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噺の話

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二列目の異才たち(1)西川義方ー池内紀著『二列目の人生ー隠れた異才たちー』より。

 23日に葉室麟が亡くなっていたことを知り、ただただ意気消沈。

 最近も、織田信長の娘の数奇な人生、そして、その夫、蒲生氏郷という武将の健気な姿が描かれた『冬姫』を読んだばかり。

 名作『銀漢の賦』が『風の峠ー銀漢の賦ー』という題でNHKで放送された時、いくつか記事を書いた。
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 直木賞受賞作の『蜩の記』は、もちろん、数多くの良質な時代小説を楽しみにしていたし、今後も多くの傑作を著してくれるものと期待していたのに。

 まだ、六十六・・・・・・。

 葉室麟のことは、別途書くとして、今回の記事のこと。

 今日12月25日は、大正天皇の祥月命日。

 期せずして、その大正天皇と深い関係のあった人に関する記事になった。

二列目の異才たち(1)西川義方ー池内紀著『二列目の人生ー隠れた異才たちー』より。_e0337777_15282902.jpg

池内紀著『二列目の人生-隠れた異才たちー』(集英社文庫)

 この本は、昨年、NHK FMラジオの「日曜喫茶室」の過去の放送の中で、著者池内紀さんが、当時の「近刊」として説明していらしたのを聴いて知っていた。
 最近になって古書店で文庫を見つけ迷わず購入。
 記憶が曖昧だが、「日曜喫茶室」で池内紀さんは、トップランナーではなく、その後ろを走ってきた人にも、さまざまな人生があって、それに興味を持って調べ始めた、というようなことをおっしゃっていたと思う。

 本書は、2003年に晶文社から単行本として発行され、五年後に集英社文庫入り。

 取り上げられた人物を目次から拾ってみる。

  大上宇市  もうひとりの熊楠
  島 成園  松園のライバル
  モラエス  ハーンにならない
  中谷巳次郎 無口な魯山人
  西川義方  天皇のおそばで
  高頭 式  先ズ照ラス最高ノ山
  秦 豊吉  鴎外の双曲線
  篁 牛人  志巧を見返す
  尾形亀之助 賢治の隣人
  福田蘭童  尺八と釣り竿
  小野忠重  版の人
  中尾佐助  種から胃袋まで
  早川良一郎 けむりのゆくえ
  槁爪四郎  もうひとりのトビウオ

 私が知っていたのは、橋爪四郎のみ・・・・・・。

 本編の紹介の前に、印象に残る言葉「記憶の訪問」について、「はじめに」からご紹介。

  はじめにー「記憶の訪問」のこと

 幸田文(あや)は父の露伴から家事その他きびしい躾を受けた。二十四のときに嫁いで十年後に離婚。だから「結婚雑談」というエッセイのはじめに、自分は離婚した経験をもつ女だから、結婚について満足なことは何一つ言えそうにない。もし言うとすると、「いびつな過去」を思い返して、「いびつなままの現在」から話すしかない。と断っている。
 この場合の「いびつな」は謙虚さから出た言葉だろう。大きな経験を、よく耐えた人に特有の意味深いことがつづられている。
 二十代のはじめから何度か見合いをした。そのうちの一つが結ばれて、あとは流れてしまったわけだが、流れ去ってあとかたもなくなるはずのものに、流れてもなお余情のあるものがある。恋ではなく特別な事件でもなく、なんとなく心に残る人のおもかげといったもの。だからこそ結婚というのが大きな事柄であることに、あらためて気がついた。
「結ばない縁のはしばしにも忘れないものがあって、こうして三十年過ぎた今も記憶の訪問に逢うからである」
 ちょうどこの『二列目の人生』を書いているときだった。「記憶の訪問」という言葉がひとしお身にしみた。まさにそんな気持ちで一人、また一人と対面していたからである。
 何か一つのことに打ち込んだ人は、たいていの場合、独自のルールをもっている。そのためしばしば世間から変わり者扱いされたりした。
 (中 略)
 あきらかに、その人でなくてはありえないエピソードなのに、なぜか誰にあってもあかしくないようでもある。どうやら夢のありかを伝えているせいらしい。
 
