『死神』の、ハッピーエンドなサゲー加太こうじ著『落語ー大衆芸術への招待ー』より。
2017年 02月 11日
前の記事で書いたようの、加太こうじさんの『落語ー大衆芸術への招待ー』では、『一眼国』の後に、『死神』が登場する。
最初の部分から、あらためて引用するが、あの噺で初めて知るサゲに、実に驚くのだ。
体制と反体制
道徳というものは、その時代の価値基準の大きな目もりである。支配者はつねに支配者の道徳を作り出して、支配される者に押しつける。支配される側も自分たちの道徳を持ち、その立場から支配者の道徳を批判する。支配者の道徳と支配される者の道徳が一致する場合もあるが、多くは相反するものである。落語はいつも、支配される側ー民衆の立場に立っていたから支配者の道徳を批判する話が多い。ここでは、直接、支配者の道徳に対して別の道徳を提示した落語について考察してみよう。
「死神」という落語は、同内容のものがグリム童話集にある。また、「死神」は明治時代に、イタリアのオペラから改作したものだといわれている。いずれにしてもヨーロッパの民話が落語「死神」の原典であることにまちがいはない。
珍八という幇間は陰気でひねくれた男だった。あるとき、死神が
あらわれて「お前のような男が好きだ、仲良くしよう」という。
珍八は死神から人の生死の秘密をきいた。それは、病人の枕元
に死神が坐っていれば病人は死に、足の方に坐っていれば、
その病人は助かるということであった。
(中 略)
居ねむりからさめた死神は自分が足の方にいたので、病人を
助けてしまう。珍八は莫大な礼金をもらったが、あとで死神は
珍八の計略を知って怒った。珍八を地獄へつれていった死神は、
地獄のおそろしいようすを見せる。珍八は人間の寿命の灯を見て、
消えかかっているのやパッと明るいのがあるのを知った。珍八は
死神が油断しているすきに、どれもこれも長生きするように、みんな、
燈芯をかき立てて明るくしてこの世へ帰ってきた。
今日演じられる「死神」では、一度ももお目にかかったことのない、ハッピーエンドなサゲ。
この後に、加太さんは、こう続ける。
「死神」という話は<人間を支配しているものは人間の力の及ばぬところにある>という考えをみごとにひっくり返して<人間を支配するものは人間である。その知恵と勇気によってこの世の中の主人公になるのだ>と主張している。すなわち、神とか、強力な力を持つ支配者の支配に抗して、弱者とされている者の力を人間尊重の立場から誇示しているのである。<人間の生きる喜びを尊重しない者は、いかなる絶対的な権力者といえども、だましても、反抗してもかまわない>と、落語「死神」は語っている。
悩ましいのは、円朝の原作は、こんなハッピーエンドなものではないということだ。
加太さんは、紹介した内容の「死神」が、どの噺家のものなのか書いていないが、“鼻の円遊”こと初代三遊亭円遊だろう。
「誉れの幇間(たいこ)」、または「全快」と題し、ろうそくの灯を全部ともして引き上げるというハッピーエンドに変えていたらしい。
元となったと言われるイタリアのオペラ「クリスピーノと死神」が、ハッピーエンドらしいので、先祖がえりと言えないこともない。
サゲについて、この噺ほど噺家による工夫を求めるネタもないだろう。
加太さんは、円遊版を元に、支配者に抗する人間の知恵、という視点でこの落語を評しているが、まさにサゲには知恵を絞る噺家さんが多いだろう。
蝋燭の灯が、どうやって消えるかで工夫をする噺家さんが多い中、いっそ円遊のように、窮地を脱して生き延びる物語にする人がいても、それもまた結構ではなかろうか。
もちろん、通常のサゲでも、この噺が聴く者に与える深い味わいは残る。
しかし、それは権力者に抗する人間の知恵の素晴らしさと言うより、その知恵の使い方をめぐる道徳的な戒めになるかもしれない。
そのうち、円遊版に負けない、ハッピーエンド版の「死神」に出会ってみたいものだ。