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旬の噺『蔵前駕籠』と、漱石との関係とはー矢野誠一著『落語歳時記』より。

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矢野誠一_落語歳時記
 今日二月十八日は、旧暦の正月三日。

 旬の噺、『蔵前駕籠』のことを矢野誠一さんの『落語歳時記』で読んでいて、関連した逸話に目が止まった。

 幕末のある正月の出来事、という噺。
 まず、この本の冒頭部分を、ご紹介。

 三日 無精ひげさまになりたる三日かな

蔵前駕籠(くらまえかご)

    慶応四年という年は、不思議な年で、正月の三日から鳥羽と伏見の
    戦いが始まりました。
      *
 物情騒然という言葉があるが、三百年の歴史を誇った徳川幕府が、いまや瓦解しようという時期の江戸市中などまさにそれであろう。とくに慶応四年(明治元年)の正月は、お屠蘇気分も抜けない三日に、「鳥羽伏見の戦い」が始まったのだから、これはたいへんなことであった。林家正蔵(彦六)の十八番として知られ、古今亭志ん生の飄逸味がなつかしい『蔵前駕籠』は、小品ながら優れた落語感覚の横溢した、洒落たはなしだが、この騒然たる江戸が背景になっている。

 この後、あらすじが説明されている。

 ご存知のように、当時、吉原通いの駕籠を蔵前通りで止めて追剥を働く者がいた。
 由緒あって徳川家へお味方する浪士と名乗り、軍用金が不足しているから、という理屈で駕籠の客の身ぐるみ脱がす、という事件が勃発した。
 駕籠屋も、だから吉原方面には夕方以降は駕籠を出さない。
 しかし、世の中には「女郎買いの決死隊」がいて、無理を言って吉原まで乗ったのだが・・・という筋書き。

 矢野さんの本では、この章の後半、ある小説家の逸話が紹介されていた。

 江藤淳による『漱石とその時代』(新潮社)の冒頭は、夏目漱石が生まれた慶応三年(1867)年の、ということは、『蔵前駕籠』の背景になっている時代の、江戸のありさまがかなり克明に書かれていて興味ぶかい。面白いことに、漱石の生家に、この頃流行りの強盗がおしいっていて、江藤淳はこう書いている。
  「牛込馬場下の夏目小兵衛の家に、軍用金調達と称する抜身をひっ下げた黒装束の八人
  組が押し入って、五十両あまりの小判を強奪して行ったのはこの頃のことである。幕府
  は旗本に命じて諸隊を編成させ、市中の巡回にあたらせたがあまり効果がなかった。警
  察力に期待できないことを知った夏目家では、それ以来柱を切り組にしてその中に有り
  金を隠すことにした」
 まったく駕籠屋と同じ被害にあっているわけで、黒装束の八人組などというのも『蔵前駕籠』をほうふつさせる。
 のちには、正岡子規と連れだって、さかんに寄席通いをするようになり、その作品に、落語からの影響が少なからず認められる漱石だけに、『蔵前駕籠』に接していないはずはなく、自分の生まれた年に生家で起こった事件と落語とのつながりにどんなものが去来したか、文豪の胸のうち、興味ぶかくもある。

