『文七元結』に見る、落語の伝承と創作。
2016年 12月 01日
私は、広島の監督が、単に「神がかってる」を言い間違えてしまったのだろうと思っているのだが・・・・・・。
今回は、言葉も時代によって変わるが、落語も、時代や噺家さんによって違う、というお話。

今村信雄 『落語の世界』
三遊亭小円歌が二代目立花家橘之助を襲名するというニュースを目にしてから、あらためて今村信雄の『落語の世界』(平凡社ライブラリー、初版は青蛙房から昭和31年発行)を読み返していた。
本書で、初代橘之助に可愛がられた三代目三遊亭円馬のことに関する章に、今ではお目にかかることのない『文七元結』の演出があるのに気づいた。
以前も読んでいるはずなのだが、まったく忘れていたなぁ。
「むらく芸談」の章から引用する。
昭和五年の六月、数年振りで上京したむらく改め三代目円馬が、当時神田の立花亭でやっていた第二次落語研究会の第二十六回に出演した。-かつてむらく時代に出ていた時とは内容は違っていても落語研究会という名は、なつかしいものだったし、会員の連中も文治、円生、小さん、文楽、円蔵、小円朝など昔なじみの者ばかりだ。それに自分の芸を慕って旅を一緒にまでした金馬が、今日は自分の出番を譲ってくれたと聞いた。何もかも嬉しいことだらけー。これから年に一回はぜひ出てほしいとみんなが云うし、円馬自身も東京に来る度に出たいといっていたのだが、縁がなく、第二次の研究会出演はついにその時だけで終った。
文中の文治は八代目、俗に山路の文治のこと。円生は五代目、小さんは四代目、文楽は八代目だ。円蔵は六代目で後の六代目円生であり、小円朝は三代目である。
金馬は、もちろん三代目。
円馬は、最初に上京した時に初代三遊亭円左に師事して立花家左近を名乗り、第一次落語研究会の準幹部に抜擢された。
上方の噺を東京向きに演じ、三代目小さんとともに、東京落語のネタを飛躍的に増やした功績は小さくない。
大阪弁、京都弁、江戸弁を見事に使い分けた唯一の噺家とも言われている。
引用を続ける。
現在金馬がやっているはなしは、すべて円馬から教えられたものばかりだ。「唐茄子屋」にしても「佃祭」にしても「孝行糖」にしても、その他数々の落語は、みんな一緒に旅をしている間に円馬から教えられたものだ。一席の落語ばかりではない。はなしのイキとかコツとかいうものを教えてもらった。それが今日の金馬を作り上げてくれたのだ。金馬はこういっている。「私はね、酒が飲めるおかげでずいぶん得をした。酒の強かったむらく師匠のお相手をするのは大概私でしたが、飲みながら話してくれた芸談は、改まって教えてくれる時とはまた違って、大変に薬になりました。師匠は芸が好きだったんだなァ、飲みながら話をするのはたいてい芸談だった。もっとも私の方からそのように持ちかけたせいもあるが、面倒がらずに喜んで話をしてくれました」
「文七元結」というはなし、左官の長兵衛が、バクチで着物も何もなくしてしまい、年の瀬をこせない。
(中略)
女の着物だから身幅が狭く、ややともすると膝小僧が出るから、絶えずそれを気にしていなければいけない。また佐野槌のおかみさんに懇々と意見をされて、恐縮しながら、新しい畳のケバを骨を折ってむしって叱られるところがあるが、これは単なるクスグリと思ってはいけない。帰る時に長兵衛はシビレが切れて立てない。そこで前にむしった畳のケバの落ちているのを拾って唾をつけて額にはるという大きなクスグリの伏線になっている。また帰りの吾妻橋の上で空を見上げて思わず「明日は雨だな」というのは、始終天気を気にしている職人を現すために必要なセリフだから落してはいけない。空に水気(すいき)があるから、下のあかりが映って赤い。まして吉原方面は真っ赤だ。それを見て長兵衛が今別れて来た娘のことを連想するという段どりになるのだから、ここらは一言一句おろそかには出来ないと、円馬は丹念に教えた。
足のシビレを治すのに、指に唾をつけて額(眉間)にあてたり足の裏にあてるというおまじない(?)は、もはや過去のものとなりつつあるので、このクスグリはなくなってきたのだろう。
