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“とんがり”のお話(3)ー林家正蔵『芸の話』より。

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 林家正蔵の『芸の話』から、三つ目の記事。

 戦後のお話。
 明治生まれの、今では考えられない当時の心境が回想されていた。

 あのころことによると「陛下」も戦犯に指名されるんじゃないか? なんていう噂がとんだことがありましたネ、もし「陛下」が戦争犯罪人として裁かれるようなことになったら、あたくしは宮城(皇居)のお掘へとびこんで死のう、と、真剣にそう思っていましたネ、もしそんなことになっていたら、あのお堀は殉死した死人で埋まったことでしょうネ、戦前のふるい教育で育ったわれわれはどうしてもそういうことを考えるんですよ。
 あの正蔵にして、と思わないでもないが、これだけは戦後生まれの我々には理解を超える明治人たちの感慨だったのだろう。
 
 食べ物がないひもじさや、税金の取り立てなどにも苦労しながらも迎えた昭和25年、あの名を襲名する。

 昭和25(1950)年に、八代目林家正蔵を襲名しましたが、元来この正蔵という名は怪談噺の家元名で、初代の正蔵は、文化三年に名乗って、天保十三年に亡くなりました。自分の棺の中にひそかに花火をもちこんでいて、火葬にしたらそれがバンバンと威勢よく破裂したという変人です。怪談噺の始祖といっていいでしょう。で、あたくしも怪談噺をやるしするから・・・・・・と、今の三平君のお父さんが先代正蔵で、亡くなってその名があいていたにで、未亡人、つまり三平君のオッ母さんのところへ行ってたのんだら、あたくし一代に限りおかししますというので、了解して八代目正蔵を名乗ったんです。ですからあたくしも、八十歳までこの名でいて、おかえししてもし余生があったら、なんかオツな隠居名前でも考えてみようかと思うんです。ですから、いまの三平君がいずれ、九代目正蔵になるんですネ。この間もその話をして、どうか正蔵にふさわしい芸をやってくださいよ、とたのんだら喜んでくれましたよ。

 本書発行の昭和49年当時は三平の絶頂期と言えるかもしれない。
 脳溢血で倒れる五年前。

 正蔵から、九代目正蔵に“ふさわしい”芸をやってくださいよ、と言われた三平が喜んでいたとのことだが、もし正蔵の問いかけに笑顔で応えたとしても、その笑いが心底喜んでいたものかどうかは、正直なところ、疑問でもある。
 正蔵も、“ふさわしい”という言葉にどんな思いを込めたのだろうか・・・・・・。
 まさか、三平に怪談噺を期待したわけではなかろう。
 父親の七代目正蔵も、怪談噺をするような噺家ではなかったから、父に負けないような正蔵になって欲しい、という思いだったのかもしれない。

 いずれにしても、九代目正蔵は、七代目の子ではなく、孫が襲名することになった。
 その根岸の林家に関する今回の騒動については、もう書かない。
 名跡や襲名には、いろんなことがからんでいるし、考え方も人それぞれだからね。

 次は、この本の出版社にも関連する話題。
 
 聞き手の紫朝に、正蔵が共産党を応援していることについて、きかせて欲しいという問いかけにこう答えている。

 そうですネ、あたしゃなにも共産党の主張とか思想とかに共鳴しているわけでもなんでもありません、政党のことなぞ、ほかの政党もふくめてなんにもわかっちゃいません、しかし自民党にはあきたりないって気持ちはだれしも持っているわけで、そこへたまたま、共産党の人と知り合いになったから、それを応援するという、ただそれだけのもので、社会党とさきに知り合ってたら、そっちを応援したかも知れない、しかし社会党はわれわれ芸人なぞ、そうした階層より、労組といったああいう組織のほうがなにしていて、なにか親しさがない、もっともいまだに共産党が天下をとったら、宮城(皇居)が宮本顕治の住まいになる、なんてひでえことを言うのがいて、こりゃァ漫画にもならないデマで、そういうことをあたしゃ信じちゃいませんがネ、なにごとも自民党じゃ困る、自民党と対決することができる共産党を応援しようって気持ちですネ
 この後、野坂参三から著書を贈ってもらい、お礼の手紙を送ったものの、近所に野本という人がいて、つい、野本と名前を間違え、お詫びの葉書を出した、という話が続く。

 野坂先生から折り返し、人の苗字なぞとかく思いちがいのあるもの、お気になさらず云々とあってネ、仕事が片づきましたらお宅にコーヒーをご馳走になりに伺いますから・・・・・・としてあるんだなァ、ネ、これだけでもあの方の人格ってえものがわかりますよネ、そこでまァ好きになっちゃう
 当時は田中角栄首相時代で、本書発行の二年前昭和47年には、日中国交正常化があった。
 逆に、本書発行二年後の昭和51年に、ロッキード事件が発覚する。

 共産党は、正蔵が好きになっちゃった、という野坂参三が議長。

 sて、共産党に関する正蔵の言葉は、次のように締められている。

 穏健ないまの方針にあきたりないではみ出す人だっていると思うんですが、そういうのは焦ってるんだなァ、焦ったところでどうなるものでもないでしょ、焦らなきゃァならないのはあたくしの年になって芸の完成を目指して焦る、こりゃァ焦りますよネェ、なにしろ先がないんだからネェ。

 明治28(1895)年生まれの正蔵、昭和49(1974)年、79歳の言葉である。
 昭和43年には、紫綬褒章と芸術祭賞の受賞していながら、まだまだ芸の完成を目指し、焦っていたんだねェ。

 “とんがり”の正蔵なら、はたして今の政治状況について、どんな発言、行動をするだろうか。
 
 正蔵とマキさんご夫婦には、六人のお子さんが生まれたが、四人は夭折されている。
 ご長男の信雄さんのことについて、ご夫婦の言葉を最後にご紹介したい。

マキ 亡くなった信雄は子供のころ木馬が好きでネ、浅草の木馬館へ行ってグルグルまわるあれにのせてやったっけ。
正蔵 信雄も可哀想な子だったネ・・・・・・あたくしの長男ですが、戦時中徴用にとられて、どっか地方の工場で働かされて、栄養失調と過労がもとで戦後間もなく二十二歳で死にました。ちょうどあたくしが税金が払えないで苦しんでいたころ、あの子がひとりで寝てる家へ税務署が来て、その病人の枕元の品物からなにまでベタベタ差し押さえの紙を貼っていきゃァがった。
マキ あの時ですよネ、旦那が税務署にのりこんでいったにおは・・・・・・
正蔵 まったく情のカケラもない奴等ばかりであのときばかりは心底腹が立った。
 
 この税務署の行為を、血も涙もない丸太ン棒という。

 正蔵なら、今日の税務署の親方の体たらくを見て憤り、財務省に乗り込んでいるかもしれないなぁ。

 次回は、正蔵の芸の師匠であり、その最後を看取った、一朝爺さんのこと。

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Commented by at 2018-03-22 06:53 x
政党のことは存じませんでした。
万事「とんがり」で、弟子、孫弟子にもその血脈が流れていますね。
Commented by kogotokoubei at 2018-03-22 09:30
>福さんへ

そうでしたか。
本書では、赤旗まつりでも落語を披露したことが書かれています。
政党はともかくも、正蔵の「とんがり」精神、ぜひ一門に継承してもらいたいものです。
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by kogotokoubei | 2018-03-21 12:18 | 落語の本 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