噺の話

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求められるのは、「食べる道」と、「人間の道」。

 今回の相撲界の騒動について、先にオチャラケ版の記事をマクラ(?)でふったが、それでは本編を。

 落語の『二十四孝』の科白に次のようなものがある。

「おまえの親父は、食べる道は教えたが、人間の道というものを教えないから、貴様のようなべらぼうものができたんだ。ええ?」

 今回の相撲界の事件で、この科白を思い出した。

 この「人間の道」という言葉は、やや重すぎて、言ってみれば、生涯かかって教わり、教えるものかと思う。これは、一生続く授業なのかな。

 常識や礼儀、礼節なども、この「人間の道」という授業の重要教科となるだろう。

 日馬富士の引退会見で、彼は貴ノ岩に暴行を働いた理由について、「礼儀と礼節がなってないと、ただしてあげたかった」と言った。

 加害者である日馬富士から、「礼儀」「礼節」という言葉が出るあたりに、あの世界の特殊性がかいま見える。

 あの世界での常識は、外の世界のそれとは、違うのだ。

 日馬富士は、三十路を少し過ぎたばかりの、べらぼうものであることは間違いない。

 あの引退会見で、傷害事件の被害者貴ノ岩への詫びがあったとは思えない。

 それは、次のような本音が、腹の底に渦巻いていたからだろう。

 「なぜ、こんなに大袈裟になったのか・・・・・・」
 「内々に済ませられたはずなのに・・・・・・」

 本人も親方も、これが本音だろう。
 
 それにしても、今回の騒動において、これまでの不祥事の時と同様に、メディアやコメンテーターなる人々が、相撲界に透明性を求めたり、他のスポーツと同じように扱う発言には、閉口する。

 コメンテータなる人たちが、「なぜ同じ過ちを繰り返すのか」という言葉は、彼らにこそ突きつけたい。

 興行の場所の名に「国技館」とつけたがために、「国技」として論じられるのには、閉口する。
 日本は、法令で国技を定めているわけではない。
 また、国民にもっとも普及しているスポーツでもない。
 そもそも、スポーツではなく、興行なのである。

 七年前に野球賭博事件が起こった際、記事を書いた。
2010年7月8日のブログ
 実は、ここ数日、この記事へのアクセスが急増している。

 同記事は、朝日新聞の2010年7月7日付け朝刊の特集に、小沢昭一さんの「正論」と言うべきコメントが掲載されたことがきっかけで書いた。

 あらためて、小沢さんの主張の一部を紹介したい。

 特集ページのタイトルは「大相撲は何に負けたのか」、となっていて大学教授などのコメントなどと併せて、小沢さんのまっとうなお話が次のように載っていた。
 神事から始まった相撲は江戸の終わり、両国の回向院で常打ちが行われるようになる。両国というのは、見世物小屋や大道芸が盛んなところです。このころ現在の興行に近い形ができあがりました。
 明治になりますと、断髪例でみんな髷を落としました。だけど相撲の世界では、ちょんまげに裸で取っ組み合うなんて文明開化の世に通用しない、てなことは考えない。通用しないことをやってやろうじゃないか、と言ったかどうか分かりませんけど、とにかくそれが許された。そういう伝統芸能の世界。やぐらに登って太鼓をたたいてお客を集めるというのも芝居小屋の流儀でしょう。成り立ち、仕組みが非常に芸能的。どうみても大相撲は芸能、見せ物でスタートしているんです。
 芸能の魅力というのは、一般の常識社会と離れたところの、遊びとしての魅力じゃないでしょうか。そんな中世的な価値観をまとった由緒正しい芸能。僕は、そんな魅力の方が自然に受け入れられるんです。
 美空ひばりという大歌手がおりました。黒い関係で世間から糾弾されて、テレビ局から出演を拒否された。ただ、彼女には、世間に有無を言わせない圧倒的な芸があった。亡くなって20年になります。そんな価値観が許された最後の時代、そして彼女は最後の由緒正しい芸能人だったんでしょう。
 昨今のいろんな問題について、大相撲という興行の本質を知らない方が、スポーツとか国技とかいう観点からいろいろとおっしゃる。今や僕の思う由緒の正しさを認めようという価値観は、ずいぶんと薄くなった。清く正しく、すべからくクリーンで、大相撲は公明なスポーツとして社会の範たれと、みなさん言う。
 しかし、翻って考えると、昔から大相撲も歌舞伎も日本の伝統文化はすべて閉じられた社会で磨き上げられ、鍛えられてきたものじゃないですか。閉鎖社会なればこそ、独自に磨き上げられた文化であるのに、今や開かれた社会が素晴らしいんだ、もっと開け、と求められる。大相撲も問題が起こるたんびに少しずつ扉が開いて、一般社会に近づいている。文化としての独自性を考えると、それは良い方向なのか、疑問です。

