月見、旬のネタ『盃の殿様』で思い出す、喜多八のことなど。
2016年 09月 18日
三日前の9月15日は、旧暦で8月15日、諦めていた中秋の名月を、短時間だが雲間から眺めることができた。
一昨日は「十六夜(いざよい)」の月が綺麗だった。月の出は遅くなるから、月が出るのをためらっている「いざよい」。
昨夜も、立って月の出を待つ「立待月(たちまちづき)」、薄雲がかかったとはいえ、月齢満月の姿を楽しむことができた。
ここで、まだ月の楽しみ方が終わらないのが、その昔の人たちの凄いところ。
今夜は天気次第で見えるかどうか分からないが、十八夜は「居待月(いまちづき)」。
この季節は、月の出が一日に約40分づつ遅くなる。十八夜ともなると、座敷で月を待つ。
ちなみに、明日十九日が「臥待月(ふしまちづき)」で、座敷に横になって待つ。
中秋を含む月見の風習は、残念ながら日本にはほとんどなくなってしまった。
会社に中国籍の社員の方がいらっしゃって、15日の昼休みの立ち話で、仲秋はどう過ごすのかを聞いた。
まず、「月餅」はお互いが贈り合うらしい。
四つづつを一つに包み、家族の多い家には二包みの八個。
中国では、偶数が縁起が良いとされている。
また、月を眺めながら丸いものを食べると長生きすると言われており、家族そろった夕食で、いろんな丸いものを並べるとのこと。
こんな会話をできる相手は私(幸兵衛のこと)だけだ、と彼女は少し喜んで、丸い顔で笑っていた^^
月見で思い出す噺に、『盃の殿様』がある。
柳家喜多八の、十八番の一つだった。
現役で聴いたことがあるのは、もう一人、柳家小満ん。この二人だけ。
喜多八で何度か聴いているが、その中では、古くなるが、2008年12月の「ビクター落語会 大感謝祭」が良かった。
NHK東京落語会の会場でもあるニッショーホールで初めて聴いた落語会で、あの会場には、あの時以来行っていない。
2008年12月20日のブログ

矢野誠一_落語歳時記
矢野誠一さんの『落語歳時記』は、初版が読売新聞から単行本で『落語 長屋の四季』として昭和47(1972)年の発行。
私の座右の書は、1995年2月発行の文春文庫版だ。
秋の第一章が、この噺。さすが、矢野さんは、しっかりこの噺の良さをご存じなのだ。
まず、冒頭から引用。
月見 犬吠えて駅から遠き月見宿
盃の殿様(さかずきのとのさま)
時、旧暦の八月十五日、恒例の月見の宴が開かれました。まだ残暑の
きびしいころでございます。
『盃の殿様』
さるお殿さま、気晴らしに吉原へかくれ遊びに出かけたところ、花扇という太夫にすっかり夢中になってしまう。いくらお遊びでも、二度三度とかさなると、自然重役の耳にはいるし、万一これが大公儀に聞こえればお家の大事にかかわるというので、急病のためお国詰めという処置。
国へ帰った殿様、さあこの花扇が忘れられない。折りしも旧暦八月十五日、恒例の月見の宴がはられるが、花扇が忘れられぬ殿には、気散じにならない。坊主の珍斎に、花扇から餞別にもらった裲襠(しかけ)を着せて、
「殿さん、よう来なました。その後はおいでもなく、にくらしゅうざます」
と膝をつねらせてみたが、面白くもなんともない。
「いま取り上げしこの大杯、江戸なれば太夫とともに月を見るにと、そぞろ太夫に献(さ)したくなった。だれぞ脚のはやいものはないか」
「足軽藤三郎と申すもの、日に百里ずつ走ります」
「すぐに呼べ」
かくして、この藤三郎、殿が飲みほした三合入りの盃を懐中にすると、江戸表新吉原扇屋の花扇目指してひた走り。無事、江戸にたどりついた足軽藤三郎のさし出した盃をうけると、禿(かむろ)になみなみとつがせた花扇、
「殿はん、お懐かしゅう存じます」
ホロリと落とすひと滴、ぐっと息もつかずに飲みほすと、
「ご返盃ざます。殿はんによろしゅう」
再び懐中に、藤三郎は国もとへ。ところが帰りが意外に遅いのに、いらいらした殿さま、やっと帰りついた藤三郎に、
「予が思うより半日遅刻いたしたが、いかがいたした」
藤三郎がいうには、帰る途中、箱根山で大名行列の供さきをつっきって取りおさえられた際、一部始終を聞いたこの大名、
「大名の遊びはかくありたいもの、予もそのほうの主人にあやかりたい」
と盃を借りて酒を飲みほした。途中で合をいたしたため遅参したときいた殿さま、
「うむ、お見事、お手なみ拝見、いま一盃と申してまいれ」
藤三郎、「はい」と盃懐中に走り出したものの、どこの大名かわからないので、いまだに探している・・・・・・。
米朝が、東京落語の中で、スケールの大きな噺の代表作としてこのネタを挙げるのも、むべなるかな。
“大名遊び”という言葉はあるが、ここまでくると、流石と言うしかない。
