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宝永の地震・津波から復興した江戸に学ぶー磯田道史著『徳川がつくった先進国日本』より


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磯田道史著『徳川がつくった先進国日本』

 著者の磯田道史は、最近ではずいぶん名が通ってきたと思う。

 『武士の家計簿』、『無私の日本人』(映画タイトル「殿、利息でござる」)の二つの著作は映画化された。
 BSプレミアム「英雄たちの選択」のレギュラー出演者。

 出版されてすぐ『武士の家計簿』を読んで、新しいタイプの歴史学者の誕生を喜んだが、まさか、こんなに“売れる”とは思わなかった。

 私が読んだ『殿様の通信簿』や『龍馬史』なども発行されている文春文庫から今年1月に出た『徳川がつくった先進国日本』は、2012年1月にNHK出版から刊行された『NHKさかのぼり日本史⑥江戸 “天下泰平”の礎』の文庫化。Eテレで2011年10月に放送された内容の書籍化だ。
 
 歴史時代の地震津波を研究する「歴史地震研究会」の会員でもある磯田が発案した番組は見逃したが、この本で読むことで、なるほど3.11の後に組まれた好企画だったのだなぁ、と思った次第。

 「第3章 宝永地震 成熟社会への転換 1707年(宝永四年)」から引用したい。

  ターニングポイント③
          1707|宝永の地震・津波
             富士山噴火
          1716|徳川吉宗、将軍となる
          1717|大岡忠相を江戸町奉行に登用
          1722|上米制、新田開発を奨励する
          1742|公事方御定書の完成

 第2章では、天明の大飢饉という未曾有の危機を経験した幕府や諸藩が、それまでの純粋に軍事政権的な性格を変質させて、「民を守る」という政治意識を醸成して、福祉を国家あるいは政府の役割として認識していったことに注目しました。それは「民政」を重んじる政治への転換と言えるでしょう。
 (中 略)
 時代のターニングポイントとして注目したいのは、宝永四年(1707年)に起きた宝永地震と、その地震がもたらした巨大津波です。2011年3月、東日本大地震によって東北・北関東は人類史的な大被害を受けましたが、実はこの宝永地震は、江戸時代最大の地震であり、東日本大震災が起きるまでは、日本史上最大級の大災害でした。地震の揺れだけでなく、沿岸部を襲った津波が甚大な被害をもたらしたということでもこの二つの大地震は共通しています。

 本書では、各地で新田開発が進み、宝永の前十七年間続いた元禄年間に繁栄の時代を迎えていた当時の状況を説明している。

 まさに、バブルの世と似た状況下で、大災害の日に向かっていたのだ。

 さて、大規模な新田開発と背景に右肩上がりの経済成長を続けた江戸時代の社会ですが、この後、国を大きく揺るがす出来事が起こります。
 宝永四年十月四日(新暦では1707年10月28日)に起きた、宝永地震です。この日の午後二時頃、大規模な自信発生帯として知られる南海トラフ(遠州灘沖と紀伊半島から四国沖にかけての浅い海底の溝)を震源地とする巨大地震が発生しました。マグニチュード8.6と推定されていましたが、マグニチュード9とされている東日本大震災との比較研究によって、宝永地震の規模はマグニチュード9.1~9.3の大きさだったとする見解も出されています。
 この巨大地震はまた日本を襲うはずで、その時期やエネルギーを考える場合には、震源地のとくに両端、静岡県と愛媛・宮崎県に残った地震史料が特に重要になります。国民の命のかかっている話ですから、微力ながら、私もライフワークとしてこの地震古文書調査をしていくつもりです。

 マグニチュードの数字からも、宝永地震のとんでもない大きさが察せられる。

 では、どんな被害が実際にあったのか。

 現在の研究では、宝永地震と巨大津波による全国の死者は少なくとも二万人以上にのぼり、地震による倒壊家屋は六万戸、津波による流失家屋は二万戸に達したとされています。有史以来、最悪の規模の震災だったことは間違いありません。
 死者・行方不明者あわせて約二万と推定される東日本大震災で、私たちは地震と津波の恐ろしさを改めて痛感しました。当時の人びともまた、この宝永の地震と津波から計り知れない恐怖を感じたはずです。