 「記憶の訪問」とは、なんとも味わい深い言葉だと思う。

 そうそう、ふいに、過去の記憶の訪問を受けることがある。

 この中から、もうじき祥月命日を迎える大正天皇の侍医でありった西川義方について、紹介したい。
 ちなみに大正天皇は、明治12(1979)年8月31日に生まれ、大正15(1926)年12月25日の崩御。だから、昭和元年は、たった六日しかなった。

 西川義方の凄さは、彼が残した医者にとって大事にされていた書物が物語っている。

 もしかすると、ちいさいときに目にしたことがあったかもしれない。腹痛で近所の医者にいった。老先生が診てくれた。白い髪に鼻ひげ、ズボンつりをつけた腹がまん丸い。聴診器を胸にあてられると、くすぐったいのだ。からだをよじらせているうちに、いつのまにか腹痛が消えていた。
 生水は飲まない。ご飯をよく噛んで食べる。食事のすぐあと駆け出さないー老先生はそんなことをいった。いちいち思い当たる。神妙な顔で聞いている間、目は一心にあたりをながめていた。不思議な形の瓶や皿、瓶のレッテル。ガーゼの束、消毒液。ガラス戸棚に大きな本が並んでいる。見なれない漢字のせいで魔法の書物のようだった。はしに一つの青い本があって、背が低いわりに厚ぼったい。のべつ開かれるらしく、はしが手ずれでほつれている。
 西川義方著『内科診療の実際』といった。刊行は南山堂。古い医家にはきっと一冊そなわっていたはずだ。表紙の色のせいで通称「青本」。大正十一年(1922)に世に出て以来、半世紀あまりにわたり、たえず版を改めた。途中に息子が手助けして、西川義方・西川一郎著となって、役割を終えた最後の版が昭和五十年(1975)の改訂七十版。総部数はいったい、どれほど数えたものか。
 途方もない著書である。手にとると、だれだってそんなふうに思うだろう。三千ページちかくに及んで「医」にかかわるあらゆる情報がつまっている。著者はその世界を大都に見立てたようだ。そこに入るべき二つの門を考えた。つまり、
  第一門 治療門
  第二門 診察門
 門が編に分かれ、編が章に細分化され、章が節で区分され、節が第一、第二、第三と分岐し、それがさらに一、二、三に分けられ、これをまた其一、其二、あるいは①②③が補っていく。

 私も、池内さんと同じような体験がある。

 子どもの頃、風邪をひいたり、腹をこわすと、近所の町医者に連れて行かれた。
 すでにご子息が病院を継いではいたが、大先生も健在で、子供はだいたい大先生が診ていたように思う。
 白髪で、鼻ひげ。
 あの頃は、とにかく注射が嫌いで、太い注射針を見ただけで泣いていたような気がする。だから、大先生は、正直、怖かった。
 しかし、その先生に注射を打ってもらったり、いただいた薬を飲むと、風邪も腹痛の治った記憶がある。名医だったのだろう、きっと。

 その病院の棚には、たしかにいろんな瓶やらの隣の本棚に洋書と並んでぶ暑い青い本があったはずだ。
 北海道の片田舎の先生も、きっと『内科診療の実際』は必読書だったに違いない。
 だから、先生が名医だったのではなく、その本が優れていたのかもしれない。

 こんな凄い本を書いた西川義方とは、どんな人物なのか。

 西川義方は明治十三年(1880)六月、和歌山県海草郡雑賀村に生まれた。父は村長をしていたので、その支援があったのだろう。三高より東大医学部に進学。卒業してすぐに和歌山の新宮病院に赴任。弟の学資稼ぎの意味もあった。数年で東京にもどり、日本医大で教えていた。そのままいけば勉強好きで学生おもいの医学部の先生の一生だったはずである。学界のボスになったりせず、新発見もしなかったが、町医者の六法全書ともいうべきありがたい本をのこしていったー。
 大正八年(1919)、西川義方は大正天皇の侍医に任じられた。入沢侍医長が東大のときの恩師にあたり、その縁で人選が進められていたらしい。当時、天皇の侍医は四人いて、そのうちの一人である。

