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噺の話

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「すばる」の落語特集を読んで(1)


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 いただいたコメントで、集英社の月刊誌「すばる」の9月号が落語を特集していることを知った。

 「すばる」は、「新潮」、「文學界」「群像」「文藝」と並んで「五大文芸誌」と呼ばれ、これらの雑誌に掲載された作品が芥川賞の候補になることが多いらしい。
 
 集英社としては『小説すばる』が大衆小説、『すばる』が純文学、ということのようだ。

 この雑誌は読んだことがないのだが、こういう機会でもなければ読むこともなかろうと思い、先日落語会で行った紀伊國屋書店で購入し、落語特集の部分は読み終わった。

 いわゆる“純文学”というものに、ほとんど縁がない。
 私が読む日本の小説は、もっぱら歴史小説が中心。
 歴史もの以外で、ほぼ全作品読んでいると思うのが夏目漱石。
 学生時代は筒井康隆も、当時発行されていた全作品を読破していたはず。

 ミステリーも海外ものは好きだが、日本の作家の作品は、ほとんど読まない。

 読書は、まず落語関係、そして歴史もの、続いてエッセイなどで、とにかく“純文学”なるものは、目にすることがない。
 だから、落語特集をきっかけにした、初「すばる」というわけだ。


 特集部分の表紙ページには、こんな文章が載っていた。

特集
落語がこんなに面白いとは

幾度目かの“落語ブーム”到来とも言われる今年
聴いてみたい!
でも、難しそう、敷居が高い、どう楽しむの?
そう思いのあなたへー
エッセイ、寄席体験記、演目ガイド、評論をどうぞ
奥深い落語の世界に、一席お付き合いください

 集英社の「すばる」のサイトから、目次特集部分の画像をコピーしてご紹介。
「すばる」のサイト

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 知っている名は、杉江松恋のみ。
 文芸評論家というより、ミステリー小説評論家として知っている。
 CS「ミステリチャンネル」の「闘うベストテン」は、かつて良く見ていた。

 他の人たちは、名前を知らなかった位なので、作品を読んだこともない。

 巻末に筆者の簡単なプロフィールが載っている。
 杉江松恋のみ1960年代の1968年生まれで、他の人はもっと若い。
 滝口悠生が1982年生まれで、他の五人は1970年代の生まれだ。

 掲載順に引用を含め感想などを記すが、複数に分けて書くつもりだ。
 まず、見開き二頁のエッセイ四作品について。

 初めて知る名前であり、作品も未読だが、きっと作家ならではの視点や切り口で、落語について書いているのだろう、と期待していたのだが・・・・・・。

 掲載順に、概要と感想を記す。
 なお、名前の後の( )内は、巻末のプロフィールから引用した。

楽しみ捨てたい 長嶋有(ながしま・ゆう、作家、72年生まれ)

 こんな書き出しだ。
 落語は好きだが、落語の「褒められ方」がときに苦手だ。
 さて、どんな「褒められ方」について苦手なのか。
 落語は、というか落語を褒める人は、「すごい」「至芸」「宝」といった類の語彙を用いた褒め方で、いつまでも下からみあげながら褒め続けている気がする。すごいものをすごいといってしまう。いわば「楽しみ捨てていく」感じが薄い。楽しんでもらって捨てられるだけではもちろん、どんなジャンルの表現も芸事も哀しいのだが、さりとて「捨てやすい空気」だってどこかにほしい。
 このへんを読んでいて、「いったい誰が、誰について褒めていることを指しているの?」という、疑問が募ってきた。
 しかし、その答えは、短い見開き二頁の中に、見当たらない。
 落語愛好家や落語評論家の評って、そんな手放しで褒め上げるものばかりではないだろうに。

 彼が目にしたり聞いたりした気になる褒め方は、誰かの小三治への評価か、それとも、志の輔ファンの言葉だろうか・・・・・・。

 それほど多くの噺家が、「すごい」とか「至芸」、そして「宝」などとは評されないだろう。

 中盤の表現。
 とにかく、着物のかもす粋ムードのせいも相まってか、落語を褒める人の褒め言葉は「すごい」噺家の「すごい」演目に震撼したものばかりに、やはりみえる。

 う~ん、どうしても、この人が経験した“例外的”な褒め方を、一般的な落語評とまで解釈してしまっているような気がしてしょうがないなぁ。
 私に限らないと思うが、「すごい」演目に震撼するなんてこと、そうは多くない。

 後半は、「渋谷らくご」で、立川志ら乃の『そばーん』という、ドローンのような「そばーん」が空から落ちてくるのを主人公が受け取る、という新作の感想。

 「よかった」らしい。
 蕎麦すすり的な様式とドローン(とはいう変な物)双方への批評性がある。大笑いしたし、くだらないから褒めすぎなくてもすむところもまた、よさだった。

 へ~ぇ、「くだらないから褒めすぎなくてすむところ」も、「よさ」なの?!
 