また、吾妻橋で長兵衛が空を見上げる演出も、現役の噺家さんで出会うことは稀有だ。
『文七元結』は、以前からあった噺を円朝が磨き上げたと言われる。
果たして円馬が重要視した演出は円朝からの継承なのかどうか気になり、青空文庫で円朝のこの噺を確認した。
青空文庫 三遊亭円朝「文七元結」
実は、畳のケバをむしって、足がシビレたまじないにつながるという演出は、存在しない。
吾妻橋で、空も見上げない。
もっと、驚いたことがあったので、引用する。
角海老の内儀と長兵衛との会話部分だ。
内儀「百両で宜いのかえ」
長「へえ…」
内儀「それではお前に百両のお金を上げるが、それというのも此の娘の親孝行に免じて上げるのだよ、お前持って往って又うっかり使ってしまっては往けないよ、今度のお金ばかりは一生懸命にお前が持って往くんだよ、よ、いゝかえ、此の娘の事だから私も店へは出し度たくもない、というは又悪い病でも受けて、床にでも着かれると可哀そうだから、斯う云う真実の娘ゆえ、私の塩梅の悪い時に手許へ置いて、看病がさせ度いが、私の手許へ置くと思うと、お前に油断が出るといけないから、精出して稼いで、この娘を請出しに来るが宜いよ」
長「へえ私(わっち)も一生懸命になって稼ぎやすが、何うぞ一年か二年と思って下せえまし」
内儀「それでは二年経って身請に来ないと、お気の毒だが店へ出すよ、店へ出して悪い病でも出ると、お前この娘の罰は当らないでも神様の罰が当るよ」
あら、円朝においては、長兵衛が借りるのは百両で、その返済期限は二年。
今日演じられるこの噺では、大半が五十両で一年。
円馬のこの噺が円朝->円左->円馬と伝わったのかどうかは、不勉強で分からない。
だから、畳のケバ、空を見上げる、といった演出が円馬によるものなのかどうかは不明なのだが、私は、どちらも円馬の工夫ではないかと思っている。
それにしても思うのは、なるほど、落語は生きているなぁ、ということ。
同じ噺でも、その時代によって、そして、噺家さんによっても内容は変わる。
それは、悪いことではないだろう。
円馬が、左官職人の長兵衛が吾妻橋でつい空を見上げる場面を大事にするように、人それぞれ、譲れない演出やクスグリがあって良いだろう。
また、その噺のどこを変えるか、また、どこを変えないか、ということで噺家は自問自答を繰り返すのかもしれない。
その噺の本質的な部分を壊さない限り、同じネタでも十人十色で良いだろうし、それが、落語の魅力でもある。
大事なことは、伝承されてきた原典を分かった上での工夫なのか、どうか。
「昔は、こう演じていた」ということを分かった上での改作なのか、原典を知らずに自由気ままな変更なのか、には大きな違いがあるだろう。
自分の師匠はもちろん多くの先輩噺家からネタを教わり、芸にまつわる様々な話を聞くことが、噺家の糧、財産となる。
そして、一人一人が得た財産が、その弟子や後輩たちに伝わっていくことで、落語という芸が長らえてきたと思う。
それこそが、伝統の継承ということだ。
だから、金馬が酒の相手をしながら聞いていた円馬の芸談が、金馬がその後一枚看板になるためには、実に重要だったのだと思う。
まさに、伝承の芸、落語。
しかし、伝承されてきた基本の筋、型、了見といったものに、どのように時代の空気を反映し、自分なりの解釈や感性で創作をほどこすかが、噺家一人一人に重要な仕事なのだろう。
伝承と創作、その積み重ねが、数々の古典落語の名作を残してくれたのだと、一つの噺からも痛感するのだった。
「空に水気があるから、下のあかりが映って赤い。まして吉原方面は真っ赤だ。それを見て長兵衛が今別れて来た娘のことを連想するという段どり」も、この後の文七とのヤリトリをより効果的にするはずです。
この演出は誰か再現して欲しいですね。
私も同感です。
伝承すべき基本とは言えないかもしれませんが、誰かに生かしてもらいたい円馬ならではの演出、と言うことはできると思います。
生きている落語、という表現を踏まえ、再生される落語、として誰かが演じるのを期待したいですね。
