「すばる」の落語特集を読んで(4)「落語の笑いー春風亭一之輔試論」(上)
2016年 09月 02日

「すばる」9月号の落語特集を読んだ感想の、四回目。
「すばる」のサイトから拝借した目次特集部分の画像をご覧のほどを。
「すばる」のサイト

ようやく(?)最後の「すばるクリティーク」になった。
感想などを記したい。
落語の笑いー春風亭一之輔試論 浜崎洋介(はまさき・ようすけ、文芸評論家、78年生まれ)
23頁に及ぶ内容の、冒頭部分をご紹介。
立川談志は「落語とは人間の業の肯定である」と言った。それなら人は、その「人間の業」を抱きしめようとして、ときに落語の方への向かうこともあるということか。
私が落語と付き合いはじめたのは古い話ではない。20代も後半に差し掛かった頃、いわゆる「キャリアアップ」のつもりで転職したはずの仕事先で、そこでの不条理に耐えきれなくなって仕事を放り出し、かといって。当時、籍を置いていた大学院での「研究」も思うようにはかどらず、つくづく世間と自分が厭になりかけていた頃だった。ただ、主観的にはどんなに自暴自棄になっていても、毎日の掃除・洗濯だけは律儀にこなし、ときに昼飯や夕飯を抜いても古書を買い、また旧い友人と朝までのんべんだらりと飲み続けるという習慣だけは相変わらずだった。そんな時、つくづく感じたのか「自分の性格は治らないな」ということだった。そして、「多分、この性格のまま死んでいくんだな」と思った時、急に自分のことが可笑しくなってきて、肩の力が抜けていくのが分かった。
すると不思議なのは、あれほど熱中していた「近代文学」が急にどうでもよいものに見えてきたことだった。将来に対する展望があればこそ、「近代文学」が描く内的葛藤にも、人生と社会に対する批評性=新しさを持つことができる。が、将来に対する展望がなくなれば、こちらとしても、わざわざ他人(ひと)様の内面などに付き合っている暇はない。
このへんまで来て、「おいおい、他人様の内面はともかく、いつ落語との付き合いの話が始まるんだよ?」という、苛立ちを覚えていた。
引用を続ける。
しかも、これが自分より年齢が下の人間の内面であった場合は、その「どうでもよさ」は頂点に達する。要するに、いまさら人生を引き返すわけにもいかない自分にとって、その内面がどうであろうと、他人の人生は他人の人生でしかなく、自分の人生は自分の人生でしかないという至って単純な事実が、ようやく自分の腹に入ってきたということだったのかもしれない。とすれば、いまさら芸のない「小説」などに付き合う義理はない。
私だって、落語評論の冒頭で、こんな文章に付き合う義理などない、と再びツブヤキシロー状態・・・だったが、やっと次のような文章が登場。
しかし、そんな時、たまたま「en-taxi」(2005年3月号)で連載が始まった立川談春の小説ともつかないエッセイを読んで驚いた。
ようやく落語か・・・と思ったら落語家のエッセイだった。
このエッセイは、私も単行本になってから読んでいたので、ようやく先に進む気力が出てきた。
後のベストセラー『赤めだか』に収められる初回エッセイ(「『これはやめておくか』と談志は云った」)の書き出しは、「福田和也に惚れられた。」である(ここの部分は単行本未収録)。この時点で、私はまだ「ここまで演れるなら、家元はもういい、不要(いら)ない。褒めてやる」(「談志が死んだ 立川流はだれが継ぐ」)という談志による談春絶賛の評を知らない。で、この不遜とも自信の現れともとれる気持ちのいい断言の後、談春は一気に、漫才ブームの中での立川談志と古今亭志ん朝との出会い、そしえ競艇選手を諦めて落語家を志すまでの道のりを描いていく。まずその文章のリズム感が圧倒的だった。自分との距離感、周囲との間合いが抜群だった。それでいて、そこには、そこはかとないペーソスさえ漂っている。これは間違いなく「小説」より上だと思った。
それで、すぐにお江戸日本橋亭に駆けつけた。それは、たしか柳亭市馬との二人会か何かだったが、そこで談春が高座にかけたのが「三軒長屋」だった。ここまで売れっ子になる前の談春の「三軒長屋」を、小さな小屋で、しかも演者の汗や唾が飛ぶ距離で聴けたことは、今でも自分の宝だと思っている。これまた圧倒的だった。あえて、当時の私の舌足らずの評言を書きつけておけば、「これぞポリフォニー!これぞドストエフスキー!」というものであった。もちろん、落語がバフチンに気を遣う必要はないし、落語がドストエフスキーに似ている必要もない。いや、今から考えれば、落語がドストエフスキーに似ているというよりは、ドストエフスキーの方がー特に『白痴』などーどこか落語的なところがあった。
いずれにせよ、それが私と落語との出会いだった。
初の生落語体験、良い巡り合いだったようで、何より。
このへんから、落語評論的な内容になってきた。
それよりも、立川談春のエッセイと高座への出会いまでのプロローグ、やはり長すぎだろう。
“転職先を辞めやや自暴自棄になり、研究室での「近代文学」への取り組みにも疑問を感じていた時、私はある落語家のエッセイに出会った”程度じゃ、だめなの?
