いろいろ共感できる、高田文夫の少年“笑芸”時代-「誰にも書けなかった『笑芸論』」より。
2017年 03月 27日

高田文夫著「誰も書けなかった『笑芸論』」(講談社文庫)
先に、古今亭志ん朝の部分をつい記事にしたが、この本、初版は2015年の講談社からの単行本。
私は加筆・修正されて3月15日初版の文庫で、初めて読んだ次第。
目次を、あらためてご紹介。
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開口一番
第一章 体験的「笑芸」六十年史
はじめに
森繁久彌
三木のり平
青島幸男
渥美 清
林家三平
永 六輔
古今亭志ん朝
森田芳光
立川談志
三波伸介
景山民夫
大瀧詠一
坂本 九
番外編
脱線トリオ
ハナ肇とクレージーキャッツ
コント55号
ザ・ドリフターズ
第二章 ビートたけし誕生
第三章 自伝的「東京笑芸論」
秘蔵フォトアルバム
はみ出しフォトアルバム
文庫版の為のあとがき
解説ー高田文夫になれなかった 宮藤官九郎
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「第三章 自伝的『東京笑芸論』について、「開口一番」で次のように説明されている。
一冊の本にするには「小説現代」の連載分だけでは物足らず、この度、この“第三章”はなんと2015年の正月休みに一気に書く下ろしました。私の書き下ろしは珍しいです。
この描き下ろしの第三章、年齢も違えば生まれ育ちも違う私なのだが、妙に同じような少年時代の体験をしていていることが分かり、共感できる部分が多い。
たとえば、“一日幼稚園体験”。
ちなみに高田は渋谷で生まれ、五歳で千歳船橋に引っ越している。
幼稚園へは一日だけ行ったが、いじめられて泣いて帰ってきた姿を見て、母親が、「そんな嫌な奴が居る処へか行く事ァない。幼稚園なんか行かなくたって人生大丈夫だよ」
そのひと言で呑気に過ごした。我々の世代、幼稚園行ってない人も多かったような気がする。
実は私も、幼稚園は一日しか行かなかった。
隣町の幼稚園で、その近くに住むお金持ちの家の子どもが偉そうにして、たとえば、砂場で遊ぼうとしたら、「そこは、俺の場所だ」とかなんとか言って、遊ばせてくれなかった。
隣町なので、いつも泥だらけで一緒に遊んでいた仲間もいなかった。
そして、幼稚園には私の時代も、誰もが通っていたわけでもない。
その日、高田のように泣いて帰ったわけではないが、翌日いったん行く素振りを見せて家を出たものの途中で引き返してきて「行きたくない」と言ったら、「そんなに嫌なら行かなくていい」と母親が許してくれた。
それ以来、仲の良い近所の友達(悪ガキ?)達ともっぱら遊んだ。
缶蹴りにタカタカ鬼、S陣取り、チャンバラごっこ、などなど。
小学校は、そういった顔見知りの友達も周りにいて、行くのが楽しくてしょうがなかったなぁ。
私にとっても懐かしいテレビ番組の名を発見。
私の家の前では、いつも「少年ジェット」のロケをやっていて、お昼の休憩に入ると少年ジェットと敵役のブラックデビルが仲良く弁当を食べ、キャッチボールをしているのを見てショックを受けたりもした。
「本当は仲がいいんだ・・・・・・」と小さくつぶやいた。
♪行こうぜ シェーンよ
とりこになっても負けないぞ
と元気ハツラツな主題歌。オープニングで愛犬シェーンが買物カゴをくわえ買物に行く酒屋は、我が家がひいきにしていた“石井酒店”。
「少年ジェット」は、よく覚えている。
近所の仲間と「少年ジェットごっこ」でも遊んだ。
黄色いマフラーしたジェットが何人もいて、ブラックデビル役がいない。芝居噺の落語のマクラ、勘平ばかり三十六人、のようなものだ。
テレビの前に釘づけになって観たものだ。
引用部分を含め、主題歌のこうだった。
♪ 勇気だ力だ 誰にも負けないこの意気だ (ヤー)
黄色いマフラーは 正義のしるし
その名はジェット 少年ジェット
進めジェット 少年ジェット (J! E! T!)
