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「はなしの名どころ」管理人さんの本(2)ー田中敦著『落語と歩く』より。

「はなしの名どころ」管理人さんの本(2)ー田中敦著『落語と歩く』より。_e0337777_14021768.jpg

田中敦著『落語と歩く』(岩波新書)

 この本から、二つ目。

 「第4章 三遊亭圓朝と人情噺」より。

 著者田中敦さんが管理人のサイト「はなしの名どころ」には、圓朝作品を調べる際に、何度もお世話になっているが、あのサイトがどのように出来上がったかが、この本を読んで、よくわかった。
「はなしの名どころ」

 とにかく、圓朝作品の舞台を、数多く実地検証している。

 そのきっかけにもなった全集のこと、そして、サイト以外にも成果を発表する場があったことをご紹介。

 2012年から、岩波書店より全15冊の『円朝全集』が出版されています。かくいう私も、縁あって『円朝全集』の月報に「円朝を歩く」を担当するにあたり、自分の中で三点の制約を設けることにしました。

 1 該当する巻に登場する噺の舞台を取り上げる
 2 日帰りで訪問する
 3 公共交通機関のみを利用する

 「円朝を歩く」で訪れた十五地点は以下のようになりました。

 十郎ヶ峰の謎(栃木県)        怪談牡丹燈篭
 榛名山裏表(群馬県)         安中草三・塩原多助一代記
 浦賀の奇人(神奈川県)        松の操美人の生埋
 宇津ノ谷峠三往復(静岡県)      鶴殺疾刃庖刀
 夜歩く累ケ淵(茨城県)         真景累ケ淵
 筑波山むかし道(茨城県)       緑林門松竹
 国府台の断崖(千葉県)        粟田口霑笛竹
 熱海の軽井沢(静岡県)        熱海土産温泉利書
 多摩川一日遡行(東京都・山梨県)   荻の若葉
 宮脇志摩と四人の死(大阪府・東京都) 名人くらべ
 一行庵と戊辰戦争(北海道)      蝦夷なまり
 円朝登場(静岡県・山梨県)      火中の蓮華・鰍沢
 歩きつかれて湯につかれ(東京都)   年始まわり
 二居峠雪中行(新潟県)        後の業平文治
 ウェインランドの鍛冶場(新潟県)   英国女王イリザベス伝

 細かなことですが、「蝦夷なまり」については2、「英国女王イリザベス伝」では2と3のマイルールから外れてしまいました。

 なるほど、『円朝全集』の月報で連載があったのか。

 マイルールを外れたことに関するおことわりには、著者田中さんの律儀さが表われている。

 それぞれの巻の中から一席を選んでの旅だったようなので、ご本人としては、他にも行きたかった円朝落語の舞台があったようだ。

 本書には、月報に収めることのできなかった紀行文「上野下野(こうずけしもつけ)道の記」への旅が紹介されている。
 では、その「上野下野道の記」の旅を引用。

 圓朝が越えた峠道

 「上野下野道の記」と題された紀行文は、まだ鉄道もバスもなかった明治九年(1876)に、宇都宮から山深い奥日光を抜け、沼田を経て東京へ戻ってくる十六日間の旅日記です。柴田是真翁から聞いた、江戸の豪商寿炭屋塩原に伝わる怪談に触発されたものでしたが、取材するうちに、塩原太助の立身出世譚へのテーマが変わり、「塩原多助一代記」として結実しました。
 地元で評判のよくない居酒屋へ行ってみたところ、噂どおりで閉口したこと、宇都宮での旧友との偶然の出会い、山中の温泉場に蛇が出て往生したさまなどを、俳句や狂歌を織りこみながらつづっています。圓朝作品のなかでも、とりわけ味わい深く、第一級の紀行文です。

 ということで、あの、名作『塩原多助一代記』を作る元となったのが、この圓朝の旅だったということ。

 では、『塩原多助一代記』冒頭の、幼い多助が沼田の塩原家に預けられるいきさつのヒントとなった数坂(かつさか)峠の風景を著者の田中さんと一緒に辿ろうではないか。

 消えた数坂峠ー上野下野道の記

 沼田から奥日光へ抜ける国道120号。日本ロマンチック街道やとうもろこし街道などという愛称がつけられている。車道である椎坂峠越えが大きく南に迂回して勾配を避けている。椎坂峠は峠と言うよりは山の端までぐるっと巻いて行き、最後は切り通しで向こう側へ抜けたような地形になっている。それに対して、地形図に歩道として描かれている旧道は、数坂峠を直線的に越えている。ということはいかに急坂なのか想像に難くない。
 2012年10月に、五十二年ぶりに歌舞伎『塩原多助一代記』が国立劇場で上演された。冒頭の数坂峠、クライマックスの“青の別れ”から、多助が成功した本所相生町の炭屋店の場まで通しで演じている。第一幕、上州数坂峠谷間の場は、岩山を貫いて杉木立が生え、谷川の流れの向こうに山々が霞む書き割りだった。圓朝の眼から見た数坂峠の描写はこんな感じだ。

  数坂(すさか)〔数坂-かずさか-〕峠にかかる南は赤城山北には火打山西には
  保高(ほかう)〔武尊-ほたか-〕山東は荒山なり 実に山また山の数坂道にして
  小山には畑(はた)を開き粟、稗、黍、大豆、小豆、蕎麦なり そばの花処々に
  見ゆる 其風景尤もよし
    何処えほどして蒔(まい)て蕎麦の花
     (『円朝全集』別巻二、「沼田の道の記」明治九年九月七日、岩波書店、2016年)

 以前の数坂峠への挑戦では、GPSのような便利な道具を持っていなかったため、途中で道を見失ってしまい、峠と思える鞍部によじ登って引き返してきた。うかうかしているうちに、新しいトンネルが2012年に開通してしまい、車道の椎坂峠ですらバスも通らない過去の道になってしまった。

 落語の舞台も、時代の波には逆らえないのは、都会に限らなくなってきた、ということか。
 
 なお、2012年の歌舞伎興行については、文化デジタルライブラリーのサイトに、演者など詳しい情報が載っている。ご興味のある方は、ご覧のほどを。
「文化デジタルライブラリー」の該当ページ


 この後、沼田から尾瀬方面行のバスに乗り、新しいトンネルの直前の観音寺前で下車して、旧道となった椎名峠への分岐点から、徒歩での旅が記されている。

 こんな具合だ。

 小さな沢の左側が旧道だろう。真ん中がUの字型にくぼんだ、ひと尋(ひろ)ほどの道がずっと続いている。あたりはスギと広葉樹の混交林だ。ふかふかの落ち葉に埋もれてはいるが、明らかに人馬が通った道の跡だ。
 150メートルほど行くと、首のとれた一体の石仏が現れた。蓮華座の上に立っており、手に瓶子(へいし)か花のようなものを持っていたらしく、その下部だけが残っている。裏面には馬頭観世音と彫られている。峠道を通る旅人を見つめて来た石仏は、ここが街道だった証だ。

 圓朝の紀行文も名作だが、その舞台をたどる著者の紀行文も、なんとも味わい深い。

 もっと先を辿りたいお気持ちもわかりながら、今回はこのへんでお開き。

 旅の続きに興味のある方は、ぜひ本書をお読みのほどを。

 まだまだ、紹介したいことが、本書には多い。

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by kogotokoubei | 2018-04-05 12:57 | 落語の本 | Trackback | Comments(0)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛
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