どうしても、当時の自分の心境を、その背景を含め書きたかった、ということか。
なお、ポリフォニーやバフチン、ドストエフスキーなどは「一之輔試論」としては、あまり関係しない。
ご興味のある方は、Wikipediaの「ミハイル・バフチン」をご参照のほどを。
Wikipedia「ミハイル・バフチン」
上記内容の後には、彼の落語との付き合いが広がり深まっていったことが説明されている。
それ以降、今に至るまで「通」と言えるほどの落語狂いになることはなかったが、それでも、次第に談春以外の、あるいは立川流以外の落語家の存在も気になってきて、気がつくと寄席などにも足を運ぶようになっていた。すると、立川流の際立ち方が尋常ではないことくらいはすぐに分かったが、それ以上に落語自体が持っている魅力にも目が開かれていった。文楽、志ん生、円生、志ん朝、小三治、米朝、枝雀、吉朝・・・・・・と聴いていくうちに落語の裾野の広さ、単なる上手い下手で括ることのできない味わい、汲めども尽きせぬ落語の深みにはまっていった。
それは、実に結構でしたね、と言いたい。
さて、ここからは、表題の「春風亭一之輔試論」に関連しそうな部分に絞りたいのだが、それにしても・・・長いのである。
2008年に筆者は最初の本(『福田恒存 思想の<かたち>』新曜社)に取り組みはじめてから次第に寄席から足が遠ざかったとのこと。
また、「落語ブーム」と世間で言われることにも、やや斜めに構えていたようだ。
そんな時のこと。
だから、つい最近も、知り合いの編集者から「浜崎さんって、学部は日大の芸術学部ですよね、じゃあ、日芸出身の春風亭一之輔って知ってます?彼は凄いですよ」と言われたときも、半信半疑だった。どうせ、今人気の昇太か喬太郎か、良くて志らくの路線だろうと高をくくっていた。しかし、柳家小三治による抜擢真打だという、
(中 略)
それで久しぶりに、一之輔を観るために寄席を覗いてみた。結論から言うと、小三治ではないが、「いや驚きました、舌を巻きました!」(一之輔真打昇進披露会での小三治の口上)。
ようやく、一之輔の名前が登場。
筆者の好みでは、志らくは昇太、喬太郎より上、ということなのだろうか。
“良くて志らくの路線”とあるが、もう少し説明が必要では。いったい、どんな路線?
好みの問題もあるので、これ以上は突っ込まない。
さて、大学のみならず、生まれた年も同じと知った一之輔を初めて聴いて“舌を巻いた”驚きを、筆者はこう表現している。
まず、その姿かたち、つまり顔を声がいい。浮足立った「自意識」と無縁であることは言うまでもないが、しかし談春の古典落語とも何かが違う。もちろん似ている点がないわけではない。口調の良さ、心地よいリズムとテンポ、登場人物がスッと狂気に入る時の凄み、そして落ち着き。“何か違うもの”を感じた、その“何か”を探る、筆者の旅(?)が始まる。
(中 略)
ここには、これまでの「落語ブーム」とは何か違うものがあるような気がした。そして、それは時を経るに従って確信に変わっていった。
筆者は、一之輔を「渋谷らくご」でも聴いており、かつて映画を観に行ったユーロスペースが落語空間に変貌した様子に驚いている。
その後、しばらく一之輔のことから離れ、志ん朝、小さんの死、六人の会、など東京の落語界の出来事を振り返り、2005年テレビ「タイガー&ドラゴン」を機にした落語ブームなどに触れる。
寄席に若者が押し寄せるようになったというニュースが流れたことを、筆者は思い出す。
そのブームについて、次のように記されている。
ただし、この「落語ブーム」は、全体として見れば一過性の現象でしかなかったように見える。いくら「ブーム」とはいっても、寄席の連日大入りなどという例外的現象が続くわけでもなく(そもそも寄席はそういう場所ではない)、これを機に、新たに開拓された落語ファンは、寄席ではなく、各自好みの落語家の独演会に足を運ぶようになっていった。つまり「落語ブーム」は、寄席に落語を聴きに行くという習慣までは作り上げなかったが、贔屓の落語家を聴きに行くというホール落語の流れだけは確実に作り上げたというわけだ。先に触れた「渋谷らくご」もこれに棹さす現象なのだろうが、その意味で言えば、2000年代からはじまった落語のヌーヴェルバーグは、柳家や三遊亭や春風亭や古今亭といった一門の伝統=型あっての噺家というのではなくて、落語家が、あたかも「一人の芸術家」であるかのように個性を押し出すことによって作り上げていった流れだと見ることもできようか。
