噺の話

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初代林家正楽の日記(つづき)-小島貞二著『落語三百年ー昭和の巻ー』より。

 前回の記事では、小島貞二さんの『こんな落語家(はなしか)がいた』(うなぎ書房)から、初代林家正楽の日記について紹介した。

 その中で、小島さんは次のように書いていた。

 紙切りの初代林家正楽(一柳金次郎)は几帳面な人で、大正六年以来、ズーッと欠かさず日記をつけていた。
 その正楽は浅草永住町で空襲をもろに浴び、命からがら逃げたのはいいが、命から二番目の日記をそっくり焼いてしまった。
 がっかりして日記をやめたというのが常道だが、失望より勇気が上回り、焼けたその日からまた日記をつけ始めた。
 私は前に、『落語百年』(全三巻 昭和41年3月 毎日新聞社刊)をまとめたとき、その日記を借用して、演芸に関するところだけをピックアップさせていただくことにして、「昭和の巻」に紹介した。

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 私は『落語三百年ー昭和の巻ー』の昭和54年発行改訂新版を持っている。
 最初の章「戦争と落語」の中でこの日記は紹介されており、『こんな落語家(はなしか)がいた』には掲載されていない内容や、引用した部分の補足説明に相当する部分があるので、この本からも初代林家正楽の日記を紹介したい。

 前回紹介した日記と重複するが、三月十日付けの内容に小島さんの補足説明があるので、まずご紹介。

「三月十日。浅草、下谷、本所、深川被害甚大にて死者多し。貞山、岩てこ、李彩、扇遊、左喬、丸勝、武蔵太夫ら惨死す」
 六代目一竜斎貞山は、講談組合の頭取で落語協会の会長であった。馬道に住み、言問橋まで逃げて煙にまかれて死んだ。六十八歳。死体は浅草の親分が見つけた。
 太神楽の寿家岩てこは五十歳、中国奇術の吉慶堂李彩は六十八歳、パンとマイクの立花家扇遊は六十歳。左喬は落語家、丸勝は太神楽、武蔵太夫は新内語り。みんな浅草界隈にいて、運命の火の粉をあびたのだ。
 三遊亭円馬は、扇遊と馬生(大阪から来た馬生)と菊屋橋にあった昭南荘というアパートで、となり合わせに住んでいた。そこへ三月九日夜んぽ大空襲となり、扇遊夫婦がまっ先に逃げた。逃げ遅れた円馬は、アパートの住人であるご婦人をリードして、比較的火の色がうすい上野方面に走り、小学校へ避難して助かった。別に逃げた馬生も無事だったが、扇遊だけは隅田川方面を選んだらしく、そのまま夫婦もろとも帰らぬ人となった。

  大阪から来た馬生は、五代目馬生門下で昭和19年に九代目となった人。
 
 立花家扇遊は、奈良のお寺の息子で、唐招提寺で修業をし実家の僧侶となった後に、芸人に転じた人。尺八、へちまおどり、そしてパントマイムのような「蝿取り」なる珍芸で人気を取ったと言われる。
 現在の入船亭扇遊より前の時代、扇遊と言えばこの人のこと。
 円馬は四代目。
 浅草から上野方面に逃げたか、隅田川の方角を目指したかで生死の違い。
 犠牲になった人、逃げ延びた人、まったく紙一重の違いということか。

 すでに紹介した、協会の違う志ん橋(後の三代目三遊亭小円朝)主任の新宿末広の寄席に正楽は四月二十四日に出演しているが、その後、五月の日記。

「五月六日。午前十時より上野鈴本焼けあとへ連中集まり、鈴本主人より罹災連中に見舞金(三十円ずつ)下さる。文楽氏宅へ寄り、人形町末広、新宿末広つとめ六時半帰宅」
 上野鈴本の大旦那(鈴木孝一郎氏、故人)は、自分のとこも焼けながら、なお焼けた芸人に見舞い金を出している。一同の感激も大きかったろう。
 このあと、鈴本経営の映画館(現在の上野鈴本と電車道をへだてた向かい側)の焼け跡に、応急のバラック・・・・・・バラックというより、柱を立てて周囲と天井を葦簀張りにしただけの小屋をつくり、そこで興行したが、寄席壊滅状態のときだけに客は来た。

 鈴本の大旦那から見舞金をもらった“連中”には、落語協会派の人も芸術協会派の人もいたに違いない。
 この大旦那鈴木孝一郎は三代目の席亭で、明治13(1880)年生まれ、昭和36(1961)年没。
 鈴本のサイトで、「寄席主人覚え書」という大旦那の貴重な記録を読むことができる。昭和32(1957)年9月3日から東京新聞 に掲載していた記事で、当時の寄席、落語家、そして落語家と客との関係などが書かれていて、読んでいて飽きない。
鈴本サイトの該当ページ
 ちなみに現席亭は六代目。
 大旦那のようにはなれなくても、そろそろ、芸協とは関係を修復できないものだろうか。
 以前書いたように、芸協と鈴本との別離から、すでに三十年以上が経過している。
2014年3月5日のブログ


