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日本橋界隈の地名のこと、などー池内紀著『はなしの名人ー東京落語地誌』より。

日本橋界隈の地名のこと、などー池内紀著『はなしの名人ー東京落語地誌』より。_e0337777_14031992.jpg

池内紀著『はなしの名人-東京落語地誌』(角川選書)

 池内紀(おさむ)さんの『はなしの名人-東京落語地誌』から、二つ目の記事。
 本書は平成11(1999)年の8月初版発行で、内容は主に1994年から1999年にかけて「野生時代」や「東京人」に掲載されたものだ。書き下ろしのネタも一つある。

 前回の記事(『船徳』)では、舞台は柳橋だったが、今回は日本橋の『百川』の章から。

 こんな書き出しである。

 「百川」の舞台は日本橋・浮世小路である。現在の地番では中央区日本橋室町二丁目。“寛政四年創業・刃物の木屋”の横を通りをしばらく行くと、左に鰹節の老舗“にんべん”がある。これを左に折れた裏通り。
「むかしは浮世茣蓙(ござ)をあきなったので、それが地名に残って浮世小路となったそうで・・・・・・福徳稲荷という、そばにお稲荷さまがありました。そのへんが、百川のあった跡だということをうかがいましたが・・・・・・」
 一説によると、風呂屋があり遊女(ゆな)がいたので、この名がついた。食べもの屋が多かったことは、川柳の「門並にうまいものある浮世かな」からもわかる。そこの大店が百川で、天明(1871~89)のころは江戸で一、二をあらそう料亭だった。当時、料理茶屋としては、呉服町の樽三、佐柄木町の山藤、秋葉権現前の大黒屋などが知られていたが、百川は日本橋という土地柄もあって、あたま一つ抜き出ている。
 「江戸名物詩」にいわく、「諸家振舞、名改めの宴、貸切一日の休みなく、浮世小路浮世の客、百千年来り会す百川楼」。
 川柳子もうたっている。
  百川で長鯨を吸う留守居客
 そこへ妙なのがとびこんできてはなしの幕があく。

 こういう文を読むと、柳家小満んの高座のマクラを思い浮かべる。
 味があるし、ためになる。
 「地誌」と謳っているように、落語の舞台について、関連する古今の書などにもあたり、十八番としていた円生の内容を元にネタによる楽しさも再現しながら、まさに“本寸法”な書だと思う。
 
 日本橋界隈のことについて、このように書かれている。

 熊田葦城(いじょう)の『江戸懐古録』(大正六年)には、末尾に「地名の由来」がついている。それによると「日本橋」は「全国の諸侯に課して、海を埋め、川を掘りて架せしに依り、日本中のもの之れを架せしとて、誰れ言ふとなく日本橋と呼ぶ」とある。『中央区三十年史』といった本にも似たような記述がみえる。
 (中 略)
 橋を中心として、あたりには「日本橋」をいただく地名がひしめいている。日本橋小伝馬町、日本橋大伝馬町、日本橋馬喰町、日本橋小舟町、日本橋堀留町、日本橋小網町、日本橋茅場町、日本橋兜町、日本橋蠣殻町・・・・・・。
 伝馬町は伝馬役、つまりはメッセンジャーをつかさどる者がいた。馬喰町は高木源兵衛とか富田半七といった馬喰頭(ばくろうがしら)が住んでいたからだという。兜町は、ここに牧野侯の屋敷があって、源頼義の兜を納めた塚があったのが名の起こり。現在は東京証券取引所があって、資本主義の精鋭が目に見えない兜をかぶって出陣している。
 茅場町は茅を商う者が神田から移ってきて、この名がついた。只今はごぞんじ証券(かみ)を商う人種のメッカである。小網町は佃島の漁師の網干場があって、毎朝、夜詰まから帰るとき、ここに小網を人ずつ干したのにちなんでいる。照降(てりふり)町というのもあった。小舟町三丁目の俗称で、セッタ屋と傘屋が軒を並べていたので、こう呼ばれた。富沢町は、もともとhじゃ日本橋鳶沢町といった。鳶沢町甚内という者がこの地を拝領して古物市を開いたのがはじまり。のちに甚内が富沢と改姓したので、町も富沢町と改まった。