この部分を読んで、“一門の伝統=型”あっての噺家は、“一人の芸術家”ではないのか、という疑問が湧いた。能、歌舞伎などを考えても、型のことと、芸術家のことは対立関係にないのではないか、と思ったが、このあたりのことに拘泥していると、どんどん方向が逸れて行きそうなので、先を進めよう。
筆者は、2000年代の落語界では、立川流、SWAのメンバーが象徴しているように、落語家は、“もはや寄席のための噺家と言うよりは、自分贔屓のお客を相手にするエンターティナーであるかのように見える”と書いた後、こう続ける。
そして、もちろん、2001年に春風亭一朝の下に弟子入りした一之輔も、この落語界の流れを、前座、二ツ目として横目で見ていたはずなのだ(いや、見ていたという以上に、「大銀座落語会」の時に坂東三津五郎の稽古をつけてもらって「勧進帳」の四天王」を新橋演舞場で演ったらしい)。
とすれば、、春風亭一之輔も、この<落語家=芸術家>の流れに棹さす落語界期待の新星だということになるのか。さにあらず。これが2000年代と2010年代のスターの違いということになるのかもしれないが、一之輔はあっさりと次のように言う。
“流れに棹さす”は、流れに乗るという本来の意味なので、念のため。
では、一之輔は、他の“芸術家”とは、どう違うのか。
この後に、次のような一之輔の言葉が、引用されている。
「だからねえ、あんまり信用してないんですよね。自分のこともそうだし、このまま行くと思ってないんで。ダメならダメだし。でも、一日一回、どっかで落語喋って、家賃が払えて、ご飯が食えれば、もういいですよ・・・・・・。ごめんなさい、夢のない話で(会場・笑)。」(2012年7月26日、広瀬和生によるインタヴュー、「『落語家』という生き方」講談社、2015年)
「もともと寄席に出たくて噺家になりました。寄席芸人がダンディでかっこよく見えた。受けようが受けまいがの15分」(『東京かわら版』2016年4月号インタヴュー)
この箇所にはないが、この後の頁に、一之輔本人の著『一之輔、高座に粗忽の釘を打つ』(白夜書房・落語ファン倶楽部新書5、2012年)からも多く引用されている。

『一之輔、高座に粗忽の釘を打つ』(白夜書房・落語ファン倶楽部新書5)
この本については、私がAmazonのレビューを書いているので、ご紹介。
今後の長い噺家生活の“里程標”となる好著!一之輔を知るには、そして語るなら、外せない本。
前半は、真打昇進披露興行の貴重な記録が中心である。
鈴本の大初日(三月二十一日)の口上の全記録や、五十日間で披露されたネタ全二十四席に関して、稽古をつけてもらった師匠のことや、それぞれの噺への想いなどが率直に語られている。
披露興行での逸話や、さまざまな人達への感謝の想いを綴った後に、一朝一門について、何とも言えない“ゆる〜く暖かい”連帯感が伝わる。
後半は、深夜ラジオ大好き少年が、高校ラグビー部で挫折を経て寄席に通い始め高校での落研再興、そして大学での落研顧問右朝との出会いなど、数々の逸話を含む真打昇進までの半生記と言える内容。
披露興行の記録を含め、春風亭一之輔がこれから経験するであろう長い噺家人生の貴重な“里程標”と位置づけられる好著と言える。
落語とどう出会ったか、なども、この本に興味深く書かれている。
紹介したように、この評論の筆者は、社会人になってから、転職の失敗などもあり、やや挫折感を抱いていた時に、エッセイを読んだことをきっかけに、初めての落語を談春で経験する。
かたや一之輔は、春日部高校のラグビー部を辞めた「前向きではない自由」な時に、ふと東武野田線に飛び乗って浅草で下車し、たくさん幟が立った演芸ホールにふらっと入ったことから、初めて生の落語と出会う。
余談。
実は、私が小学校高学年の頃かと思うが、北海道の田舎から、実家の商売上の取引先の招待で、父に連れられて東京から箱根を巡る観光旅行を経験した。特急夜行寝台に乗っての、初めての東京だった。
ホテルニューオータニにも泊ったので、東京五輪の後であるのは、間違いないだろう。
ぼんやりとした記憶しか残っていないのだが、その時、はとバスで浅草演芸ホールに立ち寄ったのが、初の寄席体験だった。