 最初に引用した部分の後は、次のように続いている。
 歌舞伎とかにも、歌舞伎を褒める人の言葉にも、しばしば同じことを思う。もちろん、文学もそうだ。いずれも、ゆくゆくは勲章とかもらう「まったき褒められ」の道筋がある。
 そのこと自体は悪いことではないのだが、でもそのことに気恥ずかしさや照れを感じている「動き」のようなものも、そのジャンルの中に発見したい。
 要するに、手放しで褒め上げることを「恥」と思うような、そんな「空気」が欲しい、ということなのか。その指摘は分からないでもない。

 とはいえ、この短い文章を読みながら、疑問符はずっと消えなかった。
 この人が言いたいことが、ある特定の落語評について、匿名性を保ったまま批判したいということなら、まだ分かりやすいのだが、「落語評」一般についての見解とするなら、それはちょっと違うのではないか、と思いながら読んでいた。

 結局、「誰の誰への落語評?」という疑問が、終始残ったままだった。
 読み手への気配りが不足していると思ったエッセイで、もちろん「すごい」文章とは思わない。

 次に進む。
 
私と落語とラジオと 原田ひ香(はらだ・ひか、作家、70年生まれ)

 こちらも、冒頭部分を、まずご紹介。
 私はすばる文学賞受賞の一年ほど前にラジオドラマの賞をいただいている。今から十年ほど前のことだ。受賞作はすぐにドラマ化された。その収録に私も立ち会ったのだが、その時、ものすごくショックなことが起きた。
 収録も大詰め、ラストシーンにさしかかった時に、主役の俳優さんが喉を痛めて咳き込んだのだ。私はそれまで、ラジオドラマだけでなく、映像のシナリオについてもたいした知識がなかった。小説ばかり読んでいたのでラジオドラマの脚本にもかかわらず、セリフや効果音で表現できなくて、小説で言えば地の文を、すべて膨大なモノローグにして主役の俳優さんに読ませていたのである。
 俳優さんが咳き込むことによってそれに気が付いた私は、もっとラジオドラマを、ラジオを学ばなければ、と強く思った。NHKのラジオドラマのアーカイブでドラマのCDを貸してもらったり、過去のシナリオをいただいて読んだりしつつ、(ドラマ以外の)ラジオと落語を聴くようになって、落語に親しむようになった。
 それから一年後、小説の世界の方に来て、ラジオドラマからは離れてしまったけど、あの時、落語やドラマを聴けたのは本当によい経験だったと思う。
 創作落語と古典落語、どちらが好きか、と問われれば、古典と答える方がなんだか渋くてかっこいいような気がするが、やっぱり、ラジオドラマの参考になったのは創作落語の方だ。

 ご本人が落語に親しむようになったきっかけとなった逸話の存在は分かった。
 とはいえ、ラジオドラマを学ぶための教材として、なぜ落語も含まれていたか、この文章だけからは今一つピンとこないのも正直な感想。

 そして、この後、次のような、ラジオで聴いて気に入った落語の演目が続く。
 立川志の輔師匠の「歓喜の歌」は映画にもなっているから有名だけど、最初に聴いた時は笑いすぎ、その構成が見事すぎ、鳥肌が立ったほどだった。でも、私が一番好きなのは「七福神」。一人暮らしの男性の部屋に七福神がぞろりと訪ねてくる。日本の神様としてもう少し主張したい、と言いながら・・・・・・もう、このまま、ラジオドラマにしたい演目だ。師匠の地元、富山の薬売りを題材にした「先用後利」は最初、古典かと思って聴いていたら後に創作とわかってびっくりした。それから、桂文枝師匠の「涙をこらえてカラオケを」もすばらしい。
 
