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江戸庶民と、ご飯。

 明日は、旧暦の八月一日、八朔。

 六年前の新暦の8月1日に、八朔については記事を書いた。
2011年8月1日のブログ

 江戸では、家康が江戸城入りした日という記念日。
 吉原では紋日であることなども紹介したので、興味のある方はご覧のほどを。

 この時期に早稲の穂が実るので、農民の間で初穂を贈る風習があったので、“田の実の節句”ともいう。
 「たのみ」を「頼み」にかけて、武家や公家の間でも、日頃お世話になっている人に、感謝の意味で贈り物をするようになった、と言われる。

 私は“田の実”からご飯を連想してしまうのだが、それは前回の記事で、江戸時代には一日ご飯を五合食べていた、ということを紹介したからかな。

 もうじき、今年の新米も出回るだろう。

 そこで、ご飯シリーズ。

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永山久夫著『大江戸食べもの歳時記』(新潮文庫)

 まず、最初はこの本から。

 食文化の研究者で、江戸時代の食事などに関し多数の著書がある永山久夫さんの『大江戸食べもの歳時記』からは、以前に蕎麦のことで引用したことがある。
2015年12月11日のブログ

  今回は、ご飯のことで、前回の記事の裏付け(?)的に、江戸時代にどれだけご飯を食べていたかについて引用。

現代人の二倍の米を食べていた 
 
 日本人は、昔から一人当り一年間に一石(150キロ)の米を食べてきた。江戸初期のの日本人の人口は3000万人で、米は3000万石生産されていた。
 明治になって、人口が5000万人になったとき、米は5000万石とれていた。大正末期に6000万人となったが、米の生産量は6000万石に達していた。米の生産量が、人口を増やしていたのである。
 一年に一石というと、一日には約410グラムになる。現在の日本人が食べている量は200グラム弱だから、江戸時代の人たちの半分以下。
 日本人が現在と同じように、一日に三回食事をするようになったのは、江戸時代の初期で、大人で一日ざっと五合(750グラム)の米を食べていた。
 三回になる前の時代は、ずっと朝と夕の二回食であり、一食分が二合五勺(約375グラム)。江戸時代には二合五勺の升があったが、二食時代の名残りである。

 ほらね、こっちの本でも、一日五合、でした。

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永山久夫著『江戸めしのスゝメ』(メディアファクトリー新書)


 こちらも永山久夫さんの本、『江戸めしのスゝメ』。
 一日二食から三食に替わったのはいつの頃か、ということについて。

 『おあむ物語』という江戸時代の書物には、それまで永らく一日二食だった人々が三度の習慣を新鮮に受け止めていた様子がわかる、興味深い記述がある。この本は石田三成の家臣として大垣城に仕えていた武士の娘が晩年、子どもたちに語った話を記録したもので、彼女は慶長五(1600)年の関ケ原の戦の後、父に従って土佐に趣き、寛文(1661~73)の頃に80歳前後で亡くなったとされている。
「私の父は知行300石をとっていたが、その頃は戦が多くて何事も不自由だった。朝夕には雑炊を食べていた。(中略)13歳のときに持っていた着物は手作りの帷子(ひとえの着物)が一着だけ。それを十七歳まで着ていたので、すねが出てしまい困り果てた。このように昔は物事が不自由だった。昼めしを食べるなんて夢にも思わなかったし、夜食もなかった。最近の若い者は服が好きだし、お金を使う。いろいろと食べ物の好みもある」 江戸後期の国学者、喜多村信節(のぶよ)はまた、庶民社会の風俗を記した『瓦礫雑考』のなかで「古くより朝餉夕餉といって、昼餉ということは聞かず、中食(昼食)は後世のことなるべし」と記している。
 もっとも、一日二食の習慣が長かったのは上流階級や武士だけで、農民や職人など労役者は古くから間食を自由にとっていた。江戸の庶民たちのあいだにも比較的、早い時期から三食の習慣が定着していたと考えられる。

 引用されている「おあむ物語」について、少し調べてみた。
 国立公文書館のサイトに、創立40周年記念貴重資料展「歴史と物語」のページがあり、その中で「おあむ物語」が紹介されていた。国立公文書館ができたのが昭和46(1971)年7月だから、六年前のイベントだ。
「国立公文書館」サイトの該当ページ

 引用する。

36.おあむ物語
おあんものがたり

戦国時代といえども、さすがに女性がいくさの前面に出て戦うということはめったにありません。しかし、血を見るのも怖い、と恐れるようなことは言っていられませんでした。
ここで取り上げた資料は、青春時代を戦国の混乱の中で過ごした女性の思い出話。主人公の「おあむ」は、石田三成の家臣の娘で、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いのおり、石田方の美濃大垣城に入ります。そこで待ちかまえていたのは、味方の獲ってきた敵方武将の首の処理。

みかたへ、とった首を、天守へあつめられて、札をつけて覚えおき、さいさい、くびにおはぐろを付ておじゃる・・・くびもこはいものではあらない。その首どもの血くさき中に、寝たことでおじゃった。

