三代目三遊亭小円朝の『笠碁』-飯島友治『落語聴上手』より。
2016年 05月 07日
1991年に発行された本書からの記事一回目では、飯島友治さんが高く評価していた「微笑を演じる」噺家、三代目三遊亭小円朝のことを中心に書いた。
さて、第二回目は、その小円朝の十八番について、その芸の見どころ、聴きどころを飯島さんがどう考えていたかを中心に引用する。
ちなみに、小円朝は八代目文楽と同じ明治25(1892)年生まれなので、明治31(1898)年生まれの飯島さんの六歳上になる。
では、そのネタとは何だったのか、ご紹介。
名人芸が伝えられた『笠碁』この部分を読んで、『笠碁』は演(や)らなかったと思うが、絶妙な『碁泥』を披露した古今亭志ん朝を思い浮かべた。
小円朝はここだというときはうなるような芸を見せましたよ。
『笠碁』『碁泥』などは大きな噺ではないが難しい噺です。少人数で味わう芸、小味な芸です。こうした演題は六代目円生、八代目文楽のネタ帳には載っていません。優れた演者がいると、その得意芸として認め、比較を恐れることもあり、芸の奥深さや怖さを心得ている連中は、自分の演題に加えることを遠慮したものです。
小円朝は、昭和42(1967)年7月に脳出血で倒れてから高座に復帰しないまま、昭和48(1973)年に亡くなっている。
志ん朝が入門したのが昭和32(1957)年なので、10年ほど、小円朝の現役時代と重なっている。
そして、志ん朝が主要落語会で最初に『碁泥』を演じたのは、昭和49(1974)年6月27日の「二朝会」である。
なるほど、小円朝没後のことだ。
もっと調べる必要があるが、志ん朝が小円朝に『碁泥』を稽古したもらった可能性は、ある。もちろん、五代目小さん、あるいは兄の馬生譲りということも、十分にあり得るけどね。
さて、小円朝の『笠碁』に戻ろう。
飯島さんの文章は、次のように続いている。
どこが山場ということのない、もちろんどっと笑いをさらうことのできるような噺でもない。目の動きとか煙管の扱い、碁をさす手の高さなど微妙な所作が味わいどころとなります。
小円朝ですごいなと思ったのは・・・・・・碁をさしに来た男が新しい盤を見て、「やあ、榧(かや)の八寸盤ですね」と言う。そして碁が始まると、石を置く手の高さがちゃんと碁盤の高さのところに置かれる。
一遍、どれほど気をつけて演じているのか見たいと思って、高座に上がる前に「小円朝さん、今日はひとつ楽しませてください」と頼んだ。そのときの碁石を置く手の位置が、一センチぐらいずれているかもしれないが、見た目には寸分違っていない。石を置いて相手を見る。「どんなもんだい」と、ほんのわずかな視線で自慢の気持ちを表わす。その顔の表情が上手でしたね。目だけで気持ちを表現する、ここいらが「芸」なんだと感じ入りました。
このあたりの飯島さんの落語を評価する細かな視点、落語家によっては、いや、落語家の多くは嫌がるかもしれない。
しかし、私は、生の高座の楽しみは、こういう目や手、わずかな仕草などにもあると思う。笑わせるだけが「芸」ではない。
この小円朝の「芸」には、お手本がある。
三代目小さんから七代目可楽〔玉井の可楽〕に伝わり、その可楽から教わったと小円朝は話しています。小円朝も三代目小さんの『笠碁』をなんべんも聴いていて、目の演技がよかったと言っています。小円朝の『笠碁』を見ていても、まさに「目」の芸。小円朝という人は、他の演者の芸の見巧者であるとともに、円喬にしろ三代目小さんにしろ、その芸の精華をみごとに吸収して消化し、自分の芸として演じ出す天分を備えていたと思います。
三代目小さん→七代目可楽、という継承で今日に残る名作は、少なくない。
五代目小さんも、七代目可楽を経由して、三代目小さんの十八番であった「猫久」「大工調べ」「宿屋の富」「高砂や」などを受け継ぐことが出来た。