 この後、著者がシンガポールに住んでいた時に、現地の日本人会や富山県人会主催の志の輔の落語会も聴いたことが記されている。
 志の輔が経験したシンガポール空港での逸話をマクラで聴いて、この方は「一気に距離が狭まった感」があったようだ。
 
 締めの部分を、少し長めに引用する。
 ラジオと落語と、のラジオの方であるが、私はラジオを聴き始めた時に、伊集院光さんの深夜放送に夢中になった。これはとても幸運なことで、伊集院さんは十代の時に三遊亭円楽(当時は楽太郎)に弟子入りし修業している。時折、伊集院さんの口からこぼれる弟子時代の話は、ちょうど聴き始めたばかりの落語というものに奥行きを与えてくれた。
 この四月からTBSラジオで伊集院さんの午前中のラジオ番組が始まった。そのラジオ番組「伊集院光とらじおと」の二週目に円楽師匠がいらっしゃった。その時、師匠が、「何か物事に迷ったら、『と』の字を入れてみるといいよ」という趣旨のことをおっしゃった。「伊集院光とらじおと」「私とゲートボールと」というように。そうすると物事がはっきり見えてきて、自分に何ができるかわかるよ、と。
 すばらしいお言葉で、僭越ながら、私もこの原稿の題名を「私と落語とラジオと」にさせていただいた。円楽師匠はその後、ちょっとややこしいものを「と」されたようで、派手に報道されていらっしゃったけど、それはそれとして、この話はいかにも師匠らしいお言葉で、私も人生の指針にしたい。

 あまり、まぜっかえしたくはないのだが、「と」を付けることを、「人生の指針」・・・・・・。

 ラジオと落語、という表題から、生の高座でもテレビの落語でもなく、聴く落語ということを主体とする内容なのか、と表題からは想像していたが、違った。

 せっかく、ラジオドラマ→落語、という流れを作ったのだから、ラジオドラマと落語に関して、作家の視点で堀り下げることもできたのではなかろうか。
 たとえば、ラジオドラマと落語の「間」について、など。
 
 この内容、私が編集者なら、書き直してもらうなぁ。

祖父と落語 広小路尚祈(ひろこうじ・なおき、作家、72生まれ)

 エッセイの中では、この内容が、もっとも私には相性が合った。
 祖父が、ご本人いわく東京の呉服屋のお坊っちゃんだったにもかかわらず、旧制中学を辞めて大衆演劇の役者になった人。
 祖父の所へ遊びに行くたび、祖母に「好きなだけ本を買ってやれ」と言ってくれた。

 祖父母というスポンサーを得、読書を趣味とするようになった私は、児童向けの推理小説や冒険小説などを夢中で読んでいたのだが、あるとき書店の棚で『子ども落語』(六代目柳亭燕路著)という本をみつけた。
 落語については、テレビなどで見たことがあった。当時は即席みそ汁のCMに五代目柳家小さん、焼き肉のたれのCMに八代目橘家円蔵といった名人が出ていたこともあって、なんとなく「落語家って、面白そうな人たちだな」と思っていた。だから『子ども落語』についても、自然と興味が湧いたのだろう。
 『子ども落語』は確か、五巻か六巻まで集めた。何度も読むうちに噺を覚え、祖母に扇子と手拭いを用意してもらって。ベッドに寝ている祖父に向かって「寿限無」、「元犬」、「まんじゅうこわい」などを披露すると、祖父は「おまえ、落語家になったらどうだ?」と言って、目玉の底から笑ってくれた。私もウケるのがうれしくなって次々に新しい噺を覚えた。中でも好んで演じたのは、「堀之内」、「粗忽長屋」など、粗忽の噺だ。私は子どもの頃からのおっちょこちょいである。だから、ぴったりくるような気がしたのだ。

 六代目の柳亭燕路は、五代目小さん門下で、落語研究家としても著名な噺家さんで『落語家の歴史』などの著書もある人。『子ども落語』も貴重な彼の著作だ。

 この文章を読んで、エッセイ三本目にして、ようやく、一緒に落語を語りたいと思わせる人の文章に接したような気がした。
 人前で落語を演じたことのある人、という共通点もある。
 やはり、エッセイというものは、共感性が高いかどうかで、伝わるものが違ってくるなぁ。

