吉村昭、戦時下の寄席の思い出ー『東京の戦争』より。
2017年 08月 13日

吉村昭著『東京の戦争』(ちくま文庫)
吉村昭の『東京の戦争』は、2001年に筑摩書房で発行され、2005年に文庫化された。
昭和2年生まれの吉村は、執筆の動機を次のように書いている。
数年前から、しきりに思うことがある。それは、東京というこの都会で「大東亜戦争」と称されたあの戦争に一個の人間として直接経験したことが珍しい経験なのかも知れぬ、と思うようになったのである。
この本で有名(?)なのは、ノースアメリカンB25による東京への初空襲の思い出かもしれない。
しかし、私はどうしても、落語や寄席に関わる部分が印象に残る。
吉村昭の落語好きは有名で、学習院時代の昭和26年10月に 所属した文芸部の部費を稼ぐために大学寄席を企画し、志ん生・柳好二人会を開いたほどだ。
本書には、あの戦争の最中でも、落語好きな吉村の姿を偲ばせる思い出が語られている。
「ひそかな楽しみ」の章から引用。
戦争が激化するにつれて食料品をはじめ生活用品が欠乏し、まさに暗黒時代であったのに、旧制中学生であった私は、私なりのひそかな楽しみを見出していた。思い返してみると、不思議なことに妙に明るい気分で日を過していたような気さえする。
四年前、中学生時代の思い出を集めた同級生たちの文集が、有志によって編まれたが、友人たちの文章を読むと、私のように映画館、寄席、劇場に足しげく通っていた生徒は稀であったのを知った。東大出身の安村正雄先生という恩師をかこんだ同級生の座談会も収録されていて、戦時下の辛かった思い出が語られているが、
「君たちがそんな辛い思いをしていた頃、吉村はせっせと寄席通いをしていたんだな」
と、先生が笑いながら話したことも活字にされていた。
私は、教師に知られぬように細心の注意をはらって寄席通いをしていたつもりであったが、先生はそれに気づいていたらしい。思い返してみると、悠揚とした感じがしながら何事も見ぬいているような、一瞬鋭い眼をする先生であった。
吉村少年の寄席通いを知っていたにも関わらず、それを明らかにすることも、本人を叱ることもなかった恩師の安村先生の姿に、戦時下ならではの先生の配慮や、人間としての度量の大きさを感じる。
生徒たちの身も明日どうなるか分からないだろう戦時下で、寄席好きな吉村少年の楽しみ奪ってはかわいそう、と先生は思われたのかもしれない。
“悠揚とした感じがしながら何事も見ぬいているような、一瞬鋭い眼をする”先生という言葉からは、私の昭和30年代から40年代における小学校や中学校時代においても、一人か二人の先生の顔を思い出す。
かつて、教師は尊敬されていたし、威厳があった。
さて、教師論が主題ではないので、本書の引用を続ける。
帰宅して制服、制帽をぬいで映画館にむかい、よく学校からの帰途、足をむけた上野の寄席「鈴本」へ行く時も、上野駅の一時預り所に制服、制帽、布製の肩からさげる鞄をあずけ、「鈴本」の木戸をくぐった。
当然のことだが私が入るのは昼席で、客の入りはさすがに少く、それも老人ばかりであった。
寄席は畳敷きで、木製の箱枕が所々に置かれていて、それに頭をのせて横になっている人もいる。噺に興味がないわけでなく、横になったままくすりと笑ったりしている。さすがに噺のうまい落語家が高座にあがると、体を起して聴いていた。
文楽、金馬、柳好、文治、柳橋や林家三平のお父さんの正蔵などが出ていた。正蔵は派手な着物を着ていて噺も華やかで、私はその個性が好きであった。志ん生、円生は見たことがなく、どこか他の地に行っていたのだろうか。
きっと志ん生と円生が満州に言っている時期なのだろう。
私は、都内の寄席四席の中で、昔の佇まいを残している新宿末広亭がもっとも好きだ。次に、池袋の、高座と一体感のある空間が好みであり、鈴本は三番目。
残念ながら、今の鈴本には吉村昭の思い出の中にある、古き良き寄席の空気がない。
それは、時代の流れとして当然のことかもしれないが・・・・・・。
さて、そのかつての鈴本での思い出について引用を続ける。
若い落語家が噺を終った後、両手をついて、
「召集令状を頂戴いたしまして、明日出征ということになりました。拙い芸で長い間御贔屓にあずかり、心より御礼申し上げます」
と、頭を深くさげた。
寄席の老人たちが、
「体に気をつけてな」
「また、ここに戻ってこいよ」
と、声をかける。
落語家は何度も頭をさげ、腰をかがめて高座をおりていった。
吉村は、この落語家の名も、戦後の安否などにもふれていないので、詳しいことは分からない。
しかし、この高座のことが目に焼き付いているからこそ、書き残すことになったのだろう。
私もこの文章から、その情景が目に浮かぶ。
若手の高座では箱枕に頭を乗せて横になっていたはずの鈴本の落語通の老人たちが、この出征の挨拶の時には、きっと起き上がって声をかけたであろうことが察せられるのだ。
人形町末廣のことは書いてなかったっけ。
この後には、ある講談師の逸話のこと、そして歌舞伎や新派のことにつながっています。
もちろん、人形町末広にも吉村は行ったでしょうが、逸話としてはないような気がします。
見逃しているかもしれませんが。