なお、五代目小さんの『笠碁』は、三代目柳亭燕枝の演出が継承されているらしい。
十代目馬生のこの噺は、実にくすぐりが楽しいが、その小さん譲りなのかどうかは、勉強不足で分からない。
それでは、三代目小さんからの伝統に立つ小円朝の『笠碁』とは、どんなものなのか。
飯島さんが具体的にその魅力を語る上で、まず先に筋書きを説明するのだが、現在我々がよく知っている『笠碁』とは、少し設定が違う。
小円朝の『笠碁』を少し分析的に見て、小円朝芸の魅力がどこにあったかみてみましょう。一人はお店の旦那だが、もう一人が長屋住まいの男、という設定なのである。
通りに店を持つ旦那と長屋住まいの男はよく気のあった碁がたき。毎日、八、九番ずつもこなします。一向にうまくならないのはお互いマッタをかけるからだと知り合いから指摘され、それでは今日の一番から「待ったなし」と決めて打つ始めるが、待ったなしを言い出した旦那のほうからすぐさま待ったをかけた。
また、マッタをかけずにやらなきゃうまくならない、という指摘が、馬生のような碁の先生ではなく、知り合い、という設定。
この噺の内容からは、二人ともお店の旦那、の方が相応しいような気がする。だから、当代の噺家さんも、そのように演じているのだろう。
しかし、そういった設定の違いなどは無関係に小円朝のこの噺は飯島さんを唸らせたようだ。
本書で引用されている実際の高座の内容を少しご紹介。
「・・・・・・(一服吸い、正面に目を戻し)・・・・・・おやおや、まだ降ってやがる、なんの因果でこう降るんだかなあ、ええ?往来(おもて)をごらん往来を、のべつに降ってるから人ッ子一人通りゃァしねえや、なァ。犬の子一匹と・・・・・・(通らないと言いかけ、左前方に目がとまると急に喜び)・・・・・・ふふ。ふふふ、来た来た、とうとう堪(たま)らなくなって来やがった・・・・・・変な格好してやって来やがったなァ、被り笠ァ被ってやがる・・・・・・来た来た、来た。(左奥女房へ)おいおいおい、来た来た、え?早く湯を沸かしな、来たんだよ。もうこッちのもんだ、しめたもんだな、ふッ、来た来た(煙管を口の前に構え、上目使いに左前方から、徐々に右のほうけ目で見送る、正面を過ぎるころからやや早く見送ってしまうと首をあげがっかりして)・・・・・・行っちまいやがった、いやな野郎だなァ、ええ?いやァ・・・・・・なにほかに行く処ァありァしませんよ、え?・・・あ、出てきた出てきた、(嬉しさがこみあげてきて)あは、やっぱりここへ来たんだな、うん。」
飯島さんが、小円朝のこの噺の魅力を伝えたい思いが、(ト書き)部分に表れているようだ。
飯島さんは、「間接描写の醍醐味」と小円朝の芸を評価する。
すでに前回の記事で紹介したように、「微笑を演じる芸」とも表現している。
この小円朝の芸の魅力は、きっと五代目小さんや十代目馬生も十分に分かった上で、飯島さんの言葉を借りるなら、“他の演者の芸の見巧者”となって、自分の高座に生かしてきたのではなかろうか。
筋書きや演出の違いが一部あるにしても、その噺の真髄とでも言うべきものは、その時代その時代の名人が見逃さずに、自分のものとしてきたのだろう。
そう思うと、落語の一つの演題をとってみても、その背景には長い長い年月と多くの伝統の継承者たちがいるということを思わないではいられない。
そういうことを知って当代の噺家さんの高座に接することも、「聴上手」となるための術なのか、と本書を読みながら思うのだった。
これから梅雨どきになるまで、『笠碁』を聴く機会は増えるだろう。
さて、その高座が、そういった落語の伝統を感じさせてくれるかどうか。
直接的な表現で爆笑を誘う高座で、我を忘れて笑うのも、たまにはいい。
しかし、それだけではない魅力が、落語にはある。
目、顔、仕草などの「間接描写の醍醐味」により「微笑を演じる芸」に、一席でも多く出会いたいものだ。