 寄席についての次の文章にも、実に共感できた。
 寄席で落語を聴いていると、時々祖父のことを思い出す。三笑亭笑三師匠の高座を聴いた時などは特にそうだ。祖父は病床にあっても、グレーの髪を綺麗になでつけ、いつも格好よかった。食事をするときの箸の使い方は、笑三師匠の枕でおなじみ、「コシヒカリにありつける」のしぐさにそっくりだった。何気ない会話に時々はさみこまれる、ユーモアや皮肉。目玉の底から笑っているような、しわしわの笑顔。祖父の面影をそこに感じているからかもしれないけれど、笑三師匠はとても格好いいと思う。

 私も、大正生まれの笑三師匠の高座、格好いいと思う。
 池袋で聴いた『悋気の火の玉』の高座は、いまだに目に焼き付いている。
 この文章で、この人のおじいさんのイメージも膨らんできた。

 締め少し前からを引用。
 子どもの頃は落語家になりたいと思っていたが、私は結局音楽に青春を費やして、人生を棒に振ってしまい、現在は小説家などという野暮な商売をしている。自分の人生をやり直したいとは思わないが、心の底には今でも、落語家に憧れているような気がする。
 子どもの頃に抱いていた素敵な大人の姿、という感じがするからだろうか。軽妙洒脱でありながら、世の哀しさや喜びをすべて肌で知っているような、落語家独特のあの雰囲気。どうやら私は、つまらない大人になってしまったようだ。
 落語の世界は、愚か者にも優しく、温かい。落語の中では、粗忽者も与太郎もしわいやも泥棒も、排除されることがない。もしかしたら私は落語に、理想を見ているのかもしれない。現実逃避、でなければよいのだが。
  
 この人の落語と落語家への愛は、深い。
 しかし、“軽妙洒脱でありながら、世の哀しさや喜びをすべて肌で知っているような”独特の雰囲気を醸し出す落語家さんは、今ではずいぶん少なくなったなぁ。

 共感性だけでなく、自分の落語体験を、単に事実を羅列するだけではなく、自分の人生と重ね合わせた文章には訴えるものがある。

 この落語特集を読んだ、最大の収穫は、このエッセイかもしれない。
 広小路尚祈という人の小説を読んでみたくなった。

 さて、エッセイのトリ。

落語とわたしの不思議なご縁 トミヤマユキコ(ライター、79年生まれ)
 
 冒頭部分を、まず引用。
 わたしがはじめて生で見た落語家は、柳家喜多八&柳家喬太郎のおふたりである。当時わたしは大学一年生。落語は日曜の夕方に「笑点」をぼにゃり眺める程度だったのだけれど、大学の落研が主催する無料落語会がたまたま授業のない時間帯にあるというので、ひょいっと参加してみたのだった。

 初めての生の落語にしては、実に豪華ではないか。
 それも、この二人会を、無料で聴けたとは、羨ましい。

 その感想。
 「タダだし、ヒマだし」ぐらいのノリで見た落語だったが、たいへん面白かった。そしてすごく驚いた。なぜって、座布団の上に着物を着たおじさんが座り、身ぶり手ぶりを交えて喋っているだけなのに、脳内にはめくるめくストーリーがスムーズに上映されたからである。(初めて聴く内容なのに!)。視覚としてはおじさんを捉えているのに、若い男女が恋愛していたり、むさくるしい江戸の男衆がドタバタ劇をやったりしている様子が、はっきりとイメージできる。

 実に幸運な落語との出会い。
 そして、この方は落語との相性が合っていた、ということだろう。

 ちなみに、私は連れ合いを何度か落語会に引っ張り出したが・・・何が面白いか分からない、どうして笑っているのか、共感できない・・・ということで、彼女は落語と相性が合わないと、諦めた。

 さて、この方は、幸運な初落語体験の後、「その日を境にめちゃくちゃ落語にハマったというわけではなかったけれど、ときどき寄席へ行くようになった」とのこと。

 また、この方は、落語好きな人脈にも恵まれているようだ。
 音楽サークルで同期だった親友が、某テレビの落語関連番組の作家だったり、初めての落語を企画していた大学の落研の学生だった人は、今では落語会を主催していて、その会のトークゲストになったり。

 締めの部分。
 繰り返すが、わたしは落語マニアではない。細く長く落語ファンでいようと思っているだけの人間であある。けれども落語がわたしを摑んで離さない。思いもよらない形で人生に寄り添い、影響を与えてくる。これはもう、落語の神様に愛されていると言っていいのではないか。そうとしか思えない。この愛に応えることが、腹をくくって落語マニアになることなのか、引き続き浅いファンでい続けることなのか。ちょっと考えあぐねているところだ。真剣に落語を追っかけてもいいが、追われる逃げたくなっちゃうタイプの神様だと困るしな・・・・・・。

