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初代林家正楽の日記(小島貞二著『こんな落語家がいた』より)、など。

 新宿末広亭の9月下席の夜の部から、桂小南治の三代目桂小南襲名披露興行が始まる。
 まねき猫との交互出演ではあるが、協会の垣根を超えて、膝替りには弟の二樂も、兄の披露目に出演する予定だ。
新宿末広亭のサイト
-新宿末広亭9月下席・夜の部-(末広亭のサイトより)
落語交互
 桂 鷹治
 山遊亭 くま八
漫談 新山 真理
落語 三笑亭 夢丸
落語 三笑亭 可龍
奇術 北見 伸・スティファニー
落語 三遊亭 遊之介
落語 桂 歌春
俗曲 桧山 うめ吉
落語 桂 南なん
落語 三遊亭 小遊三
-お仲入り-
襲名披露口上
落語 雷門 小助六
曲芸 ボンボンブラザース
落語 三遊亭 遊吉
落語 山遊亭 金太郎
交互出演
 物まね 江戸家 まねき猫
 紙切り 林家 二楽
主任 小南治改メ 桂 小南

 兄弟出演は、実に良い企画だと思う。
 六歳違いの二人の父は、二代目林家正楽。
 初代正樂から紙切りを習った父だが、正楽の下では預り弟子の扱いで、一貫して八代目林家正蔵門下だった人だ。

 初代正樂の弟子には、落語芸術協会の今丸がいる。
 師匠没後、今丸は今輔門下となった。

 いずれにしても、今に残る紙切りという芸を語る上で、初代林家正楽の存在は大きい。

 江戸落語の初代林家正楽は、上方にも同じ名の落語家が代を重ねていたので、本人は八代目と称していた。明治29(1896)年11月18日生れで、昭和51(1966)年4月15日没。長野県の出身で、生前は日本芸術協会(現落語芸術協会)に所属した。

初代林家正楽の日記(小島貞二著『こんな落語家がいた』より)、など。_e0337777_11092103.jpg

小島貞二 『こんな落語家がいた-戦中・戦後の演芸視-』
 初代正樂のことについて、ある本から引用したい。
 戦中・戦後のことを落語を中心に芸能分野から振り返った名著、小島貞二さんの『こんな落語家(はなしか)がいた-戦中・戦後の演芸視-』(うなぎ書房)からは、何度か記事にしている。

 7年前、「わらわし隊」にことに関して引用したのが最初だ。
2010年8月11日のブログ
 そのすぐ後に、この本を中心にした記事を書いた。
2010年8月17日のブログ
 戦争が大きな転機となった、昔々亭桃太郎のことを書いた際も、引用した。
2012年11月5日のブログ
 三年前、江戸家猫八の広島での被爆について書いた記事もあった。
2014年8月6日のブログ

 この本は2003年8月発行で、同年6月に84歳で亡くなった小島貞二さんの遺著だ。

 「第三章 戦時下の落語界」から紹介。

 紙切りの初代林家正楽(一柳金次郎)は几帳面な人で、大正六年以来、ズーッと欠かさず日記をつけていた。
 その正楽は浅草永住町で空襲をもろに浴び、命からがら逃げたのはいいが、命から二番目の日記をそっくり焼いてしまった。
 がっかりして日記をやめたというのが常道だが、失望より勇気が上回り、焼けたその日からまた日記をつけ始めた。
 私は前に、『落語百年』(全三巻 昭和41年3月 毎日新聞社刊)をまとめたとき、その日記を借用して、演芸に関するところだけをピックアップさせていただくことにして、「昭和の巻」に紹介した。
 
「昭和二十年三月九日夜より十日にかけての敵機の爆弾のため、浅草永住町114番地にて類焼。家具寝具全部及び数年来書き残しありし自作新作落語原稿百数十編類焼す」
「三月十日。浅草、下谷、本所、深川被害甚大にて死者多し。貞山、岩てこ、李彩、扇遊、左橋、丸勝、武蔵太夫ら惨死す」
「三月二十日。十三日より二十日まで神楽坂演芸場名人会に出演。警戒警報あり二日休む」
「四月六日。帰途桂文楽氏宅に寄る。十日千葉一の宮、右女助(のち小勝)の部隊慰問頼まれたが、名人会がるので行かれず断わる」
「四月十四日。四谷、花園町、荒木町、喜よし亭、四谷駅まで焼野原となり、牛込神楽坂一円焼失、演芸場、小文治、圓(まどか、のち三木助)宅類焼す。小文治氏の立退き先観世宅見舞い、中里柳橋氏付近まで焼け、類焼を助かりしを見舞う。のりもの全部なし、新宿より浅草まで歩き回る」
「四月十五日。十三日の盲爆三月十日に劣らず、四谷、牛込、田端、日暮里、小石川、千住、品川等焼失。前火災に助かりし小文治、圓、円歌、志ん生、柳枝、小南、燕枝、柳朝等みな類焼す。席にては大塚鈴本等」

