二十代の談志を振り返る(2)ー立川談志著『現代落語論』より。
2018年 03月 15日

立川談志著『現代落語論』(三一新書)
このシリーズの二回目。
昭和30年に、湯浅喜久治のプロデュースで始まった、古典落語を妙に細工せずに演じようという若手落語会のこと。
最初のメンバーは三笑亭夢楽、桂小南、金原亭馬の助、桂小金治、三遊亭玉遊、桂木久助、そして小ゑんだった談志。
その後大看板になった人や、小金治さんの名が並ぶ。
玉遊は、その後春風亭枝葉となり、廃業後は末広亭の従業員になった人だろう。
木久助は、その後の七代目春風亭柳橋。
協会の壁を越えた、若手の会。
その後に東横落語会を始めた湯浅喜久治がつくる会だから、なかなか、贅沢なものだった。
会場は有楽町の第一生命ホールで、ここをホームグラウンドとして年四回の公演。入場料は100円で全席指定席。
湯浅の顔か、それともよいものをやろうというみんなの熱意がきいたのか、毎回大入り満員だった。
もちろん100円の入場料だから完全に赤字。湯浅が借金を全部背負ってくれていた。
おまけに、オエライ先生方が大勢きてくれて、久保田万太郎、小泉信三、志賀直哉の諸先生。
横山泰三画伯のデザインで“絣のように”と書いてあったこの切符には、鈴木信太郎画伯のさし絵。“若手落語会”と書いた題字は武者小路実篤先生。
おまけにプログラムには、前記の先生方の他に、谷川徹三先生の寄稿もあり、何と石川淳先生が落語を書いてくれ、この『蛙』という噺を木久助(今の春風亭柏枝)が演じた。
こんなぜいたくなプログラムはあとにも先にもみたことがない。
おまけに100円だから若い客層でいっぱい。金屏風をやめて白い清潔な屏風の前でわたしたちは熱演した。
なんとも贅沢な会であることか。
昭和30年の映画料金は封切館で130円という記録がある。
映画より安い落語会、今の時代でも格安と言えるだろう。
湯浅は、構成にも彼の思いを込めた変革を行った。
サラ(最初)とトリに重点をおいて、仲入りに力を入れた。
前に四本。仲入り(休けい)をはさんで後三本の編成。
そしてやがて落語に安藤鶴夫、榎本滋民氏等の演出者を招き、同じだし物で、芝居のように三日間つづけて公演するようになった。
アンツルさんに、榎本さんも、この会の意義を認め、積極的に関与していたということか。
同じ演目で三日連続公演、これだけ多い出演者ならば、その趣旨は理解できる。
メンバーに入替えがあり、小金治さんが抜け、小南、玉遊もやめ、その代り、全生だった円楽、朝太だった志ん朝、とん馬だった遊三などが参加した。
しかし、この若手落語会も、若手敏腕プロデューサーを失い、消滅することになる。
強烈なリーダーシップと、そのリーダーへの信頼があってこそ、出演順などにも同意してきたメンバーだったが、湯浅を失って、それぞれの会への思いの違いが明らかになってくる。
談志は、次のように振り返っている。
今後この会をまとめていくには、同人がみな平等で、という意見がだされたわけで、
“トリも、サラも、仲入りも、順番にやろうじゃないか”
“だし物も自由にやろうではないか”
という意見だったが、わたしは反対した。
志ん朝の意見は、
“わたしは一ヵ所でも多く噺を語れるところがあればよいと思っているし、ほかのことはどうでみいいんです。わたし自身の勉強ですから・・・・・・”
いかにも彼らしい意見だったふぁ、わたしはダメだった。
江戸っ子のわるいくせで、ダメなものはダメ、よいものはよいで、その中間がない。
今はダメでも何かそこから生まれてくるのではないか? という考え方ができない。
“やっているうちには何とかなる”というような考え方ができないのだ。
まして芸のコトだ。ダメなのは、絶対に嫌だった。
わたしは、“このさい、誰と誰だけでやろう・・・・・・”
という案をだしたが、けっきょく、夢楽さんに受け入れられず、
“じゃアやめるよ”
と、いともかんたんに会をやめた。
当時の朝太と小ゑんの違いは、その後も基本的には変わらなかったように思う。
談志が、いったい“誰と誰”の名を出したのか、実に興味深い。
“ダメなものはダメ”という談志の考えは、裏返すと、“良いものは良い”ということにもなる。
私は、噺家としての談志よりも、彼の審美眼のたしかさから、芸能の指南役としての談志を高く評価している。
二十代の頃から、談志は優れた芸能指南役としての顔を本書で見せている。
次回は、そんな姿をご紹介したい。
さればこそ、協会を出た後、立川流が軌道に乗るまで、相当かりかりしていたという話は納得できます。
あそこは談志の人生のターニングポイントだったんですね。
心底、師匠の小さんが好きで、また、寄席が好きなのが談志だったと思います。
出る以上は、成功させないわけにはいかない。
よって、寄席に出ることのできない状況でも弟子を育てるための基準も、あれだけ厳しく明確に定める必要があったのでしょう。
まだ四十代だったから、できたことかもしれません。