 まだ三十代の方だ。あまり決めつけることはないでしょう。 
 都合と財布と、その時の気持ちに従って、一時はさかんに落語にふれてみてもいいだろうし、浅く長く落語と付き合うのもよいだろう。

 少し残念なのは、初落語で聴いた喜多八については、冒頭部分以外に、何ら書いていない・・・・・・。

 幸運な若い落語愛好家の存在は分かった。でも、それ以上でもそれ以下でもない、という印象。


 これら四編のエッセイは、先日の紀伊國屋ホールでの落語会が始まる前に、紀伊國屋ビル内の某飲食店で腹ごしらえをしている間に、読み終わっていた。

 広小路尚祈の内容以外は、私の琴線に触れることはなく、どちらかと言うと、さまざまな疑問を抱かせた。

 若い作家による落語に関するエッセイ、ということで、どんな視点で書かれるのだろうか、と期待もしたが、こっちの思い入れが強すぎたようだ。

 その後、他の内容も読み終えてから、この特集全体への疑問が募った。
 
 「これで、特集・・・なのか」ということ。
 「いろんな人の文章を、並べただけだよね」という思いが強い。

 いわば「企画」としての工夫というか、編集者の存在を感じないのだ。

 たとえば、以前紹介した『週刊ダイヤモンド』の落語特集は、若い社会人を主な対象とした落語入門的な内容と言えるもので、私にとって新しい情報はほぼなかったし、全体が立川流贔屓なのには閉口したが、ビジュアル面での分かりやすさなどは結構だし、入門特集としては情報量も多く、まあまあ良く出来ていたと思う。

 また、今、「POPEYE」9月号の特集「ジャズと落語」を、楽しく読んでいる最中。
 これは、対象が私の趣味に合致していることもあるが、編集者の企画意図や熱意のようなものが、明確に伝わってくる。

 だから、「すばる」の特集を読んで感じるのは、「文芸誌が特集すると、こうなるのか・・・・・・」という割り切りもないではないが、「それにしても、もう少しどうにかなったのではないか?」という思いは拭えない。
 
 編集者が企画を試行錯誤していたり、届いた原稿を真剣に推敲する姿が、想像できないのだ。

 その思いは、この後に続く「寄席体験記」(6頁)、「演目ガイド」(4頁)、「春風亭一之輔試論」(23ページ)を読んで、なおさら深まるのだが、それらについては、日を空けて書くつもり。

 エッセイ以外の三つは文章量がそれぞれ多いのだが、二回目にまとめて載せるつもりだ。

 いわゆる“文学的表現”なのだろうが、読んで理解できにくい部分も多々あったし、内容への疑問が途切れることもなかった。
 正直なところ、もう一度読み直すのが、ちょっと辛い。


Commented by YOO at 2016-08-26 23:49 x
続々と真打ちは生まれてくるというのに、こういうのを読むと、ちょっと落語の将来に危機感を持ってしまいますね。
でも今のメディアに乗ると、たちまち駄目になってしまうのは、昨今の笑点ブームを見ての通り。
とにかく世の中を斜めに見て喜ぶ後輩が増える事を期待します。
Commented by kogotokoubei at 2016-08-27 10:34
>YOOさんへ

「落語特集」といっても、メディアによって、まったく違いますね。
敷居を低くするより、もっと高くしてしまうような「すばる」の企画だったように思います。
この本でやるなら、「落語は文学か」という、青ちょろくてもいいので、そんな視点のものもあって良かったように思いますが、企画する側の工夫のなさを感じます。
とにかく、文学的表現ってぇやつが、難解ホークスなのです^^
Commented by saheizi-inokori at 2016-08-27 13:09
買わなくてすみました。丁寧な紹介ありがとう。
Commented by kogotokoubei at 2016-08-27 13:29
>佐平次さんへ

感想だけでは不親切と思い、部分的に引用しましたが、少し疲れました^^

文芸誌というものが、なんとなく分かっただけでも収穫でしょうか。
「小説すばる」の方が、たぶん私には向いているのでしょうね。

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by kogotokoubei | 2016-08-26 21:36 | 落語の本 | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