人気ブログランキング | 話題のタグを見る

“とんがり”のお話(2)ー林家正蔵『芸の話』より。

“とんがり”のお話(2)ー林家正蔵『芸の話』より。_e0337777_17590222.jpg

 
 林家正蔵の『芸の話』から、二つ目の記事。

 大正十二年の関東大震災以降のこと。

 あたくしも震災後は、池袋やら入谷やら、雑司ヶ谷あたりにも住んだりして、転々としましたが、昭和十二年に現在(いま)のところに落着いていつの間にか、三十四~五年になっちまったんですネ。そうこうしているうちに日支事変の前ぶれの満州事変やらなにかがおきて、国民はツンボ桟敷におかれたまま、非常時となってくるんですが、どうもそんな世の中のことはあたくしどもには大して興味もかかわりあいも感じませんでしたがネ、「日支事変」のはじまる前、「満州」に出兵していた兵士の慰問ということで、当時の陸軍省新聞班、これがのちの情報局の前身だったらしんですが、ここから派遣されることになり、あたくしと貞丈(先代)が熱河省あたりへ慰問に行くわけですが、むこうについたら、あっちは関東軍の支配下でネ。陸軍省の御用で行ったわれわれも、あの関東軍の威勢には驚きましたネ。

 落語家で大陸に慰問、となると、どうしても志ん生、円生の方が有名だが、彦六も行っていたのである。
 
 この後、零下何十度というとんでもない寒さを、餞別でもらった真綿を体中にまきつけて、しのいだと書かれている。
 結構、大変だったんだねぇ。
 しかし、良いこともあったようだ。

 この前線慰問というのはいい稼ぎになりましたネ。日当五円ぐらいもらえるんですからネ、それでどこへ行っても喜ばれるし、内地ではそろそろ食えなくなったようなものだってフンダンにあるし、あの前線慰問でうるおった芸人がずいぶんいるんじゃありませんか? 情けないッていっちゃえばそれまで、それほど、寄席の芸人が貧乏してた・・・・・・ってわけですな。

 その後、戦況が悪化していった。
 それが、昭和18年ころともなると、前線慰問もだいぶ事情がかわってきましてネ、その年の六月に、およそ三ヵ月という約束で、そのときは広東(現在の広州)へ行ったんですが、われわれ慰問団が到着した現地に、とっくに還れるはずの、先発隊の“たぬきや連”の人たちがまだまごまごしてるんですよ、輸送船などが狙われて爆撃か魚雷か知りませんがどんどんやられちゃうので船の手配がつかない・・・・・・なるほどその人たちの腕にまいた日の丸の腕章が色あせて、黄の丸になっちゃってましたネ、こりゃァわれわれもひょっとすると・・・・・・と予感が当たって、順調にいけば八月中に内地に還れるはずが、何とその年の十二月に、それも台湾から、やっとの思いで調達してくれた船にのってかえることができました。いよいよ明日はかえれるという前夜お名残りの演芸会で皆気はそぞろ、歌手は唄をまちがえるし、あたくしも手馴れた噺を何度も絶句したりとちったり、あのときほど嬉しかったことはありませんでしたネ。
 「明日は、帰れる」との思いが、どれほど嬉しかったか、逆に、それまでどんなに不安な日々を送っていたかを察することができる。

 正蔵は、国内でも慰問をしていた。
 その慰問行脚で、運命というものを深く考えることがあった。
 
 けど、人間の運命なんていうのはふしぎなもので、あの終戦の年には、あたくしは鉄道慰問で北海道へ行ってましてネ、あっちこっちまわっているうち、樺太へも行ってくれということになり、一同その気でいましたら、どうも敵の飛行機の機銃掃射なんかがあって危険だからやめよう・・・・・・ということになって、札幌で待機していると、するとまただいぶ危険が遠のいたから行ってくれないか・・・・・・といわれたちょうどそのころに、一行中の猫八(現木下華声)に赤紙が来たんです。急いで東京に帰らなくちゃならない、それであたくしどもも、樺太はやめにして、そのころは欠航続きだった青函連絡船にかわる駆逐艦かなんかにのって、青森までたどりついたんですが、その艦にのりこんだところ、艦にある弾丸を打ちつくしたら船は自爆するからそのつもりで・・・・・・なんておどかされてネ、まったく生きた心地もありませんや、青森へ着いたら、猫八がネ、ここでひと晩泊りたいなんていうんですよ、だから、そいつァよしたほうがいい、この先何が起こるか判らないのだから、いっときも早く汽車にのろうと、夜行列車にのりこんで帰ってきましたが、その夜の大空襲で青森がやられたということです、あれもし泊っていたら、土地不案内のところですからネ、助かってたかどうか。

 青森大空襲は、昭和20年7月14日から15日にかけてのことだったので、まさに、敗戦直前の猫八への赤紙だったわけだ。

 なお、猫八への赤紙は「8月15日入隊」となっていたらしい。

 もし、猫八の誘いに乗って、青森に泊まっていたら・・・・・・。
 
 この二代目江戸家猫八の本名は長谷川栄太郎で、明治45(1912)年生まれなので、当時は33歳。
 なお、木下華声の父は、一時東京の落語界で一世を風靡した柳派の五厘の大与枝。華声は、野村無名庵の甥でもある。

 大与枝のことは、大正期の東京落語界の戦国状況に関する記事に、登場する。
2018年2月8日のブログ
2018年2月9日のブログ
2018年2月10日のブログ

 大与枝は、柳家の「番頭」と呼ばれ、三代目小さんを名人に仕立てあげたことでも知られるし、大道芸人だった初代猫八を見出した人でもある。また、初代快楽亭ブラックの興行なども行ったらしい。

 しかし、その大与枝は、大正六年に伊藤痴遊との関係が悪化してから五厘の地位を失い、その後、家は没落していく。

 初代猫八は、世話になった大与枝の倅ということで、栄太郎をひきとり、二代目猫八に育てあげた。
 そして、その二代目が、初代の倅を預かって、三代目猫八となる。

 昭和20年7月14日、もし、青森に泊まって空襲に遭遇していたら、もしかすると、三代目猫八も、もちろん、四代目も存在していなかったかもしれない。

 あくまで、歴史にタブーの「もし(if)」の話だが。

 木下華声と正蔵は、徳川夢声が主催した「談譚集団」という漫談研究会で、一所に漫談修行をするような間柄だった。

 本書には、戦中の苦しい生活体験が語られている。
 東京大空襲では、奇跡的に稲荷町界隈は空襲から免れたが、浅草方面に見舞いに行く途中で、その被害の酷さを目の当たりにしている。

 ようやく敗戦となり、正蔵の戦後が始まる。

 さて、どんな“とんがり”を発揮してくれるのか、次回ご紹介。
 

名前
URL
削除用パスワード

※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。

by kogotokoubei | 2018-03-20 12:45 | 落語の本 | Trackback | Comments(0)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31