昭和五十八年の真打昇進試験のこと(1)ー立川談四楼著『シャレのち曇り』より。
2017年 06月 06日
先週三日の土曜日、小朝との二人会で相模大野駅近くにある相模女子大グリーンホールに顔を出すはずだった歌丸が、残念ながら何度目かの入院で出演できなかったとのこと。
また、小朝は、元妻による“訴えてやる”という会見で、注目を浴びている。
真相は知らないし知りたくもないが、小朝は高座でこの件を語るはずもないだろう。
落語に疎い若い人は、小朝という人を、泰葉が言うところの“金髪○野郎”の落語家、というイメージしかないかもしれないなぁ。
私と同年齢のあの人、凄い時もあったのですよ。
その小朝が、三十六人抜きで真打昇進した頃のお話。

立川談四楼著『シャレのち曇り』
立川談四楼の『シャレのち曇り』は、処女作『屈折十三年』を含む、彼の半生記とも言える本だが、初版が1990年発行の文芸春秋の単行本、その後私が読んだ講談社ランダムハウス文庫での発行が2008年、そして昨年、PHP学芸文庫の仲間入りをした。
小説として“虚実皮膜”の部分もあるが、なかなか興味深い内容が詰まっている。
立川流の創立につながる談四楼と兄弟子小談志の真打昇進試験落第のいきさつについて、本書の「第一章 屈折十三年」からご紹介。
まず、談四楼が受ける前の真打昇進試験のことから。
結果として、小朝のことにもふれることになる。
昭和五十五年は五月に春風亭小朝が真打になり、『小朝旋風』が吹き荒れた年である。第一回目の真打昇進試験は、その風のいよいよ強い十一月に行われた。小朝の評価は、とにかく高かった。
古いということが基準の受験資格者二十名のうち、「試験なんて野暮のキワミでございます」と四人が辞退し、残り十六名から五人が落されるという結果になった。
『何と、あの落語界に試験制度!』と、スポーツ紙の芸能欄ばかりでなく、一般紙も社会面で驚いたという真打昇進試験。
小朝は三十六人抜きであるから、対象となった二十人は当然その中に入り、抜かれた挙句に落とされるという者が出たのである。抜かれることは仕方がないと納得はしても、
「オデキの上を針で突っつきやがった」
「首くくりの足を引っぱるような真似をしやがって」という、五人の落とされ組の捨て科白は、あえて軽い口調で発せられたものの、後に続く二ツ目達には、他人事ではなく響いたのである。
「どうだ、オレ達が仕掛け、世に送り出した小朝の売れ方を見ろ。しかも我々はそれに浮かれることなく、有史以来の試み、真打昇進試験をこれだけ厳しい形で実施したんだ。どうだ、どうだ、落語協会ってなァちゃんとしたところだろう」
落語協会は、スタア小朝の後押しを、見識、定見という形で世に示し、記者団に囲まれ相好を崩した。記者会見の席上に連なる幹部達のなんと手柄顔であることか。
あとは、ちゃんとしていることの何よりの証明、試験で真打を誕生させていること、だけが世間に伝わればよい。故に第二回目の試験は昭和五十七年に実施され、十人が受験し全員合格となったのである。つまり試験は、ここでハッキリ形式だけということになった。
各寄席における披露目も、十日興業のうちの一日だけ務めればよく、客席は上野鈴本演芸場、新宿末広亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場、と都内に四軒であるから合計高座は四日間だけ。
金銭面での負担は、単独でなった真打のそれより遥かに軽く、十人の人柄も手伝って楽屋には、御馳走になろうという後輩たちが大挙して押しかけ、あふれた。
三十六人抜きは、偶然にも志ん朝と同じ。
昭和五十三年のNHK新人落語コンクール、小朝は『稽古屋』、さん光時代の権太楼は『反対俥』で臨んだ。
以前、当時の模様を権太楼の著作から紹介したことがある。
2014年11月5日のブログ
権太楼は、こう書いている。
現場では「俺のほうが・・・・・・」と思ってましたよ。これはねえ、偽らざる心境。「ここでもって、俺がとらなかったら、おかしいだろう。こいつら相手にして」というぐらいに思ってたんですよ。私もテレビで観て、そう思ったことを思い出す。
ところが、その録画が放送されたときに、すーっと見るわけじゃないですか全員のを、たしか江ノ島で見たんですよ、仕事で行ってて。「きょう放送があるから見たいな」つって。