 日記の中から被害状況がよくわかる。
  
 本当に、この日記は戦災の記録としても貴重だと思う。
 なお、柳朝は四代目で、のちの四代目柳家つばめ。三木助に『芝浜』を教えたといわれる人だ。
 小南は、八代目文楽の最初の師匠の初代桂小南。

 東京大空襲というと、もっとも被害が大きかった三月十日が思い浮かぶが、四月十三日の空襲も小さいものではなかったことが、この日記からも分かる。

 引用を続ける。

 当時の寄席は、空襲警報が鳴ると休みになった。芸人の服装は、高座着のままモンペをはき、上から筒袖の外套を着た。肩には弁当を入れた雑嚢、腰には防空頭巾や水筒を下げ、下は長靴だった。
 三遊亭円歌はある座敷の帰り、紋付袴の出で立ちで市電を待っていると、「この非常時に、そのザマは何だ!」と、ツカツカと寄ってきた男に殴られたという。
 桂小文治(初代・稲田祐次郎)は、戦後も高座着にモンペ・・・・・・モンペを脱げばそのまま高座着になる特製の衣装を愛用していて、桂枝太郎(二代目・池田芳次郎)はこれを「ライスカレー」と呼んでいた。「カレーライスもライスカレーも一番手っ取り早い」というのが命名の由来ときいた。

 「四月十日。新宿末広へ、協会の志ん橋大幹部昇進披露興行スケ。六時帰宅」

 この志ん橋はのちの三遊亭小圓朝(三代目・芳村幸太郎)で、このときは船勇亭志ん橋、「船遊亭」が正しいのに、戦時中というのでわざと「船勇亭」と書いた。こういうことも軍部へのゴマスリがある。
 小圓朝の所属は落語協会派、正楽は芸術協会派で、寄席では合同の公演はないはずなのに、正楽は頼まれて出演している。戦争による芸人不足を物語る。

 空襲のことに限らず寄席の出演のことも含め初代正樂の日記は重要な記録だ。

 三月十日の東京大空襲で焼失した日記にも、戦前の落語界にとっては、実に貴重な情報が満載だったと察する。

 文中の三代目三遊亭小円朝については、その芸を高く評価していた飯島友治さんの『落語聴上手』から引用したことがある。
2016年5月7日のブログ

 昭和二十年の寄席は、人手不足のために協会に拘らない番組が組まれた。

 9月下席の三代目小南襲名披露は、弟が兄の披露目のスケをするという粋な計らいで、協会の垣根を越える顔付がされた。

 実に平和な平成の寄席、と言えるのではなかろうか。

 日記の貴重な記録と紙切りという伝統芸を伝えた初代正樂も、きっと孫弟子の出演を喜んでいるに違いない。

 ぜひ、この披露目には駆けつけたいと思っている。

Commented by ほめ・く at 2017-08-22 16:22 x
2代目桂小南は柔らかな語り口で人気がありました。それまで上方落語というのはアクが強く、また関西弁が聞き取りづらかったんですが、小南のしゃべりは東京の人にもよく理解できました。
3代目の誕生はとても嬉しいです。小南治は芸のしっかりした人ですから、きっと良い後継者になるでしょう。
今回の協会の垣根を超えた粋な計らい、これからもどんどん続けて欲しいですね。
Commented by kogotokoubei at 2017-08-22 23:58
>ほめ・くさんへ

おっしゃる通りだと思います。
生の高座に接することはできませんでしたが、かつてはテレビやラジオで、そして残された音源を聴いても、まったく違和感がないですね。
個人的には、三代目小南と、かつての兄弟子南喬との二人会があればなぁ、なんて思っています。
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by kogotokoubei | 2017-08-21 12:36 | 落語の本 | Trackback | Comments(2)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


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