行こうぜシェーンよ とりこになっても負けないぞ
正しく強いこの快男児
その名はジェット 少年ジェット
行こうジェット 少年ジェット (J! E! T!)
懐かしい^^
そして、野球体験。
東映フライヤーズに憧れた悪ガキ達は、少年野球チームを作る。私も、小学校入学前は、近所の空き地で三角ベース。小学校に入ってからは、二年生でその仲間たちと野球チームをつくって、憎っくき隣町のチームと試合をしたものだ。
高田少年達のチームには、すごいコーチ(?)がいた。
時々“花形のお兄ちゃん”がバットを持って現れ、我々「少年シャークス」にノックの嵐を浴びせてくれた。
このお兄ちゃんこそ誰あろう渋谷の安藤組親分・安藤昇の右腕とも呼ばれた花形敬である。
へぇ、あの花形敬だよ。
本田靖春さんが『疵』で書いた、花形だ。
私は隣町の小学校と試合を重ねたが、高田さんの相手は、あのチームだった。
花形ノックを受けた小学校の高学年、我々は渋谷は松濤の少年野球チーム“ジャニーズ”と対戦。たしか二戦して二敗している。もうあの頃から何をやってもジャニーズには負けていたのである。
少年野球で対戦した一、二年後、テレビをつけると彼らは歌っていた。
そう、あおい輝彦やら飯野おさみでおなじみの四人組、元祖ジャニーズである。
そうなのだ。ジャニーズは、元々少年野球チームの名前。
さて、高田少年は、野球だけではなく、幅広く活躍していた。
小学校も三年生くらいになると各学期末に学芸会というか、お楽しみ会の様なものが催された。私は気の合う五人程を集め、口立てで演出をし、一週間位前から毎回毎回稽古にはげんだ。私がリーダーでスリッパの様なものを持ち、これでひっぱたくつっ込みである、一座にアクト講座をするのである。多分、テレビで見たばかりの三木のり平&八波むと志、そして脱線トリオの影響をモロにうけたいたと思う。
一学期の学芸会、二学期の学芸会、三学期の学芸会と私の作・演出・座長のコント劇団はもの凄い人気となっていき、四年になっても五年になってもこの一座が名物となっていった。
なるほど、すでに放送作家としての片鱗が小学生であった、ということか。
私も、学芸会やお楽しみ会で「笑芸」を披露したが、さすがにコント一座までを主宰するには至らず、漫才(てんや・わんや、Wけんじなどの真似)か、一人でべニア板をウクレレに見立て牧伸二の真似をするにとどまっていた。
とはいえ、中学で卒業生を送る予餞会では、作・演出・座長を務めたので、高田少年の“笑芸”自伝には、他人とは思えない近さを感じてならない。
“山の手”育ちの高田の寄席初体験は、小学四年生の時、寄席通の友人が、三平を見せてやる、と連れて行ってくれた、新宿末広亭。
第一章の林家三平のページで明かされていることなのだが、第三章でも、こう書いている。
馬の助(早逝)や小さんも出演していた。“山の手小僧”にとって寄席とは上野鈴本でも、浅草演芸ホールでもなく、新宿末広亭なのである。あの建物自体が昔の大人のにおいがして、なんとも魅力的であった。“悪所”の感じもたまらなかった。近所のパチオンコ屋からは守屋浩の「僕は泣いちっち」やら、村田英雄の「人生劇場」が流れていた。
この感覚も、十分に共有できる。
池袋の狭い空間も嫌いではないが、私にとって“寄席”としてしっくりくるのは、都内四席の中で、間違いなく末広亭である。
読んでいるうちに、なぜ私も放送作家にならなかったのか、なんて不思議な思いにかられていた。
お笑いが好きだった高田文雄(本名)少年時代と、いくつか自分の少年時代が重なり、何度も「そうそう!」なんて相槌を打ちながら読んでいた。
読了し、なかなか心地よい読後感を味わっている。
第一章、第二章での個々の芸人さんの高田文夫の思い出や懐かしい写真を含め、私にとっては楽しい書だった。
もちろん、落語を含む「笑芸」がお好きな方には、お奨めの本と言えるだろう。
この本からは今後も何度か紹介しようと思っている。
