東雲寺寄席 さん喬・新治二人会 成瀬・東雲寺 11月6日
2016年 11月 07日
通算で八回目になるとのこと。
新治のホームページから予約を申し込み、メールの返信で予約受付とサイトの管理人の方からご連絡いただいていたのでが、その後、なんと師匠自ら私の携帯にお電話で「お席は間違いなくご用意しています」と丁重なご連絡をいただき、恐縮した。
つい、予約のメールで、このブログの管理人であると書いてしまったのだった。
新治師匠からは、関東の落語愛好家ということで、ある質問があったのだが、内容は秘密^^
ここからは、いつものように、「師匠」の敬称を省いて書かせていただく。
前回は、さん喬の『天狗裁き』の印象が強い。
三年前の記事に、このお寺のことや、この会の第一回目に出演予定だった立川文都が残念ながら開催直前に亡くなったことについての新治の言葉なども紹介しているので、ご興味のある方はご参照のほどを。
2013年11月04日のブログ
三年前は、大学の同期会から帰ってからの参加だったが、今年は同期会が翌週になったことと、何と言っても、毎週日曜日のテニスの場所が二年前から変わり、この東雲寺のすぐ近くになった。
だからテニスの後でも間に合うのだった。
東雲寺の概要を、ホームページからご紹介。
東雲寺のホームページ
東雲寺の概要結構、歴史のあるお寺なのだよ。
曹洞宗東雲寺は、『新編武蔵風土紀稿』(しんぺんむさしふどきこう)によれば「字奈良谷あり。寺領六石三斗の御朱印を賜りしは慶安元年(1648)7月7日なり。(中略)その地を領せしはそれよりも先なることしるべし。
曹洞宗にて小机村(横浜市港北区)雲松院(うんしょういん)末寺なり。
龍谷山 成就院(りゅうこくざん じょうじゅいん)と号す。開祖僧・龍谷(性孫)は天文5年(1536)5月27日に寂せり。
その頃は今の境内の向かいの地にありしが、明眼(明岩)宗珠(みょうがんそうしゅ)、当寺に在住のとき今の地に移りしとなり。よりて宗珠を開山とせり。この僧は寛永8年(1631)正月5日寂す。本堂は八間半に七間、西向なり。本尊は華厳の釈迦、木の坐像にして、長一尺ばかり」とあり、開創年不詳ながら、1500年代の初めには、東雲寺の前身・龍谷山成就院が現在の南成瀬三丁目の城山公園近くにあったようです。
また、現在地には1631年示寂の明岩宗珠さまが住職の折に移転したとのことであり、以来、正伝の仏法・禅の教えを説き弘め、成瀬の人びとをはじめ多くの方々にご支援をいただいて、約四百年にわたり法灯を護ってまいりました。
場所は、JR横浜線の町田と長津田の間の駅、成瀬から徒歩で15分ほど。
昨日の会の様子は、すでに東雲寺さんのブログに写真付き紹介されているので、ご参照のほどを。
東雲寺のブログ
テニスの後にクラブハウスで仲間と談笑した後にお寺に向かい、開場時刻の一時を少し回ったところで到着したが、すでに多くの方がいらっしゃっていた。
私はテニスで走り過ぎたせいか腰がややつらかったので、後方の背もたれのあるパイプ椅子に席を確保。
ほぼ満席という感じで、二百名は超えていたのではなかろうか。
年に一度の会を、檀家の方や地元の落語愛好家の人たちが首を長くして待っていた、そんな熱気を感じた。
一時半開演。テニスに行く時のクセで腕時計をして行かなかったので、それぞれの所要時間は記録できなかった。仲入りと終演時刻のみ、お寺の大きな柱時計で確認した。
こんな構成だった。
--------------------------------------
露の新治 『看板のピン』
柳家さん喬 『そば清』
(仲入り)
露の新治 『源平盛衰記』
岡 大介 カンカラ三線
柳家さん喬 『文七元結』
--------------------------------------
概要、感想などを記す。好高座と印象深かった内容に色をつける。
露の新治『看板のピン』(13:30~)
鮮やかな青の着物で登場。
詳しくは書かないが、マクラの頭髪の話題で会場が盛り上がる。
私にとっては、他人事ではない^^
本編は、東京落語を米朝が上方に移した、という珍しい流れを持つ噺。
東京版では、若い者を「看板のピン」でコケにする親分が、ふらっとやって来るという設定だが、上方では、金を持っていそうなご隠居を若い連中が賭場に誘い込む、となっている。
「卵の殻をケツにひっつけているようなヒヨコの分際で」と隠居が言う科白、今ではまず聞くことがないなぁ^^
時計を持っていなかったが、マクラを合せて30分位だったのではなかろうか。
柳家さん喬『そば清』
いつもながらの、季節の移り変わりについてのマクラで、「新そば」のことから自然に本編に入った。こういうマクラは、なかなか聞くことがないのが、最近の噺家さんの高座。
さん喬“寄席の十八番”の一つと言って良いだろう。清さんに賭けでやられっぱなしの連中が、「腹かっさばいたら、富士そばとでも書いているんじゃねぇのか」のクスグリで笑ったが、さん喬の好みかな。私は、ゆで太郎が好きなのだが^^
お約束の清さんの口癖「どうも~」で、いっぱいのお客さんを沸かせた高座。
たぶん、約25分だったと推測する。その時間が、二席目は大ネタか、と思わせた。
ここで仲入り。時刻は14:25だった。
露の新治『源平盛衰記』
仲入り後の二席目は、クスグリたっぷりの講釈もの地噺の高座。
三年前9月、この会のことをチラシで知った内幸町での独演会以来だ。
2013年09月10日のブログ
マクラなのか本編なのか分からない、次のような入れごとが楽しかった。
・小学生の頃、「アメリカ大陸を発見した人は( )」という問題に、
少しひねってやろうと「コロンブスの手下」と回答したら、Xだった。
・( )に「偉い」と書いた友達は、なんと半分の2点をもらった。
・不満で職員室に先生を訪ねたら、「余計なことを書くな」と怒られた。
・コロンブスが発見するより前に、インディアンが住んでいたのだから、
インディアンがコロンブスたちを発見したのではないですか!?