 この大地震、大津波による甚大な被害から、江戸の人々はどう立ち直ろうとしたのか。
 3.11を経験した平成の世とは、実に対照的な“震災後”の姿が、そこにあった。

 戦国時代から幕末にかけての新田開発の件数を表した統計があります(木村礎『近世の新田村』吉川弘文館)。これによると、十七世紀はずっと右肩上がりで新田開発が伸びていますが、十八世紀に入ると、宝永地震のころ、明らかに新田開発が下降線をたどることがよくわかります。日本全国の耕地面積は十六世紀末には二百万町歩だったのが、十八世紀の初めに三百万町歩、十九世紀後半には四百万町歩にまで増えていますが、十八世紀には明らかにその増加率は落ち、この時期は耕地拡大が停滞していたことがうかがえます。
 耕地面積の増加が減ったことで、おのずと人口も減っていきます。歴史人口学の鬼頭宏氏の研究によれば、日本全体の人口は、十七世紀初めから十八世紀初めにかけて約二倍の急増を示していますが、十八世紀の前半から末には、逆に4・5パーセントの減少へ転じています(十八世紀末から十九世紀半ばには8・5パーセントの増加)。まさに現在と重なる、低成長時代の訪れといえるのではないでしょうか。それでは、低成長の時代を迎え、人びとの暮らしはどう変化していったのか。
 この時代、北陸の地で村役人・篤農家として活躍した鹿野小四郎という人物がいます。鹿野は加賀国江沼郡吉崎村(加賀市)の貧農の家に生まれましたが、大聖寺藩より大庄屋に抜擢されました。鹿野は晩年の宝永六年(1709年)に、子孫に向けて農書(農業指導書)の『農事遺書』全五巻を著しました。当時の北陸における農業の実態を伝える貴重な史料ですが、そこには「田の耕起は早くしない方がよい。とくに雪解けが遅かった年はまことによくない」といったかたちで、田の耕し方、病害虫の対処法、稲の刈り方など、自らの実験に基づく科学的な農業の心得が記されています。
 たえず年貢の増加を意図する領主に対し、当時の人びとは自らの取り分を確保するために生産量を上げる努力が求められました。鹿野小四郎は、農業には限りがないことを説き、次のように記しています。
「まさに農の益は計り知れない。物にはすべて限りがある、しかし農業は土地から物を生み出すものであり、やり方によって限りがない」(『農業遺書』)。
 十八世紀以降、人びとは農業の効率を高め、全国で多くの農書が普及していきました。さらに農民たちは農書に学ぶだけでなく、農具の改良にも力を注いでいきます。
 まさに、昭和の日本農業の特徴であり、つい最近までは“強み”とされてきた姿が、宝永の地震と津波から復興するための“知恵”と“努力”として具現化したわけだ。

 その努力の結果、単位面積あたりの生産量は増加し、十七世紀には一反あたり一石ほどだった米の収穫高が、十八世紀以降、最大で二石にまでになった。

 同じ耕地から、できるだけ多くの収穫を得ようとするための“学び”の姿勢は、相乗効果を生んでいく。

 農書の普及とともに農村に浸透していったのが「読み書き」の能力です。人びとは農書を読む力をつけるために寺子屋に通い、読み書きを学びました。江戸時代、日本人の庶民の識字率は世界でも突出したものだったことが知られています。教育の普及と識字率の上昇は、人びとの暮らしに変化をもたらしました。各地では、地域のつながりである「講」が相互扶助や自治機能を高めていきます。
 宝暦十二年(1762年)に、出羽国村山郡の村人たちが作成した「念仏契約講年代鑑」という記録帳簿が残されています。そこには、天候、作柄、市場、災害、一揆、政治、対外関係に至るまで、人びとの生活にかかわるあらゆる情報が記録され、村人の間で共有されていたことがわかっています。十八世紀以降、日本各地の農村では、情報が収集・蓄積され、共有化されることで、村の自治力が高まり、人びとの暮らしの質を充実させていく傾向が見られました。

