森銑三著『明治人物閑話』から、初代談洲楼燕枝のこと(1)
2016年 12月 13日

森銑三著『明治人物閑話』(中公文庫)
初代燕枝のことを語る上で、肝腎な本を見逃していた。
森銑三著の『明治人物閑話』である。
この本は三遊亭円朝も取り上げているが、初代燕枝も忘れてはいなかった。
私が読んでいるのは平成19(2007)年発行の中公文庫の改版。文庫初版は昭和63(1988)年の発行、単行本は昭和57(1982)年に発行されている。
ちなみに、この改版では内田樹が解説を書いている。
「談洲楼燕枝の文才」の冒頭部分から引用する。
明治の落語界は、三遊、柳の二派が対立の形を取ってうた。そして三遊派の円朝に対して、柳派には燕枝があって、よく円朝に拮抗した。ところがその没後七十年余年を経た今日になってみると、円朝一人が云々せられて、燕枝の方は一般からは忘れられ、そんな落語家もあったのかというくらいになってしまっている。
この文章は、昭和50(1975)年の「歴史と人物」5月号・6月号に「談洲楼燕枝」の題で掲載されたものだが、40年後の今も、円朝に比べて燕枝はほとんど忘れられ、せいぜい“そんな落語家もあったのかというぐらい”であるという状況には変わりがないだろう。
次に、燕枝の生い立ちなど。
燕枝は天保九年十月十六日に、小石川表町の伝通院前に酒商を営む長島清助の子として生れた。円朝よりは二歳の兄になる。幼名伝之助、長じて伝二郎といった。落語で立とうと決意したのは十九の歳で、初代春風亭柳枝の弟子となって、初め伝枝といった。通称の伝の一字を取ったのである。数年にして柳亭燕枝と改名し、二十五歳で真打となり、かような若さで真打となったのは珍しいと評判せられたようである。師匠の柳枝も人情噺の名人と呼ばれた人で、燕枝はよい師に就いたわけであるが、柳枝は明治元年に歿したところから、以後は燕枝が柳派の牛耳を執ることとなり、多くの弟子達をも養い、円朝の一門で固めた三遊派と、落語界を二分した形で、芸人の社会に大きな勢力を持った。生まれ年は、たぶん、天保8(1837)年の誤りかと思う。
本書は、著者が過去の新聞を丹念に読むことなどで書かれているのだが、確認した新聞に誤認があったのだろうか。改版の改訂版で修正されているのかどうかは、未確認。
師匠の初代柳枝は、文化10(1813)年生まれなので、燕枝とは干支で二回り上になる。
燕枝の才能は、単に落語に限ったものではないことなどが記されている。
燕枝自身もまた人情噺、芝居噺をよくしたのであるが、兼ねて文筆の才があり、仮名書垣魯文の門に入って、あら垣痴文の名を貰っていた。それで一二の紀行文などもあることが知らされているが、それらは私はまだ見ていない。
燕枝は文芸の嗜みのあったところから、多くの文人墨客達の知を得ていたが、さらにまた芝居好きとして知られた。その方面にも顔が売れていて、三升会の取締などをもして、団十郎一門の俳優達からも重んぜられていた。
以前、代々の団十郎のことについて記事を書いたことがあるが、初代から十二代目までの生存期間は、次のようになっている。
十二代目が亡くなった後、“成田屋は短命”、とか、ケネディ家のように呪われている、などと書かれた記事に接して疑問に思い書いた記事だった。
2013年2月4日のブログ
各代の生年と没年、( )内は亡くなった時の満年齢。
初代 1660--1704(44)
二代目 1688-------1758(70)
三代目* 1721-1742(21)
四代目* 1711-------1778(67)
五代目 1741---------1806(65)
六代目 1778-1799(21)
七代目 1791------------1859(68)
八代目 1823--1854(31)
九代目 1838-----------1903(65)
十代目* 1882-------------1956(74)
十一代目* (56)1909--------1965
十二代目 (67)1946------------2013
「*」は、先代から血のつながりのない養子。
初代燕枝が贔屓にした団十郎は九代目。年が一つ違い。
芝居好きの燕枝は、明治14年の暮れ、春木座で、講釈師、落語家連中による年忘れの素人芝居、今でいう“鹿芝居”を行った際に団柳楼の名で団十郎張りの曽我五郎を演じ、「白浪五人男」では日本駄右衛門に扮して評判を取ったようだ。
つい、嬉しくなった燕枝は、その後も何度も舞台に上がっている。
とにかく、芝居が好き、そして、団十郎が好きなのである。
燕枝は、歌舞伎役者の内でも、団十郎を最も重んじ、その人に傾倒すること、むしろ崇拝というに近かった。それで江戸時代に烏亭焉馬が市川贔屓で、自らを談洲楼と号したのが羨ましくて、明治十八年に、その号を襲うて、自分も談洲楼と名のり、「暫」のつらねに倣って、「身が楽のつばめ」という戯文の一篇を書いたのを版にして、知人に配った。「つばめ」は燕枝の「燕」で、自分をいうのである。そして江東の中村楼で披露の宴を張った。そうしたことから、なおゆくゆくは、烏亭焉馬の名を襲ぎたいつもりでいたのだったが、そのこをは果たせぬ内に、あの世へ旅立ってしまった。