てんや・わんやの漫才だけは、妙に記憶に残っているのだが、落語家は誰が出ていたのか、まったく覚えていない^^
もちろん、一之輔の浅草体験は、私とは大いに違っていた。私は、そこに居ただけだからね。
この評論の中で、一之輔の本から引用している文章から、その体験の様子をご紹介。
すぐ目の前の高座に、次から次に芸人さんが出てくる。
最初は、変な人が入れ替わり立ち替わり出てくるという印象でした。
面白い人はとことん面白い。 入場料は、2500円。お金を出して笑うということ自体が初めての経験。
すこし気持ちに余裕が出来て客席を眺めると、高座を観ないでラジオを聴いている人がいる、本を読んでいる人もいる。“この人たちは、お金を払って笑いに来ているのではないのか・・・・・・、では、なんのために”。
そんな疑問を抱きつつも、同世代が誰も知らないであろう寄席の空間に、自分が制服でいることが、たまらなく可笑しくなってきた・・・・・・。
夢中なって高座を観ながら、ふと我に返ると、それまで名前も知らなかった、おじいさんおばあさんに惹かれている自分がいました。
この初落語の体験は、実に一之輔という落語家にとって大きなものだったと言えるだろう。
寄席に出たい、という思いは、その時からの一之輔の原点であり、変わらぬ信条である。
筆者は、一之輔が落語について語る言葉を、別な噺家の言葉と対比する。
たとえば、これを「俺はそれほど落語が好きじゃない。必死でやってる姿で、何かを感じてもらえると思ってるからやってるわけで、俺は根本は、お客は芸人が苦しんでいる姿を見に来ると思ってる」(「Switch」vol32、2014年)と語る談春のストイシズムと比べてみればいい。一之輔の力の抜け方は一目瞭然だろう。
たしかに、談春の言葉とは好対照。
しかし、一之輔の寄席への思いについての“力の入れ方”は、生半可なものではない。それは、彼の軽そうに思える言葉の表面だけで判断しては、いけないように思う。
しかし、筆者は、一之輔の“力の抜けた”と捉える言葉を踏まえ、次のように書く。
この「夢のない話」こそが、一之輔を、2000年代の「落語ブーム」から切り離しているものであり、この抜け方こそが、一之輔の落語を一之輔の落語たらしめているものだとしたらどうだろうか。そして、それはおそらく、一之輔自身が語る「部室落語」というものと無縁ではないばかりではなく、私には「笑い」の本質、あるいは落語そのものの本質とどこかで繋がっているように思われるのだ。そして、その手掛かりは、一之輔にしては珍しくハッキリとした断言、「もともと寄席に出たくて噺家になりました」という言葉のなかにこそ隠されている。
ただ、それを詳しく論じるためには、まず「笑い」についての少々長めの講釈が必要になる。以下、驚くべき野暮ったさで「笑い」についての能書きを並べ立てることになるが、そこは文芸評論家の書いたもの、広い心でお付き合い願いたい。
ということで、筆者は、特定の噺家一之輔はもちろん、落語という芸のことをいったん横に置いて、「笑い」についての“講釈”を始めることになるのだ。
お馴染みのベルクソンが、登場する。
一之輔試論のために、「笑い」の長い講釈が効果的だったのか、どうか・・・・・・。
つい、私の寄席初体験のことや自分の書評なども加えてしまったこともあり相当長くなってしまったので、「上」として、ここでいったんお開きとしたい。
実は、どこまで“広い心”で、この後に続き“驚くべき野暮ったさ”の“能書き”に付き合うか、今、悩んでいる・・・・・・。
最初に読んだ時は、ほとんど斜め読みだったのだが、今回記事を書くためにゆっくり読んでも、やはり、ビートルズの日本でのラストシングルのように、長く曲がりくねった道、なのである。
しかし、ここまで書いて、後は「割愛」というわけにもいかないなぁ。
とにかく、次回でお開き。
ポパイの最新号、落語とジャズを特集しております(笑)。
いえいえ、どういたしまして。
もし、本屋で目にしたら間違いなく読んでいたでしょうが、見逃す可能性もあります。
お知らせいただき、良い機会ができました。
他の内容(夏目漱石関連の対談など)で、興味深いものもあり、決して無駄ではありませんでした。
ポパイ、もちろん読みましたよ。
そのうち、何か書くつもりです。
白酒がクリフォード・ブラウンの名を挙げていたのが、実に嬉しかったのです。
今後も、気軽にお立ち寄りください。
