二十代の談志を振り返る(1)ー立川談志著『現代落語論』より。
2018年 03月 14日
あの後、扇遊の芸術選奨文部科学大臣賞受賞の報せがあった。
この二冊が落語家を目指す若者に与えた影響は少なくなかったのだろう、と感じる。
落語が好きだった私も、この二冊と興津要さんの『古典落語』を愛読していた高校生だった。
落語家には、ならなかったけど^^
扇遊のマクラを聴いて懐かしくなり、まず、『落語の世界』を再読し、少し記事を書いた。
さて、次はこちらだ。

立川談志著『現代落語論』(三一新書)
今さら、説明するまでもないだろうが、昭和40年初版、談志が二十代で書いたロングセラーだ。
この本からは、ずいぶん前に三遊亭歌笑のことを書いた際、歌笑が亡くなった時に14歳だった談志が泣いた、ということを紹介したことがある。
2009年5月28日のブログ
当時、談志がどんなことを考えていたのか、を振り返ってみたい。
落語協会を脱退して立川流を創設して以降の談志、そして、晩年の談志のイメージがどうしても強いのだが、二十代の談志は、こんなことを考えていたんだと少なからず驚くことが多い。
当時、談志の考えに大きな影響を与えた一人が、東横落語会を創設した湯浅喜久治であった。
談志は、湯浅について、次のように書いている。
この湯浅喜久治にはずいぶん教えられるところがあって、この人の落語にたいする考え方には、わたしもなるほどと思い、わたしが、落語にたいして持っていた疑問などにも、あるていど答えてくれた。
湯浅はこんなことをいった。
“江戸時代にできた落語を、昭和の初期まではそのまま、噺の中の金銭にしても、両から円に変え、あるいは人間に靴をはかせ、シャッポをかぶせ、汽車に乗せて演じても、それほど古典落語のムードをこわしはしなかったと思う。
というのは、いわゆる人情に変わりがなかったからで、人びとの心に流れるものは、忠君愛国であり、義理・人情であったろう。それらを体で感じていた旦那や、番頭や、小僧や、ばあや、ご隠居もいたし、八っつあんもいたろうし、熊さんもいたろう。その人たちの考える英雄忠臣は、源義経であり、楠正成であったろう。ところが今や、敗戦を機にしてまるですべてが変わってしまった。
もう五、六年もすると、あるていど人びとのモラルも固まってくるだろうが、現在はどこにその基準を求めていいのか、さっぱりわからない状態だ。こんなときに、落語の舞台を現代におきかえても、八っつあん、熊さんの人間的な豊かさはでてこない。
それならば、いっそのこと、昔のままの噺を演じようじゃないか。中途半端なことをしないで、いまの世相をただ話題にするだけのようなちゃちなマクラの漫談などもやめて、もっと徹底的に、昔のままでやろうじゃないか”
この湯浅の考え方、晩年の談志のイメージからは、決して賛同するようには思えないのだが、当時の談志は、違っていた。
湯浅のいわんとするところはよくわかる。要するに、落語そのものの楽しさ、豊かさ、おもしろさを残すには、なまじっか、当世風の、アチャラカ風の描写や説明はしない方がいいとおもうのだ。
わたしもこの意見には賛成で、今でもこの見方は正しいと思うし、自分の落語の考え方の根本にしている。
二十代の談志、こんなふうに考えていたんだ、と若干驚いた。
この後、あるネタを元に、談志の考え方が披露されている。
古典落語のセンスとトピック
噺の背景は、江戸なら江戸でハッキリさせよう。明治なら明治、大正なら大正でー、と。
もちろん、古典落語をいまの若い落語家が、いまの落語ファンを前に語るのだから、話のテンポはもちろん現代だし、したがって、社会的なトピックも入れないわけではない。でもトピックを入れたことで、全体の噺のムードがこわれてしまってはおしまいだ、と話し合った。さアそうなると、今度はその噺を演じる落語家の古典落語にたいするセンスがあるていどなくてはならない。
トピックをはさむという例として、師匠の噺の中にこんなのがある。『湯屋番』という噺で道楽者の若旦那が勘当になり、湯屋に奉公に行き、番台にあがっていろいろと妄想をする中で、
“女と二人になってどんな話をしようかナ、これでまた朝鮮の方の戦争も・・・・・・。あんまりいい話題じゃねえナ・・・・・・”と若旦那がいうところがあった。
三十八度線での戦争がはげしい頃だった。
このトピックをたくみに取り入れて、しかも『湯屋番』という古典落語のニュアンスをこわさずに演じる、このセンスのよさ。これを、
“・・・・・・これでまた板門店における三十八度線を・・・・・・”とやったらもうダメで、まるでその部分のみが浮いてしまう。
“朝鮮の戦争”という言葉の豊かさ。同じだからといって、ベトナムが、もめているカシミールが話題になっているからといって、
“・・・・・・これでなんですナ、パキスタン・・・・・・”とやったらこれもダメなのだ。
「朝鮮」でなければいけないんだ。カン国といったらもうニュアンスがちがってきてしまう。
本書には、師匠小さんを慕う談志の気持ちが、いたるところで表現されている。
そういう師匠へのひいき目もあろうが、なるほど、“朝鮮の戦争”という一言が、他のベトナムやカシミール、パキスタン、カン国などより効果的、というのは分かる。
“古典落語のニュアンス”をこわさない、現代のクスグリでなければいけない、という思いが、二十代の談志には強固なものだったということか。
そして、悪い例も次のように書かれている。
同じように、『湯屋番』である師匠が、
“若旦那、あなた、たいへんな道楽者だそうですね”
“イヤ、道楽者だなんて・・・・・・、べつにわたしは、ただ女の子に大勢取り巻かれて、アラ、お兄さん、・・・・・・そんなことしちゃあ、イヤヨォー、てなこといわれて、膝んところなんか、キュッとつねられるのが、わたし好き”
“たいへんな人がきたね、こりゃあ”
というやりとりを、その人は“たいへんな人”というかわりに、“たいへんな太陽族がきたね”といったー。
“太陽族”と入れた努力も六十何歳の老人にとっては現代に敏感なんだ、ということをしめしたい心意気も分からないでもないが、これでこの話をメチャクチャにしているわけで、この人は、こういう逆のアナクロニズムがなかったら、もっと一流でとおったはずなのに・・・・・・。
この“たいへんな太陽族”を言っていた噺家の名は明かされていない。
しかし、談志がそう嫌いな人ではないことは、この文章からは伝わる。
“たいへんな人”でいいのに、もったいない・・・・・・という思いがあるのが察せられる。
湯浅喜久治の、時代も変わり価値観も変わった時代、下手な細工などせず、古典落語を徹底的に昔のままやろう、という考え方に大賛成だった、二十代の談志。
では、その考え方を後年には捨て去ったのかどうか・・・・・・。
やはり、常に古典落語を現代にも通じるように変える姿勢や努力することの重要性が、談志の思いとしては強くなったと思う。
しかし、変えていい部分、変えてはいけない部分、ということについては、しっかりして哲学、センスで線引きをしていたことだろう。
ジャズの譬えで「イン」と「アウト」、その両方が落語には重要であるということを、あらためて思う。
さて、湯浅の考えに賛同した談志は、湯浅をプロデューサーとする若手落語会のメンバーとなるのだが、その後大看板となる若手が集った落語会のことは、次回。
