加賀藩は、なぜ生き延びたのか(1)ー磯田道史著『殿様の通信簿』より。
2017年 09月 11日

磯田道史著『殿様の通信簿』(新潮文庫)
同期会加賀の旅から帰って思い出した本を、棚から引っ張り出した。
磯田道史の『殿様の通信簿』は、多くの古文書を元に書かれた本だが、その中でも特筆すべきなのが、元禄期に書かれた『土芥寇讎記(どかい こうしゅうき)』だ。
同書は、謎の本と言われており、幕府隠密による秘密諜報の記録で、諸大名の内情を幕府高官がまとめたものという説がある、と著者は解説している。
とにかく、貴重な本であることは、「はじめに」で次のように書かれていることでも分かる。
書き写すことが、よほど厳しく禁じられていたようで伝来する写本が極めて少ない。かつては二冊の写本が残っていて、東京大学史料編纂所に一冊、旧広島藩主浅野侯爵家にもう一冊あったが、浅野本家は原爆で焼かれてしまい、今では、この世に一冊しか存在しない。
この世に、ただ一冊、なのだ。
戦争、あるいは原爆は、いろんな日本の宝を焼き尽くしてしまったのだなぁ。
「はじめに」のこの続きをご紹介。
この書物を世に出したのは、東京大学史料編纂所の金井圓(まどか)教授(当時)であった。金井教授は、この書物が、
①おそらく幕府高官が隠密の「探索」に基づいて書いたものであること、
②元禄三(1690)年ごろに書かれたもので、当時の大名二百四十三人の人物評価を載せた稀有な書物であること、
③現存するのは東京大学史料編纂所の一冊だけであること、
などを明らかにし、昭和四十二(1967)年に、みずから原文を解読されて、この書物を活字化された。これが校注・金井圓『土芥寇讎記』である。
金井教授の努力によって、貴重な記録が発掘された、ということか。
この後に、「土芥寇讎」の意味についても、説明がある。
「土芥寇讎」とは聞きなれない言葉だが、『孟子』にその出典がある。殿様が家来をゴミのように扱うと、家来は殿様を仇(かたき)のようにみる・・・か。
「君の臣をみること、土芥のごとければ、すなわち、臣の君をみること寇讎のごとし」
「殿様が家来をゴミのように扱えば、家来は殿様を仇のようにみる」
そういう意味である。江戸時代には「四書五経」を、そらんじているのが、教養人の基準になっていたから、『孟子』のなかにある「土芥寇讎」という言葉は江戸の士人にとっては、ごくありふれた言葉であった。
今の日本がそうだ、と言うと言い過ぎかな。
あらためて江戸時代の教育と現在のそれと、果たしてどちらが正しいのか、という疑問が浮かぶ。
「四書五経」などと言うと、現在では右がかったかのような印象を与えるが、かつては寺子屋で子供たちが学んでいたのだ。
平成の世と江戸時代を比べるのは無理があるのは承知だが、読み書き算盤が男の子への教育の基本であり、武家屋敷や商家への奉公のために女の子は裁縫などを習い行儀見習いに出ていた江戸時代の教育事情は、あらためて見直されて然るべきではなかろうか。
そして、敗戦後、学ぶべき相手が中国からアメリカに変わってから、果たしてどれほど日本は大きなものを失ってきたか、と思わないではいられない。これ以上この件について考えると『日本辺境論』(内田樹著)のことを書くことになるので、ここまで。
『土芥寇讎』に登場する水戸黄門や浅野内匠頭などの中から何名か選び、他の史料も最大限に参照して書かれたのが、本書だ。
その中に、「前田利常」の章がある。
もっとも多くの頁が割かれており、「その壱」「その弐」「その三」合わせて約九十頁に及ぶ。
まず、冒頭から引用。
徳川幕府が三百年ちかく続いたその理由について考えたい。それを考えていくと、結局徳川に謀反する大名が出てこなかったのは、なぜか、という話になっていく。徳川時代、最大の大名は加賀の前田家であって、謀反をおこし、徳川にとってかわるとすれば、まずはこの家であった。
そうなのだ。
織田信長に仕えた後、盟友の秀吉を支えた前田家が、なぜ、徳川の世を生き延びたのかは、疑問だ。
次のように、利家が長子の利長に言い残した言葉だって、決して、その後の安泰につながるものではない。
いまわのきわに、利家は利長を枕元によび、この父、利家の遺言に対して、利長をどう考え行動したのか。
「おれが死んでも三年は金沢に帰るな。大坂城にいて、秀頼公をお守りせよ」
と厳命している。
ー守りに入るな。徳川と対決せよ。中央に出て、あわよくば、天下に号令せよ
というのが、利家の一貫した外交方針であり、中央にあって天下に号令する夢を捨てていなかった。
