噺の話

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“とんがり”のお話(1)ー林家正蔵『芸の話』より。


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 先月末で閉店した池袋の古書店、八勝堂で三冊買った中の一冊が、この林家正蔵の『芸の話』(新日本出版社)だった。

 三冊の中の一つ坊野寿山著『粗忽長屋』からは、噺家の川柳の会鹿連会の参加者を中心に、寿山ならではの回想を紹介した。

 こちらの本は、昭和49(1974)年の初版。

 「赤旗」を購読していた正蔵に、同出版社が目を付けた、ということかもしれない。

 このような目次。

 その一 噺家のはなし 聞き手・柳家紫朝
 その二 怪談ばなし  真景累ケ淵(水門の場)-林家正蔵演ー
 その三 噺のはなし  聞き手・柳家紫朝
 その四 噺家の手帖
 あとがき
 八代目林家正蔵略歴

 「噺家の手帖」は、『民族芸能』に掲載された随想なのだが、同随想は、彦六没後に一冊の本となっている。
 その中から、「選挙のこころ」という内容を、以前紹介したことがある。
2014年11月29日のブログ

 「あとがき」は、民族芸能を守る会、の茨木一子さんが書いている。
 その随想のことなども書かれているので、先にそちらから引用。

 “民族芸能を守る会”といういささかぎょうぎょうしい名前の会の最初の例会からもう十一年、私たちは正蔵師匠の年々歳々、なんともいえないおかしさとふかみをましてゆく芸にあきることなくきき惚れ、絶妙のマクラや随談にみる反骨魂とシャレッ気に共感するのでした。そのうちに欲をだして随想をせがみ1967年4月から“噺家の手帖”と「民族芸能」誌上に毎月書きつづけていただきました。こんどはそれをそのままわずかの人たちのあいだにしまっておくのがもったいなくなったのです。
 (中 略)
 あまり気の長いほうではない柳家紫朝さんですが、小さな四ツ目がきの八つ手葉がみずみずしい梅雨上りのころから、軒さきの霜枯れの菊のわびしい師走の日まで二年越し、ひまをみては師匠のはなしをテープにおさめ、それをまとめる作業をひきうけて下さいました。馬生師匠が表紙の字を、正楽さんはカットを受けもって下さいました。
 “今日はあいているからどっか地域寄席はないかい”という正蔵師匠を、そのまま本にしたいというのが私たちのねがいでした。そんなてらいのない誰にもしたしんでいただける“お茶の間の本”をという意図が少しでも実現できているとすれば、それは新日本出版社の編集の方たちの率直な御意見に負うとことが大きいと思われます。

 たしかに、“お茶の間の本”という趣きはあるが、その内容は、ところどころ、とんがっているのは、やはり“とんがり”の本だから、当然か。

 では、その一、から。
 落語革新派をつくった、とんがった頃のおはなし。

 いまとちがって、むかしは、噺家の稼ぎ場所は寄席だけで、それにすがってみんなが細々と暮している。ですから幹部に気にいられるといられないとじゃずいぶん差がつくわけです。大正十三年といえば、あたくしが数えで三十歳、血気さかんなときですから、この依怙ひいきがどうにも我慢できない、そのころは演芸会社がだめになって、落語協会のごく初期のころ、その幹部にむかって、もっと平等に扱ってもらいたい、そのためには、給金をまず同じにすべきだ、といったような要求をしたんですが、こりゃァ考えてみりゃァあたくしも間違っていた、こっとはまだ芸も未熟なんだし、お客だってよべない、それを平等にしろというんですからネ、もちろんこんな意見がいれられるわけがない。そこで、当時二十七歳の、柳家小山三といっていたいまの今輔なんかと語らいあって、協会を脱退し、落語革新派という一派をつくったんです。

 やるねぇ、とんがり!
 当時は、三遊亭円楽。

 この後、大正十三年九月一日、浅草の橘館で旗揚げ興行をやった、とあるのだが、これは、大正十四年の誤りだろう。
 だから、引用した文中の大正十三年も、十四年が正しいはず。

 いずれにしても、ほぼ三十歳の頃の、とんがりの行動。

 なお、関東大震災後の落語協会設立以前の東京の落語界が戦国の様相を呈していたことは、暉峻康隆さんの『落語の年輪』などを元に先月書いた。
2018年2月8日のブログ
2018年2月9日のブログ
2018年2月10日のブログ

 橘館の興行は連日満員だったとのこと。

 落語のみならず、それぞれが五分間ずつ協会幹部の弾劾演説をし、大当たりだったらしい。
 しかし、多勢に無勢、とんがり達の“革新”も、そう長続きはしない。

 浅草の橘館は大入りだったんですがなにせ出演者の顔ぶれが変わらないからどうしてmぽマンネリになる、あの当時うけはじめた安来節なんかにも出演してもらって興行的にもちゃんと算盤をはじけばよかったんですが、どうもそうしたことは頭がまわらない。それに一ヵ所でばかりやってると、こっちの芸も安易になっちゃう。そんなわけで次は、牛込亭でやらせてもらうんですが、その時はすぐそばの神楽坂演芸場のほうが協会の豪華な顔ぶれでやられたので、敗北でしたネ、それで、正月の初席をまた橘館でやらせてもらおうとたのみに行ったら、こっちにもすでに手がまわされてにべもなく断られてしまう。さァニッチもサッチもいかなくなっちゃった、今ならそれでもほかに出演するとことがあるからなんとかやっていけるでしょうが、その当時ですからネ、“で場所”は寄席しかない、そこでこの革新運動も手詰まっちゃったわけです。

 とんがりの反乱は、半年も持たなかった。
 
 あくる年の一月三十日、小山三(今輔)が上野の鈴本とは親せき関係だったので、そこで、革新派の解散式をやって、わずか五ヵ月たらずでだめになっちゃいました。それから小山三は鈴本の倉庫番になり、あたくしは、睦会のほうへ前座同様に格下げされてはいって、それからしばらくして、落語協会に復帰しました。そのときは、金馬(先代)がめきめき売り出しはじめたころです。
 まああたくしにしてもまだ若かったし、これが今日のような世の中だったら、あれを成功させることができたかも? そうですネ、ある程度のところまではやれたでしょうが、なんにしても若い、成功すりゃ成功するで、それこそ有頂天になっちゃって、芸のほうがまるっきりおろそかになっちゃっていたでしょうネ、あの当時だって、いまだって、うまくないですからネ。ただああしたことをやったことに、それなりの意義はあったように、いまでも思っています。

 一緒に戦った当時の小山三は、その後の五代目古今亭今輔、あの“お婆さんの今輔”である。

 当時の円楽と小山三たちの反乱は、なんとも短い間に終焉を迎えたが、ご本人が後悔していないようだし、きっと、その後の正蔵、今輔にとって、芸の肥やしとなったのだろう。

 時代はその後、昭和を迎える。

 次第に、軍靴の響きが聞こえて来る。

 次回は、そんな時代の、“とんがり”のお話。


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by kogotokoubei | 2018-03-19 12:36 | 落語の本 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