ちょっと、ネタをバラしすぎたかな^^
本来の源平の話では、源義朝の側室だった常盤御前の子は、阿野全成(今若)、義円(乙若)、源義経(牛若)がいて、この子たちは、平清盛に殺されることがなかったが、その理由は美しい常盤御前を清盛が妾に欲しかったから、など、歴史の勉強になったねぇ。
「牛若の 目が覚めますと 常盤言い」という艶っぽい句も挟まれた。
牛若のことから、かつての時代劇映画へと話が膨らむ。東千代之介の鞍馬天狗で盛り上がる会場だから、相当平均年齢は高い^^
後半は、扇子で膝を叩き講釈風に、弁慶と牛若丸の五条大橋から、木曽義仲と平維盛との倶利伽羅(くりから)峠の戦いを経て、那須与一の「扇の的」までをしっかり。
この後、高座の両側のビラにも書かれていたのだが、「奈良人権文化選奨」と「文化庁芸術祭優秀賞」の受賞記念として住職から花束が贈呈され、金一封(ギャラ?)も渡された。
岡大介 カンカラ三線
名前だけは知っていたが、初めてで楽しみにしていた。
説明があったが、カンカラ三線は、あの戦争の後に米軍統治下におかれた沖縄の歴史を物語る楽器だ。物資がない中で、米軍から支給される粉ミルクや食料の缶を胴体に、米軍のベッドの足などの廃棄物を棹にし、落下傘のヒモを絃にして組み立てたのがカンカラ三線。まさに、沖縄の人々の「心」の拠り所であった唄と踊りをカンカラ三線はつないで来たのだ。また、大好きな「演歌」は、明治時代の「壮士演説」の中での「歌」がルーツで「演歌」とも説明。
かつては吉田拓郎が大好きで、同じギブソンの“J45”(約30万円)から、製作費3千円のカンカラ三線に持ち替えたという岡は、まさにプロテスト・ソングの担い手と言って良いだろう。
次のような曲をカンカラ三線に乗せて披露してくれた。
(1)東京節 (2)骨まで愛して (3)十九の春 (4)ラッパ節
(5)オッペケペー節 (6)ストトン節 (7)お座敷小唄
なかでも、「十九の春」の元歌が添田唖蝉坊の「ラッパ節」と説明して披露したのが、印象的だった。
まだ三十代のようだが、カンカラ三線を抱えて、「ラッパ節」を歌う若者がいることに、ある意味で、日本も捨てたものじゃない、という感慨に浸っていた。
ご興味のある方は、ホームページやブログをご参照のほどを。
岡大介のホームページ
岡大介のブログ
柳家さん喬『文七元結』 (~16:30)
仲入りで、お寺から美味しい豚汁をご馳走になり少し眠くなったという話を聞いているこっちも、少し体が暖かくなったような気がした。
今の若者は「ヤバイ」が誉め言葉になっているなど、若者事情を中心にふりながら、「何をやろうか、こうやって考えているんです」と言っていたが、このネタは事前に決めていなければできないと思うがなぁ。
つい最近では、10月9日に、末広亭の襲名披露興行で三代目文蔵で聴いている大ネタだ。
正直な感想として、文蔵の高座が良かったことを、あらためて思い返した。
さん喬は、その良さでもあり欠点ともなるのが「くどさ」「くささ」と言う指摘がある。私も、そう思う。
私自身がマイナスに感じた演出は、次のような点。
・本編のマクラで、細川の中間は決まった給料が出ないので、博打場として
金を稼いでいた、という説明は、丁寧とは言えるが、不要だと感じた
・長兵衛が、博打で負けて長屋に帰って来る前に、懐手をしてブルっと震え、
仲間と思しき空いてに「あばよ」と声をかけてから長屋の戸を開けるのだが、
この場面の必要性は疑問
・長兵衛の女房のお兼が継母であると自分で言うのだが、その設定が効果的とは思えない
時間を気にしていたようにも思え、文七が近江屋に帰ってから、佐野槌やお久の名を主人や番頭とのやりとりで思い出す場面を割愛し、翌日主人が吉原をよく知る手代に「佐野槌というお店はどこか知っているか」と聞く設定にしていたのだが、私としては物足りなさを感じてしまった。