引用を続ける。
だが利長はさっさと金沢に帰って城に引き籠ってしまう。この時点で、前田家は「守り」にはいったといっていい。家老たちは「これで前田家も終わりだ」と不平を口にしたが、利長には利長なりの考えがあった。のちに、
ー三州割拠
とよばれるようになる独特の外交戦略である。第一に、中央での政権争いには加わらない。第二に、穴熊になったつもりで加賀・越中・能登の三カ国に立て籠もり、ひたすら時を待つ。そのうち、中央での政権争いで、覇者たちが疲れるから、そこに出て行って、漁夫の利をしめる。そういう一種の持久戦法であった。結局、これが、明治維新にいたるまで、前田家の伝統的な外交方針になる。利長は一見、愚鈍にみえて、実は賢い。常に偉大な父を仰ぎみながら育っただけに、なによりも、自分の力の限界を知り尽くしていた。目から鼻に抜けるほど賢く、下手に才のある石田三成のように、無理をするところがなかった。
利長が、自分の能力を実に客観的に評価するだけ賢明であったこと、そして、この「三州割拠」という戦略が、加賀藩存続のために重要だったわけだ。

同期会加賀の旅で、初日に宿のすぐ近くの尾山神社に行った。その記事と重複するが、神社のサイトからの引用を再度ご紹介。
尾山神社のサイト
尾山神社の歴史
慶長4年(1599)閏3月3日、利家公が薨去します。その後、二代利長公は、利家公を仰ぎ神として祀ろうとしました。しかし、当時、前田家は、なんといっても外様大名の立場です。徳川幕府の許可なくして、勝手なことはできません。利長公とて、徳川幕府をはばかり、公然と神社創建に踏み切ることができませんでした。
そこで利長公は、守護神としていた物部八幡宮ならびに榊葉神明宮を遷座する名目で、卯辰山麓に社殿を建立し、利家公の神霊を合祀しました。これが、卯辰八幡宮です。むろん藩あげて、厚く祭儀を執り行い、尊崇しました。
ちなみに、物部八幡宮は、もと東海老坂村の鎮座です。利長公が、越中国の守山城におられたとき、守護神としていました。榊葉神明宮は、もと越中国阿尾の鎮座です。
加賀藩祖前田利家公と正室お松の方を祀る
さて、廃藩置県後、旧加賀藩士等は祭祀を継続し、利家公の功績を不朽に伝えんと、明治6年旧金谷御殿の跡地である現在の社地に社殿を新築しました。尾山神社と称して、郷社に列せられます。翌明治7年には県社に昇格、そののち明治35年には別格官幣社に列せられました。また、平成10年には正室であるお松の方も合祀されました。
もし、利長が公然と利家を祀る神社を建立していたら、家康が前田家を取り潰す格好のネタになったことだろう。
利長が関ケ原でとった行動も、見事に彼ならではの戦略に基づくものだった。
家康は利長に猛烈に書状を送り、「前田南下」作戦を実行するように求めた。利長の弱点は母のまつを人質にとられていることであった。利長は母親のまつが、たまらなく好きであった。前田家にとって、まつの存在は大きく、家康は、なるほど、なかなか、微妙な駆け引きがあったんだねぇ。
(まつさえおさえておけば、前田はどうにでもなる)
とみていた。事実、それは正しい。この時期に、家康が利長に送った書状ほど、いやらしいものはない。家康は「まつ殿が、まつ殿が・・・・・・」と、人質にとったまつの近況をやたらと書状にしたためて送り、
(忘れるな。いつでもお前の母親は殺せるぞ)
ということを示した。
この家康のもとめに応じて、利長は二万五千人の軍勢を率いて、南下をはじめた。だが、まじめに南下作戦をやらない。福井方面にむかって南下するのだが、小さな勝利を得ると、さっさと兵を返して、金沢城に戻って休んだ。そして、しばらくすると、また金沢から出てきて、南下をはじめる。そういう奇妙な軍事行動おとった。
ー関ケ原の混乱に乗じて前田家の領地を拡大する
利長にしてみれば、これが唯一の軍事目的である。
(まじめに南下すれば、家康を大勝利させてしまうだけである)
そういう考えがあった。しかし、家康にしてみれば、これだけでも有り難い。前田の大軍が相手方に加わらず、実質的中立をたもってくれれば、それでよかった。
加賀藩が江戸時代を生き延びた理由の一つは、この利長の慎重な姿勢、三州割拠という戦略によるところが大であろう。
そして、利長の後を継いだ利常の功績も大きいのだが、それは次回としたい。
子どもの頃「猿」と言われた利常が、父利家の幼名と同じ「犬」千代となるまでには、なかなか興味深いいきさつがあるのだが、それは、次の記事までお待ちのほどを。