 同じ日本人として、先人の偉大さに大いに感謝すべき歴史の事実ではないだろうか。

 著者は、この時代の江戸社会が「量的な拡大から質的な充実へ」と価値観の大転換を図り、安定して成熟社会へ向かっていった、と説明する。

 そして、今の日本のことを、どうしても思わないではならない。

 現代に置き換えると、右肩上がりの成長を続けた昭和はまさに「元禄」、その後のバブル崩壊後の平成の低成長時代が「宝永」に当たると言えるのではないでしょうか。宝永以後、江戸時代の人びとは与えられた資源のなかで身の丈にあった豊かさを見出していく努力を続けました。そうした思考の転換を図った徳川社会に、昭和元禄をへて平成宝永を生きる現代人が学ぶことはたくさんある、と私は思うのです。

 まったく同感だ。

 バブル崩壊後、低成長時代と言う言葉が氾濫したものの、現代の日本人はその意味することを、江戸時代の人々のように理解しているのだろうか。
 そして、価値観を転換すべき時に、いったい何をしてきたのだろうか。

 転換すべき契機は、もちろん、3.11だ。

 まさに、喉元過ぎれば、という国民性の通りに、平成の日本人はこの六年間を過ごしてきたのではなかろうか。

 今では、NHKのニュースの中のコーナーなども含め、不要不急な製品の紹介が氾濫している。
 アベノミクスなどというまやかしの言葉を担いで、低成長時代は終わった、とばかりのメディアによる情報発信が続いている。

 違うのだ。
 低成長でいいのだ。それは、量から質への転換の契機であり、学ぶ社会への回帰にもなるはずなのだ。

 3.11以後、いったんは取戻すかと思えた宝永後の江戸の人びとのような真摯な姿勢、相互扶助の精神は、どこに行ったのか。

 “身の丈に合った豊かさ” 

 “量的拡大から質的充実へ” 

 こういった言葉を、江戸時代の先人たちから、あらためて学ぶことが大事なのだろう。
 一つ前の記事で、嘉永五年(1853年)の「親父之小言」について書いたが、平成の日本人は、もっともっと、江戸時代、そして歴史に学ぶ必要があると痛感する。

 江戸時代をもろ手を挙げて礼賛しようとは思わない。
 しかし、「歴史は繰り返す」ことを思うと、せっかく先人たちが残してくれた知恵や営みを見逃すことは、実にもったいないことだと思う。

 そういう意味で、学ぶべきものが江戸時代に多い、ということだろう。

 現代の物質文明との対比で江戸時代は自然と共生した社会、と形容されるが、実は、本書でも指摘されているように、この宝永地震以降、自然との共生社会(エコ社会)、学びと助け合いの社会が醸成されていく。


 歴代の復興大臣に失言が多いのは、本人の適性に問題があるのはもちろんだが、政府が復興を真剣に考えていないこと、復興相という役割を軽視していることの証だろう。

 他の無駄な予算をなんとか回してもらってでも、たとえば、自主避難者の方への支援策を考えるべきなのが、復興大臣の仕事ではないのか。

 地震と津波で、もはや耕地の拡大が見込めない状況下、与えられた狭い耕地から、いかに多くの米を収穫し、国には年貢という税金を支払った上で、自分たち家族が飢えないようにするにはどうすべきかを真剣に学び努力した江戸の先人たちの爪の垢を煎じて飲ませたい人が、永田町には大勢いる。

Commented by saheizi-inokori at 2017-04-20 09:34
爪の垢を飲んでも効き目はなさそうです。
倒すのみ!
Commented by kogotokoubei at 2017-04-20 12:48
>佐平次さんへ

そうですね。
馬鹿に効く薬はない、か。
この本、150ページほどなのですが、他に天明の大飢饉、島原の乱などを取り上げて、江戸時代の人びとの知恵や努力を興味深く説明しており、量よりも質、の好著です。
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by kogotokoubei | 2017-04-19 22:21 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Trackback | Comments(2)

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