戦後の恩賞のため、少しでも綺麗に見栄え良く化粧することが求められました。しかし、凄まじいのはこれから。「おあむ」は、目の前で実弟が射殺され、冷たくなっていくのを目の当たりにします。また、闇に紛れて城から逃げる際には、身重の母親が急に産気づき、田んぼの水を産湯代わりに妹を出産。すぐに父親が母親を肩にかけて落ち延びていきます。

「おあむ」の語りの言葉に、凄まじいまでの戦国の世の実像が感じとれます。

展示資料は、享保初年(1716)頃までに成立か。天保8年(1837)刊。全1冊。
 戦国の世の実態を物語る、なかなか貴重な記録であることが分かる。

 その貴重な記録、永山さんだから、食に関する部分に焦点を当てるのであって、磯田道史なら、この本をどう紹介してくれるかなぁ、などと思う。

 つい最近、CSで『殿、利息でござる』を観た。
 磯田道史の『無私の日本人』所収の「穀田屋十三郎」が原本。
 タイトルから、内容がお茶らけになっているのを危惧したが、そうではなかった。とはいえ、もう少しシリアスな描き方があったように思うが、それでは観客がついてこないのかもしれないなぁ。難しいところだ。

 『無私の日本人』には、他にも、「こんな人がいたのか!」と驚く日本人が紹介されていて、そのうち記事にしたいと思っている。
 磯田の本は結構読んでいる。読むうちに、彼のように古文書が読めるってぇのが、羨ましく思える。

 さて、永山さんの本にあった『瓦礫雑考』の著者である喜多村信節は、江戸後期の風俗百科事典と言える『嬉遊笑覧』の著者でもあり、喜多村筠庭(きたむら いんてい)という名の方が有名だろう。

 庶民が武士や公家などよりいち早く一日三食になっていたとはいえ、白米を食べるようになったのは、それほど早い時期ではない。

 永山さんの本から、引用。

 食卓への白米の定着を促した要因として真っ先に特筆すべきは、農業機具の発達だろう。たとえば水車が広まったことで玄米を搗くのが容易になり、大量の玄米が精白できるようになった。またこの時期、財政難に悩み始めた徳川幕府が新田開発などで米の増産を後押しする政策に力を入れたことの影響も大きい。
 白米の生産量が伸びた結果、供給量に余剰が生まれ、米の値段が下がっていった。これにより、いままで高価で手が出なかった町人たちでも白米を購入できるようになったのである。しばらくすると「米搗き屋」という精米所が江戸や大坂の都市部に広まり、やがて各地に普及していった。

 「搗き米屋」は、落語の『幾代餅』や『搗屋幸兵衛』に登場するから、落語愛好家にとっては馴染み深いね。
 
 では、いつ頃から白米が庶民の間に普及したのか。

 元禄の少し前の時代まで、白米を日常的に食べることができたのは将軍及び一部の特権階級だけであったが、1800年代に入る頃までに、江戸では下級階層まで日に三度の白米食が当たり前となった。「将軍さまと同じものを食べるんだ」という江戸っ子のプライド、あるいは意地のようなものが、白米の流行と浸透を助長した可能性は小さくない。

 なるほど。たしかに、「将軍さまと同じものを食べる」という意識は、江戸っ子にとっては、実に気持ちのいい感覚だったのだろう。
 そして、できるものなら将軍さまよりも美味く食べてやろう、という思いもあるから、白米を食べる方法にしても、江戸っ子は知恵を働かせるのだ。

 白米に熱中する庶民の様子は、米の炊き方一つとってみてもよくわかる。
 米は前の晩のうちにとぎ、朝まで水に浸けておいた。こうすることで芯まで熱が通り、ふっくらと炊けることを知っていたからだ。栄養学的にいえば、水に浸けておくことによって、能の血行をよくするギャバという成分が増える。
 江戸時代後期の国語辞典『俚言集覧』(太田全斎・著)には、こんな一文がある。
「ドウドウ火ニ チョロチョロ火 三尺サガッテ 猿ネムリ 親が死ストモ 蓋トルナ」
 まるで呪文のようだが、当時の米の炊き方をい教える遊び唄である。
 羽釜(はがま)に入れた米を最初は強火で炊く。それから弱火に変えて、猿が火の前で居眠りするくらいの、ほんのり温かい余熱で蒸らしていく。炊飯中は何が起きようとも絶対に蓋を取ってはいけない。
 沸騰中に米から出るオリゴ糖は水分中に流れ出る性質をもっており、このオリゴ糖が少ないと甘みのないまずい米になってしまう。外に出たオリゴ糖をもう一度米に吸収させるには充分に蒸らす必要がある。江戸の庶民が実践していたのは、とても的を射た炊飯方法だったわけだ。

 ギャバですよ、ギャバ!

 遊び唄は、その後、落語『権助芝居(一分茶番)』で飯炊きの権助が言う、次の歌詞(?)に変わっていったのだろう。

 169.pngはじめちょろちょろ中ぱっぱ ぶつぶついう頃火を引いて ひと握りのわら燃やし 赤子泣いても蓋とるな

 あらためて、思う。

 日本人は、ご飯だよなぁ。

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by kogotokoubei | 2017-09-19 18:54 | 江戸関連 | Trackback | Comments(0)

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by 小言幸兵衛