 どうです、この本質を突いた発言。

 他のスポーツと大相撲は、成り立ちからして違うのである。

 地方の興行では、暴力団、今で言う反社会的組織の力を借りるのが当たり前だったし、かつてのタニマチには、その筋の人も多かった。
 
 相撲が閉じられた世界であり、興行、もっと言うなら、見世物としての歴史を刻んできたのは、紛れもない事実だ。

 閉じられた世界、という表現はネガティブな印象を与えるかもしれないが、言い換えれば、その組織が共通の価値観を元に強く結びついている、とも言えるわけで、外とは分離された固有の世界なのだ。

 だから、あの世界での常識が、世の中一般の常識とは限らない。
 
 しかし、そういう固有の世界は、必ずしも悪い面ばかりがあるわけではない。

 その固有の世界にいる人たちだからこそ、伝え続けることができることがある。

 たとえば、「可愛いがる」という名での稽古は、まさに伝統である。

 その激しい稽古については、誰も「暴力」とは言わない。

 “教育”や“指導”はどのスポーツの世界にもあるが、かつては竹刀で叩かれながら稽古で鍛えられてきた相撲は、やはり、他のスポーツとは異質なのだ。

 まさに、閉じられた世界だからこそ、相撲という興行は伝統をつないできた。

 今回の事件、“閉じられた世界”の人々は、できれば内々に処理したかった。

 もし、被害者が貴乃花部屋の力士じゃなければ、今回の件は、公けにはならなかったかもしれない。

 協会幹部側の最初の貴乃花批判は、警察への被害届の前に、協会に届けるべきだった、ということ。

 その背景にある本音は、あくまで内々に処理したかったということであり、決して、再発防止対策を検討するためではない。

 私は、協会側、貴乃花、どちらの味方でもない。
 
 あえて言えば、客観的にこの事件を眺めている。

 相撲という世界は、好き嫌いは別にして、閉じられたままでいいと思う。
 というか、そうじゃなければ、あの興行は成り立たないとも思う。

 問題は、その伝統の世界が閉じられているかどうかではない。

 若くしてあの世界に入り、稽古して、食べて、眠って・・・という特異な日常を送ってきた、十代、二十代の若者に、「食べる道」のみならず、「人間の道」を叩き込むことが、今の相撲界ではできていない、ということが問題なのである。

 そうした、「食べる道」は身についたものの、常識や礼節など「人間の道」には疎いままの若者が、番付が上がり周囲からチヤホヤされて、勘違いしたままで精神的には未成熟な人間になってしまう。

 スポーツや芸能の世界である程度の活躍をした人の不祥事は、人間的に未成熟なままに周囲に甘やかされて、「何やっても許される」と勘違いした結果であることが多い。

 これは、どの世界でも同じだろう。

 相撲界において、その勘違いを正し、世間一般の常識や礼儀を教えるべきなのは、親方や女将さん、タニマチなどの役割になるはずなのだが、残念ながら、そういう環境にはなかったことが、問題の根源にある。