 侍医になったのは、西川義方、三十九歳の時だ。
 しかし、大正天皇に初めてお会いした際、天皇から「西川、いくつになります」と問われて、西川は「こればかりは御許しを願います」と答えている。
 「言ってもよいではないか」とさらに天皇から問われ、「それではどうか御許しを得まして申し上げまする。西川は三十でございます」と嘘をついている。
 大正天皇は、ひとりごとのように「そんな筈はなかろうに」と呟かれてらしい。

 なぜ、西川は九つもサバを読んだのか。
 彼は、なんでも人間は三十が生命の盛りであって、これをこえると十二分の活躍がむずかしい、と考えていた。だから、いつも三十歳の意気でいたかったかららしい。

 大正天皇は、時に冗談を言って、西方たち侍医を笑わせるような人だったようだが、次第に病魔が襲ってきた。

 侍医に任官した翌年のこと。

 同年七月、宮内省発表。
「・・・・・・御発語に御障害起り明亮を欠くことあり。厳粛なる御儀式の臨御、内外臣僚の引見は御見合せ相成る旨・・・・・・」
 大正十年十一月二十五日、皇太子裕仁が摂政となった。以後は天皇の代理をする。その三日前、宮内省は大正天皇の幼時にさかのぼり、理由をくわしく発表した。
「天皇陛下には御降誕後三週目を出ざるに脳膜炎様の御疾患に罹らせられ、御心身の発達に於て、幾分後れさせらる、所ありしか・・・・・・」
 ために政務においては日夜、ひとしおの苦労があった。目下のところ、おからだにはお変わりはないのだが、「御脳力漸次御衰えさせられ特に御発語の御障害あらはるるため御意志の御表現甚だ御困難に拝し奉る・・・・・・」
 表現がまわりくどく、敬語がのさばっているが、しかし、伝えるべき情報はきちんと伝えてある。何一つ隠しだてせず、言い換えたりも、言いつくろったりもしていない。発表は「まことに恐懼に堪えざる所なり」で結ばれているが、それは自分の年齢を仕事ざかりの三十歳と思いさだめて、専心任務にはげんでいた侍医の思いでもあったに相違ない。

 大正天皇がまだご健在な間に、皇太子裕仁が摂政となって代理をしている、という事実を知り、この度の今上天皇の生前退位問題を思い出した。
 今上天皇は、父が摂政となって健康がすぐれない大正天皇の代理を務めたことを知りながらも、皇太子を摂政とするのではなく、自分が退位する道を選んだ、ということか。
 天皇という名である以上は、どうしても無理をせざるを得ない、ということなのだろうな。
 
 さて、発語障害などの悪化に伴い、なんとか最新医療を知ることで対策を打てないか、ということもあったのだろう、西川義方は、大正十五年(1926)二月に、新医学見聞の公務でヨーロッパに向かった。

 ドイツ語がよくできたし、自分もドイツ医学畑出身なので、旅のコースからもわかるように、ドイツが中心だった。しかし、本になったときは、なぜか北欧にはじまって、イタリア、フランス、イギリスのあと、ようやくドイツが出てくる。実際は一度ドイツを離れてから、イタリア巡歴中に遠路をおしてベルリンにもどった。そしてベルリン郊外ダンドルフの精神病院へ行った。
 プロフェッサー・シュスターに会うためだった。彼から「アルツハイメル氏病」について、くわしく聞いた。ふつう、ブラウスラウ大学教授アロイス・アルツハイマーの発見といわれているが、ダルドルフのシュスター氏が早々と病理解剖をしていた。
 (中 略)
 その臨床報告によると、ある女教師だが、読むこと、書くことができなくなり、何をいっても定まった一語しか発しない。この病は四十五歳から五十五歳に発病して、確実に進行する。西川義方はつけ加えている。「氏によると本病の病理は特定せる局所がない。浸潤もなく又滲出もない」。
 経過は短く、おおかたは数年にして死亡する。数カ月の短い経過で終わったケースもある。
 パリに着くと大使館員より封書を手渡された。入沢侍医長よりの電報が封じ手あった。
「至急御帰朝相成度ー」
 ただちに旅装をととのえ、シベリア鉄道経由で帰国。十二月五日、下関。翌日、葉山着。同月大正天皇没。四十七歳だった。

