。昭和五十八年(1983)に、江戸本所郷土史研究会が墨田区東駒形一丁目に木製の立て札を建てています。区画整理によって道筋が変わっていますので、多少場所はずれているようですが、本当にありがたいことです。写真では文字が見えませんので、一部を引用します。
旧本所達磨横町の由来
江戸時代から関東大震災後の区劃整理まで此の辺りを本所表町番場町と
謂い紙製の達磨を座職(座って仕事をする)で作っていた家が多かった
ので、番場では座禅で達磨出来るとこ と川柳で詠まれ有名であり天保
十年(1839)葛飾北斎(画家)が八十一歳で達磨横町で火災に遭ったと
謂われる。
初代三遊亭円朝口演の「人情噺 文七元結」は六代目尾上菊五郎丈の
当り狂言で(中略:文七元結の梗概)文七とお久は偕白髪まで仲良く
添い遂げたと謂う。(後略)
風情ある立て札でしたが、墨色は次第にあせてきており、ついには木札が朽ちてしまったのでしょうか。今は、区の教育委員会が建てた将棋の木村義雄名人の生誕地を示す金属製のプレートに置きかわっています。
本書には、「旧本所達磨横町の由来」の立て札の写真も掲載されている。
その写真は、「はなしの名どころ」サイトの「墨田区」のページで確認できる。
「はなしの名どころ」サイトの該当ページ
しかし、この立て札は、もうないんだね・・・残念。
本書は、コラムも楽しい。
この章の最後には「刻まれた名店」というコラムがある。
大阪の料亭「網彦」、そして、品川の「島崎楼」の後、懐かしい寄席のことについて、旅で見つけた、その名が刻まれたある物について紹介されている。
【神田立花】戦前、時局にそぐわない五十三種の落語を禁演落語と定め、浅草本法寺に“はなし塚”を建てて封印しました。戦後、それらの禁演落語は法要が執り行われて復活し、代わって戦時の落語が封印されました。その本法寺のの石積み塀に、噺家の名前や、東京各地の寄席の名前が朱色の文字で刻まれています。神田立花演藝場、麻布十番倶楽部、人形町末廣、上野本牧亭、川崎演藝場、昔の池袋演藝場・・・・・・、今は営業をしていない寄席の名がここに眠っています。
私は、関東地域で住み始めたのは、昭和の晩年なので、人形町末廣も、昔の池袋演藝場も、知らない。
はなし塚のある本法寺には、そのうち行ってみたいと思っていたので、ぜひ、これらの寄席の名が刻まれている石積みの塀も見てこよう。
この本を読みながら、著田中さんのように、現存する地、そして、失われた地名の現在地を含め、ぜひ落語と歩く旅をしたくなってきた。
また、田中さんには到底及ばないが、書籍の“山脈”のほんの一部にも、登りたいと思っている。
次回は、著者の熱い思いをご紹介して、最終回とするつもりだ。