 池内さん、落語の舞台については、いにしえの書物を紐解くことを忘れない。
 熊田葦城という人は、1862年生まれで報知社(のちの報知新聞社)に在籍したことのある人。『江戸懐古録』以外にも『少女美談』『日本史蹟』『幕府瓦解史』『明治畸人伝』『日本史跡大系』他、たくさんの著作がある。

 池内さんも参照したようだが、中央区のホームページに、日本橋地域の地名の由来が載っている。
中央区のサイトの該当ページ
 引用した部分に、蠣殻町の説明が抜けていたので、同サイトから引用したい。

昔は漁師の小網の干し場であり、牡蠣の殻の堆積した海浜であったらしいのですが、町名の由来は明らかではありません。

 あら、そういうこと・・・・・・。
 だから、池内さん書かなかったのかな。

 百川があった界隈の変貌ぶりについて。

“にんべん”の角を折れて、旧浮世小路。電柱の広告に「この手前・日本ばし・宮川」とあるとことをみると、百川はないが宮川はあるらしい。左は銀行、右も銀行。なにしろ日本橋金座跡・日本銀行のお膝元である。ニッポン国中の銀行が忠誠をつくすようにして、われもわれもと支店をつらねている。
 
 この部分を読んで、銀行は「か・ね・も・じ」で、「か・め・も・じ」と一字違い、などと思っていた。

 池内さん、もちろん、落語そのものに対しても、的確な指摘で締める。
 ことばのいたずら。善意あふれた奉公人の、そのことばの悪意が都びとを愚弄する。日本橋をとり巻いて加賀町や出雲町や因幡町や越前堀が健在だったころ、落語の「百川」は、ひそかにべつの意味と役割をおびていたのではあるまいか。四方からやってきた他国者、無数の百兵衛たちの、ちょっとした仕返し、腹いせ。
 そのせいか、魚河岸の若い衆に、間抜け、抜け作とののしられても、百兵衛は平然としていた。
「うぬが抜けてるてえんだよ」
「どれくれえ抜けてますか」
 わざとらしく指を折って数えてみせた。か・め・も・じ、か・も・ぢ・・・・・・抜けているとしても、たった一字。

 賑わう浮世小路に登場した田舎者の百兵衛が、魚河岸の江戸っ子たちへの抵抗の物語、そんな噺だったということか。

 これが、実際に「百川」の宣伝に作られたというのは、信じにくいのだが、いずれにしても、よく出来た噺だ。

 田舎者が都会人に対して、嘲笑の対象である方言を武器に打ち勝った噺と思えば、田舎者の私は、結構うれしくなるのであった。

Commented by saheizi-inokori at 2016-06-18 10:34
昔、ショッピングセンター(飲食ゾーン)の名前を浮世小路にしようかとかなり本気で考えたことがあります。
Commented by ほめ・く at 2016-06-18 10:56 x
だから、前回の東京オリンピック前に東京にあった由緒ある町名を消し去った暴挙は許せません。人間で言うなら氏名を消し去ることと同じです。この一事をもって、私には東京五輪は悪い思い出しかありません。
Commented by kogotokoubei at 2016-06-18 21:11
>佐平次さんへ

ぜひ、そうしていただきたかった^^
きっと、百兵衛さんが、店長ですね!
Commented by kogotokoubei at 2016-06-18 21:15
>ほめ・くさんへ

高速で空を塞ぎ、町名の変更で歴史への入口を塞いだ・・・・・・。
そういうことでしょうか。
歴史学者などが、なぜ行政の暴挙に反対しないのか、そんなことも思います。
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by kogotokoubei | 2016-06-17 22:41 | 落語の本 | Trackback | Comments(4)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