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『正蔵一代』より(4)ー“とんがり”の由来や、“山春”のこと。

『正蔵一代』より(4)ー“とんがり”の由来や、“山春”のこと。_e0337777_09323101.jpg


 青蛙房『林家正蔵全集』別巻の『正蔵一代』から、四つ目の記事。

 三遊亭三福に入門した福よしが、旅で当時朝太と名乗っていた志ん生と出会ったことを、前回はご紹介した。

 さて、時代は、少し先に飛ぶ。

 「圓楽時代」から、“とんがり由来”をご紹介。

 とんがり由来

 あたしの“とんがり”って、あだ名もね、あれァ四代目が言いだしたんじゃァなかったかと思いますよ。
 もっとも、自分(てめえ)で言っちゃァおかしいが、あたしァ自分の事(こツ)で苦情を言ったことァあンまりなくて、おもに他人(ひと)のことでもって、とんがっちゃうんです。
 いつかもねェ、去年故人になった吉原の幇間の忠七、あの人をあたしがなぐっちまおうてえさわぎを仕でかしたことがある。

 四代目は、四代目小さん。

 この“さわぎ”は、忠七の幇間の師匠、桜川三孝が主催した温習会(おさらいかい)での出来事に端を発する。
 
 その時分のおさらいなんてえものは、朝の十時から始まって、まる一日ぶッとおして、夜の八時、九時までやって、手をしめてお開きにする。と、その開場まぎわになって、楽屋に弁当がない・・・・・・ってことンなった。そんな時にゃァ、それこそ天丼でもライスカレーでも、そういって取り寄せりゃァいいのに、そいつをその、忠七が、わざわざ弁松へ弁当を誂いたもんです。一百(いっそく)誂えた。そいつが届くうちにゃァもう、みんな帰っちゃうから、足りる足りないじゃァない、もう余りに余っちゃった。そしたらその、おだやかでものの判った三孝さんが、
「これァ無駄だなァ・・・・・・」
 って、そう言いましたよ。そィからあたしが承知をしない。忠七をなぐっちまおうってんで、吉原ィはいってった。もっともこっちァべろべろに酔ってたんですから、碌なもんじゃァない。すると、
「おいおい」
 って呼んだのが、浅草のやくざの山春で、それから、大慶という、吉原のやくざの溜り場みたいになってるすし屋へ行って、
「そんなに酔ってどこィ行く」
「酔ってるたってなんだって、忠七ってやつァふてえ野郎だ、弁当をあんなに誂えやがって・・・・・・これから行ってなぐっちまう」
「だけど、なぐたってしょうがねえ」
「どうしてもおれァやっちまう」
 って、そのすし屋の丸い小さな腰掛けをぶらさげて、戸外(おもて)へ出た。で、酔ってるもんだから、すぐ隣りのうちへ入(へえ)っちゃったんですよ。そのうちじゃァ驚いたってねェ。そうでしょう、べろべろに酔ったやつが椅子ゥひっさげてはいってきたんだから。
 とうとう忠七の居所ァ判らずじまいで、あとから心配して来てくれた人やなんかがあって、まァ当人にも会わないからなぐりもせず、ものもこわさず納まったんですがね。あくる日、そのすし屋の隣りのうちへ、最中の折かなんか持って詫びに行きましたよ。だから腹ァ立てると入費がかかるんです。そのくらいなら腹ァ立てなきゃよさそうなもんだが時々それをやるんですねェ。そんなとこから“とんがり”なんて言われたんでしょうね。

 弁松の弁当を誂えること自体は、決して忠七を責めることはできないだろうが、間に合わないことには、しょうがない。

 それにしても、当時の正蔵の勇ましい姿には、驚く。

 晩年、彦六のイメージから、酔って殴り込みをかける姿など想像し難いのだが、若き日々には、こんな威勢のいい江戸っ子だったんだねぇ。

 それにしても、すし屋のお隣は、びっくりしたことだろう。
 見知らぬ男が酔っ払いって、椅子持って乗りこんできたんだから^^

 さて、もう少し時間を進める。
 圓楽から蝶花楼馬楽を襲いだ時のこと。

 馬楽襲名

 あたしのうちに、馬楽になってからこしらいたワリを入れる財布があって、それに昭和四年としてあるんで、圓楽から馬楽に改名したのは、昭和四年だと思ってたんです。そうしたら、先日あるかたが、第二次落語研究会の番組のビラを見せてくれました。それをちょっとここへ写します。
 そうしてみると、あたしが馬楽になったのは、昭和三年五月てえことになります。

 その写しを、下に私も写す。
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落語研究会第二次第三回 
演 芸 会 番 組

    弥次郎       柳家小ゑん
    浮世床       柳家小せん
    竃怪談       三笑亭可楽
    岸柳島  圓楽改  蝶花楼馬楽
    松山鏡       三遊亭圓生
    居残佐平次     橘家 圓蔵
    粗忽の釘      春風亭柳橋
    ろくろ首 馬楽改  柳家小さん
    心眼        桂  文楽
    法華長屋      林家 正蔵

昭和三年五月第二日曜日(十三日)午前十一時半開場

   開場(神田区通新石町)  立 花 亭
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 先代の蝶花楼馬楽が四代目の柳家小さんとなり、空いた馬楽を圓楽だった正蔵が襲名、というダブル襲名だったことが、これで分かる。