烏亭焉馬は、落語愛好家の方ならご存じかと思う。
彼が贔屓にしていたのは五代目だ。焉馬は、六代目団十郎に先立たれた五代目団十郎の没後は、まだ幼かった七代目団十郎の後見役を引き受けている。
燕枝が贔屓にした九代目は「劇聖」と言われた人だが、燕枝の団十郎贔屓は、落語中興の祖と言える、烏亭焉馬への追慕の念にもつながっていた。
次に、燕枝晩年の逸話など。
明治三十二年九月、燕枝は動脈瘤という、厄介な病に冒された。それでも押してあちこちの席に出ていたところが、三十三年の一月、人形町の末広亭で口演最中に気分を悪くし、急いで本所区南二葉町の自宅に帰ったが、そのまま病床に呻吟する身となった。燕枝自身も覚悟するところがあったのであろう。
動脈瘤に罹りて
動くもの終りはありて瘤柳
と口ずさんだのが、ついに辞世の句となった。「動」「瘤」の二字に「動脈瘤」を現し、「柳亭」の「柳」の字まで取入れている。
この部分を読んで、「あっ!?」と思った。
六年前に初代燕枝のことを書いた記事で、関山和夫著『落語名人伝』から、次の円朝と燕枝の辞世の句に関する文章を引用していた。
関山和夫『落語名人伝』
三遊亭円朝の辞世の句「目を閉じて聞き定めけり露の音」には仏教的な“悟り”が感じられて感銘深いものがあるが、談洲楼燕枝が残した「動くもの終りはありてこぶ柳」には悲痛な感じがただよっている。
関山さんは、燕枝の辞世の句について、“悲痛な感じ”と評された。
しかし、森銑三さんが指摘するように、彼の辞世には、自分の病でさえ茶化してしまう遊び心をこそ見い出すべきなのかもしれない。
引用を続ける。
そして同年二月十一日の午前三時というに、息を引取った。享年六十三歳、中二日置いた十四日に、浅草清草町の源空寺に葬られた。楽しい、また、いい話だなぁ。
その源氏空寺は、幡随院長兵衛の墓があるので知られている寺であるが、その長兵衛とのことについて一話がある。
燕枝は歿する前年の明治三十二年に、自ら祭主となって、長兵衛の二百五十年忌の法要を、源空寺に営んだのであるが、知人に寄附を仰ごうと、尾上菊五郎を訪うたら、菊五郎は気乗りしない様子で、長兵衛の法事なら、親玉が一人で背負って立つのが当り前だろう、という。親玉は、いうまでももなく団十郎である。その時燕枝は透かさずにいった。親方、そうはいわせませんよ。お前さんだって、白井権八の時には、長兵衛の家へ転がり込んで、厄介になっていた。その義理もあるじゃありませんか。
菊五郎思わず噴出した。そういわれちゃ叶わねえ。それじゃ寄附につきあいましょう。そういって、いわれるままに、百円の金を投げ出した。
燕枝は、さような奇才をはたらかせることのできる人だった。
この菊五郎は五代目。九代目市川団十郎、初代市川左団次とともに、いわゆる「団菊左」の黄金時代を築いた人だ。
相手が年下とはいえ、大看板の音羽屋に向かって、「鈴ヶ森」の白井権八を持ち出し幡随院長兵衛の法要の寄附を出させるなんて、芝居が好きで、自分自身でも演じていた燕枝ならでは、と言えるだろう。
引用を続ける。
燕枝は晩年には、渋好みとなって、質素な生活をしていたが、若い頃にはそうではなかった。万事に派手で、ことに真打となってからは、仲間の附き合その他に、金を出すことを惜しまなかった。それには円朝も驚いて、よくもあのように金を蒔かれるものだ、といったという。それで燕枝も後には、近頃の芸人のように、己れ一人が勝手なことをして、人の上を顧みないのはみっともないなと、嘆ずるのだったそうである。
以上の略歴と逸事とは、大体を明治三十三年二月十三日の「東京朝日新聞」の記事に拠ったのであるが、この明治三十三年は、落語界の厄年だったといっていい。燕枝と並び立っていた円朝も、燕枝よりも僅か六箇月後れで、八月十一日に歿している。
明治三十三年、西暦1900年は、たしかに落語界にとって厄年だったかもしれない。
なお、六代目円生は、その年の九月三日に生まれた。
著者森銑三は、この後に続く第二章冒頭で“右の記事を得た「東京朝日新聞」からは、私は今一つ拾いものをしている”と記している。
その“拾いもの”を含めて、本書からもう一度初代燕枝について紹介するとして、今回はこれにてお開き。
知れば知るほど、円朝の十分の一でもいいから話題になって欲しいと思うのが、初代燕枝だ。
思いだすのではなく初読という感じです。
森銑三さんの本、文庫でのみ三冊ほど読んでいますが、六年前に燕枝について記事を書く時には、まったく忘れていました。
あらためてめくってみて、私も初めて読む印象だったのですよ。
それって、得した気分でもありますよね^^