小満んや喜多八の内容は、この筋書きとは少し違う。
そもそも、月見の宴、という設定がない。
これは、この噺を十八番としていた円生がそうなので踏襲したのだろうか。
数少ない秋の噺とするよりも、月見と限らず旬を気にせずに演じることができることを優先したのだろう。
また、殿さまが、江戸づめがたいくつで“気の病”になるとだだをこね、重役を丸め込んで一緒に吉原に繰り出すのが、当代のお二人の設定。
国に帰るのは、急病のためという口実ではなく参勤交代として、となっている。
それらの脚色は、この噺の勘所であるスケールの大きさを失うことにはならない。
しかし、私は、あくまで月見であり、この噺は秋の落語、と考えたい。
そして、月を愛でる風流さを失ったことを思い起こす噺でもあってよいと思う。
矢野さんの本には、このように書かれている。
一般家庭での月見の宴は、もうほとんどすたれてしまった。アポロが月面に到着して、月の石をもち帰ったばかりか、その様子を全世界のひとが、野球中継を見るのとまったく同じ受像機でながめられるようになっては、月にたいするロマンも失われ、いまさら月見でもあるまいといったところであろうか。米を挽いて粉から作る団子・・・食べたことがない。
中国の月見は、瓜や果物を庭に並べ、枝豆、鶏頭花をささげ、月餅や果物を贈答しあうというが、わが国では、ふつう十五個の月見団子を三方にかざってそなえる。その団子も、あらかじめ米を挽いて粉をつくっておいて、十五日朝から家内総出でつくるというのが本式というものだからなかなか手間のかかるものである。団子のほかに枝豆、柿、栗、芋などをそなえ、瓶のなかには芒の穂を立て、おとなは酒をくみかわし、子供は枝豆や団子に興じたのが、戦前までのごく平均的な光景。となると、たいせつな米を粉ににて団子にするなど、もってのほかだった、あの戦時中の暮らしが、そのまま現在まで月見の宴を家庭から奪ってしまったともいえそうだ。
日本の月見の風習がなくなってきたのは、たしかに戦争の影響もあるだろうが、明治になってすぐに新暦に切り替え、その後は旧暦(太陰太陽暦)をほとんど忘れた影響も大きい。
落語の世界だけでも、月の満ち欠けを感じる江戸の生活に浸っていたいものだ。
喜多八のこの噺の高座で印象深いのは、藤三郎が、お国元から吉原へ向かう、道中立て。
また、国詰めし、花扇を思い出すあまりに殿様が、堅物の重役に裲襠(しかけ)を着せて、「主、一服あがりなんし」と煙草を勧めさせる科白を言わせる場面などは、なんとも楽しかった。
殿様の描写も、なかなかにお茶目で、可愛い面があったのを思い出す。
矢野さんのこの噺に関する章の、サゲは、こうなっている。
人間的にできているから、落語の殿様は、恋をする。それもごくごく俗っぽく。吉原の花魁を見染めたりする。『盃の殿様』ばかりではない。吉原は三浦屋の高尾太夫に懸想した『仙台高尾』の仙台候なんて例もあるのだから楽しい。この仙台候のほうは、鳥取の浪人島田重三郎といういい交わした男のいる高尾がなびかぬのに腹を立て、高尾を斬ってしまうというのだから乱暴だ。落語家のほうも、あまりこの仙台候には好感がもてぬとみえ、すこぶるつきのやぼてんに描いてみせる。ズウズウ弁まるだしで高尾を口説くのである。
それにひきくらべると、わが『盃の殿様』などは、純情といおうか、粋といおうか、すがれた、スケールの大きな遊びをしてみせた。名君の資格十分といっていい。
“殿下”と言われた喜多八に、“殿様”の噺は、まさに相応しいと言えた。
どんな季節のどんなネタでも、それが喜多八が演じていたものであると、しばらくは思い出しそうだ。
もうじき、秋彼岸だ。
早いものだ。
行事食が好きな私は、毎年月見団子を買うのですが、今年はお店に行くのが遅くて月見団子が買えませんでした。替わりに「芋満月」という薩摩芋餡の和菓子を買いました。
関東の方はご存じない方が多いですが、京都や大阪など関西の月見団子は細長い団子を漉し餡でくるんだ物です。小学校の給食でも必ずこのお団子が出ました。「月に群雲」「里芋」などをかたどっていると言われています。
意味も判らずハロウィン(アメリカの収穫祭とお盆を併せた様な行事)で盛り上がるよりも、日本の行事を大事にする方が良いと思うのですが……。
大阪に限らず東京も、意外に秋の噺は少ないんです。
米朝は、三田純市さんの「まめだ」は貴重な秋の噺を作ってくれたと感謝していますよね。
そうか、関西の月見団子は丸いものばかりではないのですね。
知りませんでした。
給食で出ましたか。
おっしゃる通りで、ハロウィンなどで馬鹿騒ぎするより、日本人は月を愛でる方が、ずっと似合っています。