 内科医の百科辞書ともいえる大著をものにした西川義方も、大正天皇の病を治すことは、かなわなかった。

 西川は、『温泉と健康』という、四百頁、図版が四百五十あまりという本も著している。日本の温泉は、妻と二人で訪れ、「共著たるべきもの」をつくるつもりだったという。
 昭和六年(1931)、妻を病で失った。『温泉と健康』の序に、いかにも明治人間の語彙で、ともあれ青年のような初々しさで述べている。
「一時は、こいしさ、なつかしさ、かなしさ、やる瀬なさの涙に金泥にして、紺紙に写経でもものして、悶々の情を医(いや)さんとも考えた」
 だが、せっかく妻と二人して集めた資料である。約束を果たしてやらなくてはかわいそうだ。「夢見る人の心で、ある時はうれしく、なつかしく、またある時は狂おしく迸る心に鞭をあてて」、ペンを走らせたという。

最後に、大正天皇の微笑ましいお話を。

 宮中には独特の言い方があって、日常の食べ物でも名前がちがう。西川義方は、お得意の図表形式で品目と特別の呼び名の一覧をつくっているが、たとえば葱は「ひともじ」、ソバは「そもじ」、エビは「えもじ」、タコは「たもじ」、タイは「おひら」、イワシは「おむら」。
 大正天皇が元気なころ、京都府舞鶴に赴いたことがあった。大森という知事が説明役で近くの水産講習所に話が及んだ際、知事は「おむら」を知っているかとたずねられた。
「水産講習所を建てながら、魚の名のおむらも知らぬとは」
 と天皇は笑った。
 そのあと天橋立で網を引くと、大量のイワシがかかった。知事が水産講習所長に「おむら」のことをたずねると、所長は首をひねった。専門家も知らぬ魚を、知事が承知していなくてもやむをえないー。一件を紹介したあと西川義方は書いている。「大森はずるいぞ」といって天皇は大いに笑った。
 休憩のあと成相山登山が予定に入っていた。二十町の急坂に先導役の肥っちょ知事があえいでいる。痩せ形の天皇が声をかけた。
「大森、押してやろうか」
 その人が日々、休息に衰えていく。
  
 大正天皇のお人柄が伝わる、逸話。

 この部分前半の“宮中の符牒”の、葱が「ひともじ」で、つい、落語の『たらちね』を思い出してしまった。

 昭和四十三年に八十八歳で亡くなった西川義方という医者の存在を、この本で初めて知ることができた。

 本書からは、あと二、三人、異才をご紹介するつもり。

 ところで、この本の題、「二列目の人生」は、葉室麟作品の主人公と相通じるものがあるような気がしていた。
 葉室麟は、歴史上の人物を題材にする場合、いわば“一列目”で名の通った人はほとんど選ばない。
 そんな気がしながら、この記事を書いていた。
 まだまだ書いて欲しかったなぁ。


Commented by saheizi-inokori at 2017-12-26 09:08
福田蘭堂も知ってるでしょう。
笛吹童子と彼の音楽、渋谷の三魚洞の女将の義父(石橋エータローの父)です。
Commented by kogotokoubei at 2017-12-26 09:36
>佐平次さんへ

いえいえ、知っていたとは言えないのですよ。
エータローさんなら知っていた、と言えるんですけどね。
三魚洞も、懐かしい店、という位に行ってませんねぇ。
来年は、なんとか時間つくらなきゃ。
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by kogotokoubei | 2017-12-25 23:45 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