百年前は、東京落語界の“戦国時代”(3)ー暉峻康隆著『落語の年輪』などより。
2018年 02月 10日

暉峻康隆著『落語の年輪-大正・昭和・資料篇』(河出文庫)
このシリーズの三回目。
前回は、寄席演芸会社(会社)、睦会、誠睦会の三派に分裂した大正六年の東京の落語界において、最後発の誠睦会の“東西落語会”に、合資会社と改めた会社側の無限責任者でもある三代目小さんが、弟子の燕枝との親子会で出演したというところが、切れ場だった。
もちろん、そのままでは収まるはずはない。
会社側もだまってはおらず、看板はただちにはずされたが、その騒ぎは睦会への飛火して、小さんが鈴本へ出演する以上、我々も断然会社派と手を切って、三月上席にきまった横浜新富亭の出演もことわれ、と決議してしまった。離合集散、という戦国模様だ。
会社側はまた一騒動ですったもんだの末、ようやくおさまって、小さんも無事に鈴本へ出演したが、そのどさくさに、会社派の月の家円鏡は三月上席から睦会へ転籍してしまった。これは睦会における柳と三遊を二分して争おうという右女助の策略と勘ぐるむきがあったが、その噂のとおり睦会は三月中に両派に分裂し、三遊は円右、円鏡、右女助、円左、小南、小円右、小文の一派、柳は柳枝、左楽、今輔、馬生、正蔵、翫之助、枝太郎、芝楽、馬之助、柳昇の一派が対立することとなった。
この右女助は、初代円右の弟子だった初代三遊亭右女助で、その後、四代目古今亭今輔になる人。
この後、東京の戦乱(?)に巻き込まれる形で上方の落語家が東京で出演したことが、思わぬ副次的な産物を生み出したことが紹介されている。
大正七年五月の「朝日新聞」に、「色物席が江戸式の杉戸高座を大阪風の袖附の襖に改築」という記事があるが、さらに翌大正八年一月の同紙には、今につながる出囃子などは、“戦国時代”が生んだ東西交流の産物だったわけだ。
近頃の寄席は江戸式の杉戸高座を大阪式の袖附襖に改築するのが流行して
いるが、睦会はこの頃円右などが上がる時でさえ楽屋で大阪式の鳴物を入れ、
又芸人も上方風に脱いだ羽織を右手へ放り込む。
という記事が見える。江戸前の杉戸高座を大阪式の袖附襖に改築したり、高座に上がる際に出囃子を使ったり、脱いだ羽織を右手へ放りこんだり、寄席の高座や演出が上方風に一変したという事実は、東京の落語史上、見落としてはならない変革である。
代表的な噺家の出囃子が、次のように紹介されている。
三升家小勝 「いでの山吹」(長唄)
林家正蔵 「あやま浴衣」(同)
桂文楽 「野崎)
三遊亭円生 「正札付根元草擦引」(長唄)
古今亭志ん生「一調入り」
三遊亭円遊 「さつま」
三笑亭可楽 「勧進帳」
古今亭今輔 「野毛山」
春風亭柳橋 「せり」(大阪芝居でせり上げに使う合方)
三遊亭円歌 「踊地」
柳家小さん 「のっと」
さて、そういう変化があったものの、戦乱は一時鳴りをひそめていたのだが。
さて、小康を保っていた東京落語界も、大正九年八月になるとまたもやひと騒ぎもち上がった。会社派、睦、東西落語の三派のほかに、一日から五厘大与枝の“誠睦会”が復活したのである。大与枝は会社派ができたとき、睦派の創立に奔走したが、睦派が後援する伊藤痴遊をはじめ左楽などの幹部連と不和になり、大正七年十一月に鈴本・金沢などと組んで“中立会”を、さらに翌八年春には大与枝が主任となって“誠睦会”と改めたが、まもなく神戸の吉原が乗りこんできて、誠睦会は“東西落語会”となり、大与枝はしだいに窮地に追いこまれてしまった。そこで東西会とは手を切り、小さいながらも独立しようとして復活したのが“誠睦会”である。
誠睦会の芸人は、小円遊、龍玉、武生、小三治などの落語家に百面相の花栗、義太夫の越駒などで、席は花川戸東橋亭、江戸川鈴本、牛込柳水亭の三軒。
噺家に注がないので調べてみた。
龍玉は二代目蜃気楼龍玉だろう。小円遊はその龍玉の息子の三代目かと思う。武生は金原亭で、あの志ん生のはず。ちなみに、翌大正十年に真打に昇進している。この小三治は三代目小さん門下の六代目で、本名は内田留次郎。俗に「留っ子」「坊やの小三治」と言われた人だろう。
この誠睦会の復活とは、別な動きも出て来た。
こうして会社、睦、東西落語会、誠睦会と、東京落語界は大小四派となったと思うとまもなく、翌九月下旬に、今度は四団体の中でもっとも優勢であった“睦会”に分裂さわぎがおこった。睦会の水面下で、左楽派に押されている者だちが五厘の大与枝と通じ、誠睦会の復活、そして、睦会の分裂につながっていく、ということか。
睦会は左楽派の勢力が盛んで、柳枝派といえども太刀打ちができず、その結果、左楽派に属しない各系統の芸人で不平を抱く者がすくなくない、というのが昨今の情勢であった。ところが、一方に左楽などと不和のために、睦会の創立当時功のあった大与枝が睦会を去って、中立会をつくり、また誠睦会をつくったが不振で、昨今は逆境におちいっているのを同情し、軍資金を出して大与枝の復活を図る者が現れたことが、睦会分裂の原因であった。
噺家の集団とはいえ、なんとも政治的な権力闘争のドロドロした世界が、その当時はあったのだなぁ。
この睦会の分裂で出来たのが、“新睦会”。
大正九年十一月上席から発足した睦会の別派の新睦会の幹部の顔ぶれは、おおむね予定どおり桂小南、金原亭馬生、月の家円鏡、神田伯龍、春風亭柳昇(ただし今月から改め朝寝坊むらく)ときまった。ところが円右だけは過般来、騒ぎの渦中に巻きこまれて身動きがとれなくなり、やむなく小円右、右女助をしたがえ、円右一人で三遊派をとなえ、局外中立を標榜し、新睦会と三遊派は大与枝の家に事務所を置くこととなった。担ぎ上げられたのが、初代桂小南。発足時に睦会に呼ばれたものの、勢力のあった左楽派の組織には馴染めなかったということだろう。先日、文楽の言葉を紹介したように、小南は、うぬぼれ屋であり、自分が一番でなければ済まない人だったようだ。
この金原亭馬生は後に四代目古今亭志ん生となる六代目馬生。月の家円鏡は、のちの三代目三遊亭円遊だろう。
新睦会の発足は、戦乱をさらに混沌とさせることになる。
新睦会が十一月の上席から、馬生、小南、今輔、むらく、円鏡等に、中立の円右を加えた三十余名で旗あげしたので、落語界はいっそううるさくなった。というのは、同勢三十余人で中堅の芸人が欠けている新睦会が、月給や手当てや何もかも合算して六、七十円の収入で、へこたれていた会社派の中堅に目をつけて引抜きにかかった結果、円治(もとの文三)その他十数人が会社を辞職することになったからである。また騒ぎは東西落語会にもおよび、十二月になると燕枝が東西派を抜けて睦会へもどることになった。
もう誰が以前はどこにいたのかが、記憶がごちゃごちゃになっている。
この後、東京落語界は、いったいどんなことになるのかは、次回。