あの場面、普通なら、ましてやさん喬なら、しっかり文七と主人や番頭との会話で笑いを取ってくれると察するので、きっと、時間短縮版なのだと思うなぁ。
腕時計をしていかなかったが、マクラを含め45分ほどではなかったかと察する。
終演の挨拶とともに、新治からは、第一回の“幻の出演者”立川文都の位牌があることが案内され、私も手を合わせた。
帰り際に思ったことがある。
さん喬はこの後で深川での独演会だと新治が言っていた。
だったら、三年前の第五回がそうだったように、仲入り後をさん喬、トリを新治でも良かったのではないか・・・・・・。
そうすれば、ネタ選びも変わるかもしれないが、時間に追われるようなことはないはず、というのが、正直な感想。
新治にしても、トリなら源平ではなく、たとえば三年前の内幸町で聴いた見事な『立ち切れ線香』や同じ講釈ネタでも『狼講釈』などを選べたのではないかなぁ、と勝手に思っている。
とはいえ、木戸銭千円では、こんな小言を言っちゃいけないね。
岡大介という“演歌歌手”に出会えたし、落語の四席すべて、並みの噺家ならば私も高い評価を書くことが出来るかもしれない。
それだけ、さん喬や新治への期待が高い、ということなのである。
あらためて思うのだが、地域の方を招いてのお寺の落語会は、なかなか良いと思う。
安楽庵策伝からの落語の歴史が物語るように、落語と法話や説教は、実に緊密な関係を持っている。
昨日の帰り際、檀家さんと思しき多くのお客さんは、実に満足気な顔でお帰りになっていた。
住職をはじめとするお寺の方々と、お客さん達との言葉や態度に、この会の持つ“人肌の温かさ”を感じたものだ。
私のような、地元の人間でもない者が、細かなことをどうこう言うのは、落語の本来の楽しみ方ではないのだろうなぁ。
とは言うものの、元々、落語会や寄席の備忘録として始まったブログなのだから、その場での正直な感想については、今更変えるつもりはない^^
こういう“人肌”の会、ぜひとも長く続けていただきたい。
テニスコートが近くになったのも、縁だろう。
私は、できるだけ都合をつけてこの会に伺うつもりだ。
なお、露の新治ホームページ「まいどおおきに露の新治です」のスケジュール表(追っかけカレンダー)によると、今回の出張(?)では、下記のように、9日昼に茅ヶ崎で講演会の後に、夜は白金台でチャリティ寄席の出演が予定されている。
露の新治ホームページ
11月9日(水)13:30~ 神奈川県茅ヶ崎市
茅ヶ崎市民文化会館 平成28年度 人権啓発講演会
お笑い人権高座「笑顔でくらす、願いにいきる」
【無料】
主催 横浜国際人権センター
11月9日(水)19:00~ 東京都港区
ミーリーコレクションプラチナ通り店
第2回ミーリーコレクションチャリティー寄席
【¥1,000】
二重丸(太神楽曲芸)、
新治(落語2席)
主催 東北笑生会
夜の都合さえ合えば白金台に駆けつけたいところだが、今回は残念ながら行けそうにない。
ご都合の良い方は、ぜひホームページからご予約されてはいかがだろうか。
30人くらいだったか、いい客いい雰囲気でした。
あれは木戸銭いくらだったか。
いきなりでも演じるだけの技量は、もちろんあるでしょうし、稽古だってしていると思います。
しかし、あの日の文七は、どうかな・・・・・・。
三年前の内幸町ホールでの独演会で『立ち切れ線香』は聴いていますが、良かったですねぇ。
あの日は、他に『権兵衛狸』と『源平盛衰記』の三席。
比べちゃいけないんでしょうが、ネタの構成を比べてしまうんですよ。
さん喬を立てるため、大ネタを避けてようにも思いますが、東雲時寺の会は、主役は新治だと思うので、遠慮なく『立ち切れ線香』でも『狼講釈』でも、あるいは『大丸屋騒動』でも聴かせて欲しかった!