「変えないために変える」ということー柳家つばめ著『落語の世界』などより。
2018年 02月 28日

柳家つばめ_落語の世界
この本から、懲りずにまた。
柳家つばめは『私は栄ちゃんと呼ばれたい』を代表とする新作派として有名。
とはいっても、彼が古典落語に否定的か、というとそんなことはない。
「古典落語のすばらしさ」から引用する。
まず、その冒頭部分。
新作落語をけなす、古典落語家はいる。かつて、新作派を代表する噺家だった人の言葉だ。
しかし、古典落語をけなす新作落語家はいないだろう。
それほど、古典は完成されたものなのだ。
古典の内容には、あらゆるケースが盛り込まれている。
だから、新作落語をつくったが、古典のある噺に似てしまったので、やめてしまった、という例がずいぶんあるだろうと思う。
古典にないものをつくろう。
古典からぬけだそう、と、皆ずいぶん心がけているにちがいない。
私は、古典落語が好きでなければ、いい新作落語はできないものと思っている。
やはり、分かっていらっしゃるのだ、この人。
つばめの古典落語の賛美は、続く。
たいしたものだと思う。
その人間心理をえぐる表現。
心理をえぐるだけなら、心理学でいい。
それを表現するだけなら、小説にまかせよう。
しかし、落語は、それを誰にもわかりやすく、笑えるように表現している。
そして、ごく自然な情景描写。
このすぐれたものが、多数の落語家の手をへて、言いかえれば大衆の手によって、つくられたのである。
ある一人の天才、文豪の手によってつくられたものではない。
だから、私は、大衆を信じる。
だから、と言うことはないが、とにかく、私は、大衆の叡知、を尊敬している。
まさに、落語愛に満ちた言葉の数々。
数多くの落語家、いわば、大衆の手によってつくられた古典落語の素晴らしさを、柳家つばめは愛し、評価していた。
では、古典を、今の姿のままに演じればいい、と思っていたか言うと、そうではない。
ある落語家の言葉を借りて、つばめは次のように指摘する。
亡き四代目小さん!
私の師匠の旧師匠に当たるひと。
彼は言っている。
「創作力のない者は、噺家ではない」
ずばり言ったものだ。
これは、何も、新しい噺をどんどん創り出さなければいけない、という意味ではない。
古典落語でも、その演者の創意が加わらなければいけない、ということである。
噺そのものを、より良くし、また、時代に合う、誰にでもよくわかる演出を創り出さなければならないということだ。
こうも言っている。
「芸は動いていなくてはいけない」
一年前の噺と、現在の同じ噺と、一分一厘狂いがない、というのはいけない。いや、狂ってはいけない部分はもちろんある。しかし、全体をこれでいいと思い込んでしまって、そのとおりにしかやらない、というやり方はいけない、と言っているのだ。
常に、噺に創意を加えよ、ということ。
残念ながら、私は、四代目の師匠には接していない。
しかし、現在の五代目の師匠をはじめ、いろいろな人を通じて聞く、四代目の見識というものに、最大の敬意を払う。
四代目小さんについては、過去の記事で何度かふれたことがある。
たとえば、四年ほど前、五代目の本や興津要さんの本を元にした記事。当時売れっ子の歌笑が客席を爆笑させた後に上がるのを、どの噺家も嫌ったが、四代目小さんは、歌笑が客席をひっかき回した直後の高座で、客をしっかりおさえていたという話をご紹介した。
2014年5月15日のブログ
この章を読んでいて、四代目小さんの言葉や、つばめの指摘などから、最近読んだある本に思いが及んだ。

畑中洋太郎著『技術の街道をゆく』
それは、「失敗学」の提唱者である畑中洋太郎の『技術の街道をゆく』だ。
司馬遼太郎の本に敬意を表した題名の本で、国内外の技術の現場を訪ねながらの出合いや見聞に基づき、苦境を迎えている日本の技術者に対して示唆に富んだエール送っている書、と言えるだろう。
その本の中で、有田焼の現場を訪れた著者は、次のように言う。
有田焼が400年間まったく何も変わっていないか、というと必ずしもそうではない。世につれ時代につれ、技術に対する人々の要求は移り変わってゆくものである。また、技術に対する制約条件も変わってゆく。それでも同じ物を作り続けていかねばならないとき、技術は変わらなくてはいけない。
ただし、有田焼で注目すべきところは、「変えないために変える」という動作を一貫して行ってきたことである。有田焼をその発祥から時間軸に沿って、「技術」「ニーズ」「リソース」「経済」「時代」「人」「生活」「芸術」という要素の変遷から見ていくと、技術の根幹は変えずに、要素をさまざまに変えて現在に至っている様子がわかる。
古典落語における「創作力」も、まさに「変えないために変える」力ではなかろうか。
「芸は動いていなくてはいけない」という言葉にも、同じような意味合いを感じた。
ということで、先日の三田落語会における扇遊のマクラで思い起こした柳家つばめの本をめくりながら、落語と有田焼という二つの世界の伝承における共通性について、考えていた。
「変えないために変える」-なかなか、深~い言葉ではなかろうか。
そのためには伝統、守るべきものの神髄をつかむことが必須。
ときどき、いやおうおうにして、それなしに独りよがりの変更を加えたり、面白くもないクスグリを入れるのですね。
能、文楽の後継者たちも必死です。
歌舞伎、能、狂言、文楽、そして、落語・・・・・・。
すべての伝統芸能に、変えないために変える、革新し続けることで伝統を保守する、ということが当てはまるのでしょうね。
しかし、守るべきものを間違えると、それは、とんでもないまがい物になってしまう、ということか。
なかなか、そこのところが難しそうです。
落語研究会では、弟子の高座がお気に召さなかったようですね。
まず、変えてはいけないことについて、師匠は弟子に伝えるべきなのでしょう。
市馬が、五代目小さんの教えを伝承するなら、登場人物の「了見」になることの大事さを教えているかどうか・・・・・・。
弟子の中では、市童には期待しています。