 へぇ、蔵前駕籠に登場するような物騒な連中が、なんと漱石の生家を襲っていたんだねぇ。

 矢野誠一さんが『落語讀本』で明かしていることだが、実は、漱石自身が作品に、この強盗騒ぎのことを書いている。
 青空文庫の『硝子戸の中』から、引用する。
青空文庫「硝子戸の中」(夏目漱石著)
ついこの間昔私の家へ泥棒の入った時の話を比較的詳く聞いた。
 姉がまだ二人とも嫁かたづかずにいた時分の事だというから、年代にすると、多分私の生れる前後に当るのだろう、何しろ勤王とか佐幕とかいう荒々しい言葉の流行たやかましい頃なのである。
 ある夜一番目の姉が、夜中に小用に起きた後、手を洗うために、潜戸を開けると、狭い中庭の隅に、壁を圧るような勢いで立っている梅の古木の根方が、かっと明るく見えた。姉は思慮をめぐらす暇もないうちに、すぐ潜戸を締めてしまったが、締めたあとで、今目前に見た不思議な明るさをそこに立ちながら考えたのである。
 私の幼心に映ったこの姉の顔は、いまだに思い起そうとすれば、いつでも眼の前に浮ぶくらい鮮やかである。しかしその幻像はすでに嫁に行って歯を染めたあとの姿であるから、その時縁側に立って考えていた娘盛りの彼女を、今胸のうちに描き出す事はちょっと困難である。
 広い額、浅黒い皮膚、小さいけれども明確はっきりした輪廓を具えている鼻、人並より大きい二重瞼の眼、それから御沢という優しい名、――私はただこれらを綜合して、その場合における姉の姿を想像するだけである。
 しばらく立ったまま考えていた彼女の頭に、この時もしかすると火事じゃないかという懸念が起った。それで彼女は思い切ってまた切戸を開けて外を覗こうとする途端に、一本の光る抜身が、闇の中から、四角に切った潜戸の中へすうと出た。姉は驚いて身を後へ退いた。その隙に、覆面をした、龕灯提灯を提さげた男が、抜刀のまま、小さい潜戸から大勢家の中へ入って来たのだそうである。泥棒の人数はたしか八人とか聞いた。
 彼らは、他を殺めるために来たのではないから、おとなしくしていてくれさえすれば、家のものに危害は加えない、その代り軍用金を借かせと云って、父に迫った。父はないと断った。しかし泥棒はなかなか承知しなかった。今角の小倉屋という酒屋へ入って、そこで教えられて来たのだから、隠しても駄目だと云って動かなかった。父は不精無性に、とうとう何枚かの小判を彼らの前に並べた。彼らは金額があまり少な過ぎると思ったものか、それでもなかなか帰ろうとしないので、今まで床の中に寝ていた母が、「あなたの紙入に入っているのもやっておしまいなさい」と忠告した。その紙入の中には五十両ばかりあったとかいう話である。
 泥棒が出て行ったあとで、「余計な事をいう女だ」と云って、父は母を叱りつけたそうである。その事があって以来、私の家では柱を切り組くみにして、その中へあり金を隠す方法を講じたが、隠すほどの財産もできず、また黒装束を着けた泥棒も、それぎり来ないので、私の生長する時分には、どれが切組にしてある柱かまるで分らなくなっていた。
 泥棒が出て行く時、「この家は大変締まりの好い宅だ」と云って賞めたそうだが、その締りの好い家を泥棒に教えた小倉屋の半兵衛さんの頭には、あくる日から擦傷がいくつとなくできた。これは金はありませんと断わるたびに、泥棒がそんなはずがあるものかと云っては、抜身の先でちょいちょい半兵衛さんの頭を突ッついたからだという。それでも半兵衛さんは、「どうしても宅にはありません、裏の夏目さんにはたくさんあるから、あすこへいらっしゃい」と強情を張り通して、とうとう金は一文も奪られずにしまった。
 私はこの話を妻から聞いた。妻はまたそれを私の兄から茶受話ちゃうけばなしに聞いたのである。

 江藤淳も、この作品から知ったことだったのだろう、きっと。

 漱石の父と母のやりとりは、結構、可笑しい。

 また、小倉屋の半兵衛さんが、なんとも可愛そうだ。

 その時のご当人たちは、文字通り必死だったとは思うが、こういう後日談になると、つい笑ってしまう。

 それにしても、漱石は、この話、直接親兄弟から聞いたのではなかったんだ。

 ほぼ漱石が生まれた頃の夏目家の一大事件だったはず。
 普通の家なら、親子、兄弟姉妹で、「徳川様の終わる頃、おまえが生まれる前に、大変なことがあったんだよ」などと聞いていても不思議のないことなのだが。

 実は、夏目金之助(漱石の本名)は、波乱の幼少期を送っている。

 生後すぐに里子に出されたり、八歳で養子に出されたりしていたからね。
 実父と養父の中が悪く、夏目家に復籍したのは、二十一歳の時だ。

 だから、大好きな落語の『蔵前駕籠』のような強盗が生家に押し入ったということを、長らく肉親から聞くことはなく、妻から兄の話として伝達されたということなのだろう。

 『蔵前駕籠』のことを矢野さんの本で読んで夏目家の事件を知り、そこから漱石の書まで辿って行った結果、夏目金之助の幼少期の寂しさに思いがいたることになった。

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by kogotokoubei | 2018-02-18 17:11 | 落語のネタ | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