 初代正楽の日記の引用を続けよう。

 五月二十五日の空襲で、北沢の正楽家付近も火の海となるが、奇跡的に焼けのこり、電灯もラジオもつかない不安な数日をすごす。
「六月一日。午前十一時より小田急にて新宿へ。駅焼けている。新宿末広焼失。今まで焼け残りたるところ皆焼失。円生、山陽、小文治、柳橋みな立ちのきて逢わず。野村無名庵氏焼死の由」
 野村無名庵氏は本名野村元基。落語研究家として「落語通談」ほか著書も多い。このとき講談落語協会の顧問。芸界にとってはかけがえのない人材であった。
 無名庵氏は武島町(文京区)に住み、付近に爆弾の雨ふりそそぐ中で、警防団の団長として阿修羅の働きをした。自宅にも火が入ったので、ご真影(天皇の写真)を持ち出すべく突入、出て来たところへ焼夷弾の直撃を頭にうけて散ったという。五十七歳。明治の日本人としてはふさわしいかもしれないが、落語を愛した市井人としてはあまりにもむごい。

 野村無名庵が空襲で亡くなったのは、小島さんのご指摘の通り、あまりにも残念だ。

 『落語通談』については、落語のネタのことでの引用を含め、何度か記事を書いている。
2015年3月17日のブログ
2015年11月23日のブログ
2015年12月23日のブログ
2017年2月27日のブログ

 『本朝和人伝』については、Amazonのブックレビューを書いた。
野村無名庵著『本朝和人伝』
 そのレビューでも書いたのだが、日の目を見ることがなく焼失したであろう数多くの貴重な原稿は、あまりにも大きな文化的損害であったと思う。

 戦争の被害は、正楽の家族にも及んでいた。

「六月三日。満太郎戦死の報来る」
 正楽氏にとっては最愛のひとり息子満太郎さんが、華北の最前線で戦死したむねの公報がとび込んで来たのである。昭和二十年三月八日二十三時四十分とあった。浅草の自宅が被災するわずか一日前のことである。正楽氏のその日の日記帳には部隊長よりの手紙が、そっくり記載されてある。
 年月日は違うが桂文楽、三遊亭小円朝もそれぞれ一人息子を戦争にかり出され失っている。人を笑わせる商売だけに、こういう話はよけいにかなしい。

 “人を笑わせる商売だけに、こういう話はよけいにかなしい”という思いは、七年前になるが、NHKの戦争特集番組で「戦場の漫才師たち~わらわし隊の戦争~」を見た時に、強く感じたことだった。

 あの番組については、やはり小島貞二さんの『こんな落語家(はなしか)がいた』の引用を中心に記事を書いた。
2010年8月11日のブログ

 そろそろ、敗戦(終戦、ではなく)記念日近くの特集番組もお開き、という感じだが、年中行事として放送したらしばらく戦争のことは終わり、という思惑がちらつき、なにか腑に落ちない。

 今まさに、国内外の諸事情で戦争の危機が迫っているのではないか。
 あるいは、共謀罪などにより、戦時下にも似た、息苦しい、住みにくい社会になる危険性もある。


 昭和二十年、鈴本の向かいの焼け跡に作られた寄席もどきの小屋に駆けつけた人々のことを思うと、どれほど多くの日本人が笑いを求めていたかが察せられる。
 あまりにも“非日常”の日々が続いていたのだ。

 あの“無意味”な戦争は、多くの芸人の命も奪った。
 そして、国民の生活から“笑い”を奪い取った。

 “日常”生活、“笑い”に溢れた家族の生活を奪い取る権利は誰にもない。

 共謀罪を含め、現在の政府が行おうとしていることは、あの無意味な歴史を何ら反省していないということだ。

 この本からは、また近いうちに戦争の無意味さについて、紹介したいと思う。


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Commented by saheizi-inokori at 2017-08-23 09:41
>今を生きる我々は、あの戦争の多大な犠牲のもとに、現在の平和な“日常”があることを

こう書くとあの戦争に何か建設的意味があったようになりませんか。
そういいたい気持ちもあるけれど、やはり無意味な死だった、犠牲なんかじゃなくてと考えます。
Commented by kogotokoubei at 2017-08-23 09:49
>佐平次さんへ

なるほど、ご指摘通りですね。
改訂します。
まったく無意味な戦争であったことこそ、伝えるべきなのでしょうね。
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by kogotokoubei | 2017-08-22 23:07 | 落語の本 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