 なお、トリの正蔵は、六代目の「今西の正蔵」。
 文楽は、もちろん大正九年には襲名していた八代目だが、すでに、評価が高かったことが、この出番からもうかがえる。
 圓蔵は、のちの六代目圓生で、義父であった五代目の後に出演していたんだね。
 可楽は七代目、「玉井の可楽」。

 ちなみに、小せんは二代目で、その後廃業し、落語協会の事務などを勤めた人。
 開口一番の小ゑんは、その後八代目の小三治。この人もその後、落語協会の事務になった。
  

 この「馬楽時代」に、あの人について、詳しく紹介がある。
 
 山春のこと

 空襲で死んだってえと、思い出すのは六代目一龍斎貞山ですねェ。大震災の少ゥしあとから、もうずっと、講釈師でありながら、落語界のほうに君臨して、席亭でもなんでも、ものの見事に押さえてたんですから、まァ政治力があったんでしょうが、寄席の講談としちゃァ芸もよかったてえことは事実です。
 昭和二十年三月十日の東京大空襲でやられて、隅田川へ落っこった死骸が、漂流したのを、人足が上げてトラックへ積んで、これを上野の山へ持ってって並べたもんです。そこへ、前にちょっと話が出た、浅草の顔役の“山春”が、焼け出されて上野の山へ逃げてって、つまずいたものがあるから、ひょいと懐中電灯を見たらば、貞山さんの死骸だってんですね。“山春”と貞山さんは仲がよくなかったんだが、ああいう場合には何か因縁ばなしみたいになっちゃうもんで、仲の悪いやつが見つけるってのァおもしろいもんです。

 この浅草の顔役“山春”は、五代目小さん襲名騒動の際に、活躍(?)することになる。

 正蔵によると、こんな人だ。

 この人は、本名を山田鉱次郎・・・・・・ペンネームみたいなもんで、山田春雄といったんで、“山春”ってのが通り名になったんです。芝に永寿亭という寄席がありまして、これァ落語の席じゃァなくて、浪花節(ふし)かなんかやってたらしんですね。そこの倅に生まれて、物ごころついてからお約束の道楽を始めたんで、株屋へ奉公にやらされた。そこをとび出してきて、今度ァあの、飯島という、露店商・・・・・・・デキヤですよね、その大親分のとこへ養子にやられたんですけども、そこも出ちゃって、浅草になんとなく居ついちゃった。
 テキヤのとこへ養子に行ってたから顔は広いでしょう。だから、浅草でも屋根屋の弥吉とかいう親分から何から残らず知ってるから、まァどこの身内というんでもなく、一匹狼みたいなもんですけども、人あたりはいいし、“ポンチ絵の羽左衛門”つったかなァ、ちょいと十五代目(たちばなや)にも似て見場はいいし、頭ァ切れるしで、そのうちに子分が大勢できて、かなり羽振りがよくなったわけです。

 株屋とテキヤをやっていた山春は、とにかくいろんなことを知っていたらしい。
 『牡丹燈籠』の「関口屋のゆすり」で、ゆすりに来た宮野辺源次郎を、逆に伴蔵がおどす時の啖呵、「おれなんぞァ悪いという悪いことは、二三の水出し、やらずの最中、野天丁半ぶったくり、ヤアのトハまで逐(お)って来たんだ」の意味を、すべて知っていたと正蔵は回想する。

 ちなみに、それぞれ次のような内容。
 “二三の水出し”は、白紙を水へつけて文字が出るようになっていて、二とか三とか決まった数字が出ると景品がつく、“やらずの最中”は、最中のからに数字がはいっている、どちらも、客から金を取って、決して勝たせない、いかさま。
 “野天丁半ぶったくり”は、祭りなどで野天でばくちをして、「おいおい、役人が来たぞ」と茣蓙(ござ)を引っ張って場銭(ばせん)をばらばらにして、あとでかき集める、という技(?)のこと。
 “ヤアのトハ”は、“ヤア”はヤァさまのことで、“トハ”は鳩のこと。鳩は人が来ると散るので、仲間が客が集まるまで人寄せをすること。

 正蔵いわく、うえつがたのことは知らなかったが、そういうことは、何でも知っていたとのこと。

 この山春、のちには、横田千之助という政治家や神田伯山の用心棒もしたらしい。

 ですから、浅草へ検事やなんかが視察にくるなんてときには、“山春”を通じて、新門の親分と会わせる。それから芸人が浅草で興行をやるときに、“山春”のうちの者が行ってる、と、あとから来た者ァ決して因縁をつけない、というような按配で。
 伯山さんなんかも、明治座とか、ああいう大きなところで独演会ばッかりよくやってましたから、“山春”はあれでずいぶん役に立ったんですね。

 正蔵と山春との付き合いは、師匠であった三福を山春が贔屓にしていた関係で、山春が株屋を飛び出した際、師匠の家にころがりこんだことから始まった。
 狭い師匠の家の押入れの上と下で寝ていた仲。
 山春は、正蔵を弟のように可愛がり、そのおかげで、長年浅草での仕事では、ゆすりやたかりの被害に遭わずにすんだ。

 山春は、その弟分のために、五代目小さん襲名の騒動で活躍(?)することになる。

 今回は、正蔵自身が威勢のいい喧嘩ッぱやい時分の逸話と、馬楽襲名の時のこと、そして“山春”のご紹介までで、お開き。


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by kogotokoubei | 2018-03-29 12:27 | 落語の本 | Trackback | Comments(0)

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by 小言幸兵衛
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