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入隊、大スター、そして、発病ー桂小南著『落語案内』より(4)

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桂小南著『落語案内』(立風書房)
 この本からの四回目。
 師匠が専属だった東宝名人会の前座になってからのこと。

 当時、名人会の楽屋には、森暁紅(ぎょうこう)先生といって、怖くて煩い先生がいました。それから鈴木金次郎さん。もと立川扇太郎という噺家で、金馬師匠の兄弟子でしたが、やめて名人会の別支配人のような形でいました。この人々が、顔付けといって、プログラムを作ってました。
 私が、はじめて楽屋に入ったときは、桂文楽、春風亭柳枝(七代目)、それに柳好といった師匠方がいました。
 こっちは、客席からこういった師匠方の高座を見てましたから、楽屋でも、あのとおりだと思ってた。
 で、ひょこと行きまして、
「えー、金馬の弟子でございます」
 って、挨拶したんですが、まるで見もしないで、“うん”とか“そうかい”なんていって、まるで愛想がないんです。聞くと見るとは大違いといいますが、これは見ると聞くとは大違い。
 でも一人、文楽師匠だけは如才なかったですねぇ。
「いようッ。やりましたね。ラッキョですねぇッ」 と。楽屋中が笑いでひっくり返りました。
 どうしてか、私がラッキョに似てたんですな、痩せてて、頭の鉢が開いてて、顎までこけてましたんでね。
 以来、私は「ラッキョ」で通ってました。
 なにかというと、「おい、ラッキョ、煙草買ってきとくれ」てなもので。

 文楽という人は、寄席の楽屋でもこの人ならではの気の利いた言葉(べけんや、など)などで周囲に笑いを生み出す存在だったようだが、名人会でも同じだったわけだ。

 昭和十六年、そんな前座生活を一変させることが起こる。

 前座にも慣れて、どうやら落ち着いたところで、右女助師匠が召集から帰ってくるのと入れ替わりのように、私に召集令状が来たんです。

大正九(1920)年生まれのラッキョ、もとい金太郎は、二十一歳になっていた。赤紙が届く日本男児だったのだ。

 私は第二乙といって、平時ならどうにもならない屑者ですが、当時は甲種より先に引っ張られました。おそらく弾除けのつもりだんたんでしょう。この間も徳島へ行きましたが、当時、匍匐前進なんて土の上を這いずり廻った河原が、そのままでありましたよ。
 さて入営すると、自己申告ってのがあるんです。つまり、自己紹介ですね。内務班のふり分けられた新兵が、古兵からいろいろ訊かれるんです。
「地方(一般社会)の商売は何だったか」
 「落語家であります」
「名前はなんというたか」
「山遊亭金太郎であります」
「聞いたことがない」
「金馬の弟子でありました」
「なにイッ、金馬の弟子だ」
「ハイ、これが証拠であります」
 日の丸の旗を広げました。入営前に楽屋で書いてもらったんです。これがすごい。
 金馬師匠をはじめ、ロッパ、エノケン、金語楼から宝塚のスターまで。宝塚の方は、楽屋のおばさんが、すぐ下の宝塚の楽屋へ持って行って書いてもらったんです。
 柳家金語楼のネタを思わせるような、やりとり^^

 それにしても、日の丸には凄い名前が並んだものだ。
 やはり、出征となると、大看板たちも普段の接し方とは違ったのだろう。
 さア、この旗がききました。
 師匠のおかげですねえ。もっともこの旗は古兵に取り上げられてしまいましたが。噺家が入ったというので大もて。演習でマメができて、フウフウいってるのに、休憩になると、「おい、一席演れ」。やだっていえないんですよ。しょうがないから、前に出て演りました。皆が煙草吸いながら休んでいるのに、「ええ、一席うかがいます」ってね。
 で、中隊に帰れば、日曜日になると、各中隊で演芸会をやるんですが、これのお座敷がかかるんです。
 もう大スターでしたね。いや、本当は休みたいんですが、こっちが一つ星(二等兵)のスターダストですから断ることができないんです。
 ただ、出演料だってんで、帰りにオマンジュウを山ほどもらって来て、班で分けましたから、班では可愛がられました。「おい、谷田は出稼ぎで疲れとる。当番代わってやれィ」てな具合でね。班長殿がマネージャー代りだったりしてね。
 まさに、芸は身を助く、である。
 軍隊で、つかの間の楽しみとして噺家が活躍したことは、春風亭柳昇や、五代目小さんなどで有名だが、金太郎も、仲間を笑いで癒すことに貢献したわけだ。

 しかし、そんな大スターの金太郎に、大きな転機が訪れる。

 真珠湾攻撃から日本は戦争に突入してからのこと。
 で、いよいよ、私どもの連隊がフィリピンに行くということになりました。
 ときに、私が腸チフスにかかるんです。
 怖い病気で、朝元気だったのが、お昼にころっと死ぬというくらい。夕方鼻歌を歌ってたのが翌朝は冷たくなっている。あれよあれよという間でした。
 これが大流行。軍隊なんてな、一度伝染病が流行すると、まるで油紙に火がついたように広がる。当時、四、五百人罹りましたかね。四千人の連隊でね。
 私も、罹らなくちゃ悪いみたいに罹りました。
 即入院。
 これがひどくて、絶対死ぬと保証つきだったんです。八十人の部屋から個室に移されたんですから。
 個室に移された時の心境は、いかばかりだったか。
 死を覚悟していた金太郎に、救いの手が伸びる。
 ところが、噺家が入院したというのを聞いて、連帯中が献血してくれました。それもO型の丈夫なやつの血を採ってね。二十何本やりました。これ輸血がなかったら死ぬんです。
 でも、よくならない。連隊はフィリピンに次々と遠征に発つんで、輸血もままならなくなりました。
「これで最後の輸血だ。いいな、これでお前は最後だ、いいな」
 軍医さんがいうんです。
「ハイ」
 頭だけは妙に冴えるんですね。ああいう病気はね。
 私のベッドの下には、一番上等の軍服が風呂敷包みになって入っている。-軍隊というのは死ぬと一番いい服を着せ、靴下と靴を着け、帽子までかぶせて、荼毘に付すんですー。そして死んだら運ぶタンカも入ってる。
「もう死ぬのかな」
 覚悟、というより、ぼんやりしてました。

 この、ぼんやり、は諦めの境地だった、ということかもしれない。
 気力が萎えていた、とも言えよう。

 さぁ、輸血も止まり、ベッドの下には自分の死に装束がすでに用意されている。

 この後、金太郎はどうなるのか。
 生きる気力は甦るのか・・・惜しい切れ場だ、次回をお楽しみに。
 

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by kogotokoubei | 2018-01-31 12:33 | 落語の本 | Trackback | Comments(0)

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