で、見たら「あ、俺が審査員でも、小朝です」って思ったの。あとで冷静に見たら「この人、うまいわ。また、ちゃんといい構成を持ってきてる」ってね。
小朝の絶頂期は、平成二年に、博品館で一ヶ月の独演会を開催した頃ではなかろうか。
小朝の抜擢昇進した年、昭和五十五年の第一回試験については、以前に雲助の本から紹介した。
2014年7月21日のブログ
雲助は、その頃に届いた受験案内を“赤紙”と呼んでいたと明かしている。
さて、談四楼にも赤紙が届いたものの、“形式だけ”とタカをくくっていた第三回目の真打昇進試験のこと。時は昭和五十八年の五月。
第三回真打昇進試験の当日、五月十日午前十一時三十分、二ツ目は目白駅近くの柳家小さん宅に集合した。
前日、年功順で林家源平、柳家小里ん、林家種平、林家上蔵、蝶花楼馬楽の五人が受験し、今日は今回唯一の 抜擢、十三人を飛び越えて受験資格を得た林家正雀を含む、立川小談志、真田家六の輔、林家らぶ平、それに談四楼の五人である。
ここで、補足しておくが、談四楼と一緒に受験した中の一人、真田家六の輔は、実際の名を替えている。
談四楼の『談志が死んだ』では、還暦記念落語会に入門同期を呼ぶ話があって、実際の名跡で登場している。
単行本を平成二年に発行する時点では、著者がその本当の名跡を明かすことが憚れた、ということだろうか。
私も、六の輔のままにしておくが、落語愛好家の皆さんなら察することはできるはず。
引用を続ける。
小さんの道場では、抜擢の正雀を除いて、それぞれが非常に良い感触を得た。
審査員は、小さん、馬楽、円歌、さん助、円菊、小三治、扇橋、円窓の八人で、志ん朝、談志、六朝、円蔵などの人気幹部は欠席だった。さん助は、これから審査の集計という段になって、寄席(しごと)があるからと帰ってしまった。誰かに意見を託したという様子もなく、不思議な人だ。
談四楼は『岸柳島』を演じて、上手い、達者だ、描写力に優れている、情景が目に浮かぶ、人間も描けている、末が楽しみだ、と賞められた。
理事達は胡坐をかき、煙草をくゆらせながらそれを言う。そして二ツ目は、正座のまま、汗を拭き拭き礼を述べる。
らぶ平などは賞めちぎられた挙句、イイ男だ、とまで言われた。あまり賞められるので舞い上がり、高座から審査員に「それほどでもないでしょ」と言ってしまったほどである。
こういう状態であったから、談四楼たち五人は上機嫌で、蕎麦屋(あの「翁」)で打ち上げをした。
正雀だけが、沈んでいた。
その後、思わぬ展開が待ち受けていた。
翌日談四楼は、らぶ平からの電話で目を醒ました。午前九時だった。
「シャレんならねえよ、落っこちだよ、落っこち」
らぶ平の声は普段の陽気さはどこへやら、沈みきったものだった。
「確かな話か、誰かから連絡があったのか」
追及すると、協会事務局長といってよい渡辺が、らぶ平の兄弟子林家こん平に情報を漏らし、彼からきいたものだと言う。
「ほぼ間違いないと思うよ。現に受かった人のところへは連絡がいってんだから」
「誰から」
「渡辺から」
なぜオレ達には連絡がないのか、それは事務局として当然の仕事ではないのか、基本ではないのか、ええっ、違うからぶ平。
「知らないよ、そんなこと」
らぶ平の情報は正確だった。十人中、受かったのは源平、小里ん、花蝶、正雀の四人で、種平、上蔵、小談志、六の輔、らぶ平、談四楼と、何と六人が落された。そう、落されたのだ。
青天の霹靂と言ってよい。根拠がない。その基準がまるでわからない。明らかに首を傾げたくなる結果、人選であった。
さて、この後、最終的には談志一門が落語協会を脱退することになるまでのお話は、次回ということで、前半はここでお開き。
惜しい、切れ場だ^^
印象的なのは、以下のこだわり。
まず、小朝に抜かれたこと。
次に、第三者に真打昇進試験に落ちたことは忘れろ、こだわるな、
と忠告されても、談四楼がそうは簡単にわりきれない、と述べる場面です。
万事淡白な今の若い衆には理解しにくい執着かな、と。
小朝の抜擢昇進と同じ年から真打昇進試験が行われたことが、抜かれた三十六人にいろんな思いを抱かせたことでしょうね。
この本と「談志が死んだ」の両方を読むことで、談志という噺家と立川流の像がぼんやりながら浮かんでくると思います。
