立花家橘之助、「浮世節家元」看板の変遷ー橘右近著『落語裏ばなし』より。
2017年 01月 07日
2016年11月24日のブログ
その初代橘之助をモデルにした榎本滋民さんの芝居『たぬき』を山田五十鈴が演じ、古今亭志ん朝も出演していたことなどは、山田五十鈴の訃報を知った後に記事にしていた。
2012年7月11日のブログ
あの記事では、いくつかの本から引用することで、橘之助という稀代の芸人についても振り返った。
その橘之助について、別な本からも紹介しようと思う。

その本は、明治36年生まれで、今日につながる寄席文字、橘流初代家元橘右近の『落語裏ばなし』。
何気なくめくっていて、橘之助という名跡について、私にとっての大発見があったのである。
本書の副題は「寄席文字にかけた六十年」。
実業之日本社から昭和50年に初版発行。
著者の右近は庭師の家に生まれたが、最初噺家になろうとして三代目柳家つばめに入門。戦後は寄席文字一筋。
落語家時代から寄席にまつわる物を数多く収集した。
そして、『ビラ辰』などのビラ字を教えを乞う師匠がいない状態から見よう見まねで書き始め、自身のスタイルを確立した人だ。
弟子の左近に、昔の名人が書いたビラ字を見てきた古い噺家(例えば五代目柳亭左楽)や席亭(例えば末広亭の北村銀次郎)がいたので真剣だった、と語っている。
その右近の経験や知識を元にしたこの本は、帯には永六輔さん、本書冒頭に円生の推薦こ言葉が並んでいる。
本書にも「初代 立花家橘之助」に一つの章を設けているので引用したい。
五歳で上野池の端・吹抜亭で初舞台、八歳の春には大師匠円朝から真打昇進の許しを得て清元から義太夫、何でも弾きこなす腕前に、明治四十五年六月二十八午後四時、ときの東京府知事阿部浩殿より浮世節家元の名前を許可された師匠の芸歴。
この部分の前には、浮世節「たぬき」の科白も紹介されている。
「それでは、お賑やかにたぬきとまいりましょう。
夫(そ)れ伝へ聞く茂林寺の 文福茶釜のその由来
怪しくもか亦面白き 昔々その昔
婆喰った爺の狸汁 えんの下谷の骨までも
広尾の原の狸蕎麦 のびた鼻毛の・・・・・・」
そうか、小円歌姐さん、「たぬき」のネタ持っていたなぁ。
きっと橘之助への憧れがあったのかもしれない、などと読みながら思っていた。
そして、読み進むうちに、橘之助という名前を小円歌が継ぐことにつながる、その背景を窺い知るような内容があった。
集古庵初代を名のっていた私の友だち、横浜の志ん馬さんは、橘之助師匠の愛人でございます。
前座でも、二ツ目でもいい男をひきたてる、これが師匠の道楽というよりは生きがいみたいなところがございました。
志ん馬さんの家は、妻君が待合をやっておりましたが。橘之助師匠用の部屋がとってあったぐらいで、女房公認の仲でさァ。志ん馬さんが亡くなって後、このおかみさんに私は橘之助師匠の愛用品ともども、浮世節家元の看板を託されました。
「右近さんが預かっておいて、適当なかたがいたらばゆずってあげてくださいな」
そういわれて預かった看板、どうも気になっていけません。私は看板を柳家三亀松師匠のお弟子、亀松さんに、わたしてお願いしましたョ。
「弾きがたりをやる亀松さんが持っていて、これはというひとにわたしておくれ」と。
おや、ということは、今回の二代目橘之助襲名には、志ん馬->右近->亀松と伝わった浮世節家元の看板が実を結んだ、ということなのだろう。
亀松はその後二代目三亀松を襲名しているが、故人。
きっと、その二代目三亀松から、浮世節家元の看板が途切れずに誰かに渡された、と察する。
その誰かが、小円歌が「これはというひと」と認めた、ということか。
以前の記事で書いたように、橘之助という名跡の復活は、大歓迎である。
その背後には、芸人さん達の、箱根駅伝にも勝る、名跡の看板をタスキとしたリレーが存在したわけだ。
二代目橘之助襲名に伴い、浮世節家元の看板を横浜の志ん馬のおかみさんから預かり、三亀松の弟子亀松に受け渡してくれた橘右近という寄席文字の名人のことが振り返られることにつながるのなら、それもまた結構なことだろう。