 親方を含め、部屋の関係者にとって、横綱、大関などは大事な稼ぎ頭であるので、つい甘やかす。

 加えて、部屋のみならず、相撲界全体でも、幕内上位の力士を甘やかす体質になっているのが、現状ではないか。

 伊勢ヶ浜親方は、日馬富士の酒癖の悪さを知らなかったと言う。
 そりゃあ、自分の前では、大人しくしているだろう。
 親方が嘘をついているのではなくて、自分がいない酒席や飲み会での横綱の酒癖の悪さが親方の耳に入らなかったとするなら、本来は通じているべき、閉じられた世界のコミュニケーションのパイプが詰まっているということだろう。
 タニマチは、知っていても忖度したのか。
 女将さんは、悪い噂を、本当に耳にしなかったのか。

 日馬富士にしろ、白鵬にしろ、まだ三十歳を少し過ぎたばかりの、若者なのである。
 スポーツと同一視して透明性を求めることなどは、何ら解決の道につながらない。
 
 親方はもちろん、女将さん、タニマチなど周囲が、彼らに「食べる道」のみならず、「人間の道」を教える努力をしていたかが、問われるべきだ。

 たまには、『二十四孝』など落語を聴かせるのも、大事ではないかな^^

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Commented by 寿限無 at 2017-12-07 15:50 x
日本に相撲でもって稼ぎにきた人と、相撲を通して人として道を磨こうとする人との違いを感じました。
Commented by tatehan at 2017-12-07 17:02
九州場所が終わってからも…というより、終了を待っていたように今般の“暴力事件”が取り沙汰されている感がありますけれど、一般人にとって相撲取りは「気は優しくて力持ち」とのイメージが先行していることが、そもそも角界の実態とは齟齬があると感じます。自分の知人にも角界入りした御仁がおりましたが、入門してくる若衆の中には単なる荒くれ者で持て余された者も少なくないという事実です。大多数とまでは言いませんが、その種の人間は各部屋に必ず数名はいるとのことです。既に角界入りする以前に、酒・タバコ・賭け事など“立派な”非行歴がある若者を理性で教育できるなら、とっくに出身地の地元で更生されている筈。よってその種のワルを相撲世界のルールに従わせるには、言葉面だけでなく、時には腕力に訴えるのが早道となる場合があるということ。以前、物議を醸したT部屋の親方による暴行の果ての死亡事件などは、(メディアでは報じらていれないながら)その側面があったものと思います。
Commented by kogotokoubei at 2017-12-08 09:06
>寿限無さんへ

「食べる道」だけを求めて来た人があまりにも多い、ということですね。
白鵬が、双葉山を尊敬していると言っているようですが、そうであれば、彼のあの態度、行動はありえないですね。
彼がそういうのは、あくまで、ポーズであり、本質的な部分は、何も分かっていない。
Commented by kogotokoubei at 2017-12-08 09:17
>tatehanさんへ

記事で書いたように、その筋とのつながりが強いので、かつたは、彼らから紹介されて入門する人も多かったようです。
一般社会で生活するにはいろいろ問題があるが、力があって喧嘩が強くて、体が大きいから、相撲取りならできる、という理由でしょう。
そういった若者に「食べる道」を教えるには、あの世界ならではの教育が必要だったということでしょうね。
また、若くして引退してから、その筋に仕事を紹介してもらう人も多かったようです。
そういった関係が残っているから賭博事件や八百長事件が起こるわけですが、相撲界とあの世界は、ある意味で貸し借りの共同体を作っているわけで、かつては大いに必然性があったと言えるでしょう。
しかし、その閉じられた世界なりの教育指導環境が、かつてはあったのでしょうが、今は、他の世界と同様に破綻しているということかと思います。
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by kogotokoubei | 2017-12-07 12:36 | 大相撲のことなど | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