『愛宕山』の原話など-『落語のふるさと』、『わが落語鑑賞』より。
2016年 04月 07日
また、この噺もある。
旦那、芸者、幇間などによる、良き時代の春の行楽ネタとして『愛宕山』は、八代目文楽の名人芸から今に伝わる大ネタだ。
師匠譲りと言える、先月の柳家小満んの会でのこの噺も、実に結構だった。
この噺は、文楽の芸の師匠三代目円馬から伝わった、上方がルーツの噺と言われるが、その原話は何かを調べるため、宇井無愁の『落語のふるさと』(朝日新聞社、昭和52年初版発行)をめくってみた。
宇井無愁は、上方版を元にあらすじを紹介してから、次のように書いている。
ちなみに宇井無愁は、似た題名の『落語のみなもと』(中公新書)において、『今昔物語』に、多くのネタの原話を見出していることを記している。
東京では「愛宕ヤマ」と題して故文楽の専売物だった。旦那も幇間も東京から京見物の設定。のっけから二人に重点がおかれ、芸者舞妓はいるのかいないのか、野がけ山行きの遊山気分は全然ない。小判投げも、一八にみせるために旦那が東京から用意してきたもの。
文楽は、話芸というより「すわり芝居」にちかい瑣末描写の極致を演じたが、耳ざわりは愛宕ヤマ。土器投げの愛宕サンに、時々芝の愛宕ヤマの元NHKのアンテナのイメージがダブって、聞き手を混乱させた。
ところで原話だが、『今昔物語集』巻二十八「信濃守藤原陳忠(のぶただ)御坂(みさか)に落入リシ語」第三十八が、どうもそうらしい。
信濃守陳忠が帰任の途次、大ぜいの郎等(ろうどう)と馬をひき
つれて御坂(岐阜県恵那郡山神坂峠)の嶮にかかった時、陳忠の馬が
後足で桟道をふみ折り、人馬もろとも谷へ転落した。郎等どもがうろ
たえ騒ぐうち、はるか谷底から陳忠のよぶ声がかすかに聞こえる。
生存とわかって耳をすますと、旅籠(旅行用の籠)をおろせといって
るらしい。急ぎ縄をつないで旅籠をおろすと、ずいぶん深い。やや
あってひき上げよという声。意外に軽いと思ったら、ひき上げた旅籠
に陳忠はみえず、平茸(ひらたけ)が一ぱいはいっていた。
またおろせというのでおろすと、こんどはひどく重い。力を合わせ
てようやくひき上げたら、主人は片手で縄につかまり、片手に平茸を
三房もかかえて上がってきた。馬が先に落ち、彼は途中の木の股に
とりついて転落をまぬがれた。みればあたり一めんの平茸。手のとどく
限りはとったが、まだまだ無数にあったのに損をした、という。郎等
ども思わず顔を見合って失笑すると、
「汝らは何を笑うか。宝の山に入りながら空しく帰ったとは、このこと
じゃ。受領(ずりょう)は倒るる所に土をつかめ、というからのう」
と陳忠はいた。
受領は平安時代の国司(地方官)で、行政官というより国の官物を受領する徴税吏だった。任地で私腹を肥やし、私財を蓄えるのを目的とする者が多く、解任後もとどまって荘園領主に成長していった者も少なくない。都民のために何一つしなかった功績で、莫大な退職金をもらった都知事を思い出すが、いつの時代でも地方官はガメツかったようだ。「受領は倒るる所に土をもつかめ」という言葉は、後に「ころんでもただは起きるな」といい替えられ、日萄辞書にも載っている。
この「土つかめ受領」のガメツさと、幇間一八のガメツさに相似点を見出して、この落語が作られたのではないか、と思うのである。
あら、『今昔物語』の中の、私腹を肥やす役人をネタにした話が、『愛宕山』に化けた(?)ということか。
それにしても、この藤原陳忠、谷に落ちてもただでは戻らないところは、何とも逞しい。
『愛宕山』の幇間一八は、肝腎な小判を忘れてもどるのだが、だからこそ落語、ということか。
『今昔物語』の話、なるほど、原話と言われれば、そうかな、と思う。
この古い話を元に、いったいどんな人たちが、どのような時間を経て、今日の名作を誕生させたのか。
現在につながる内容の仕上げは、三代目円馬、そして文楽の仕事だったろうが、そこまでに伝わる噺の途中経過にも興味がわく。
安藤鶴夫著『わが落語鑑賞』。
私が持っているのは、この筑摩叢書版。その後、ちくま文庫でも発行され、新しいところでは河出文庫からも出ている。
本書でアンツルさんは、文楽が磨き上げた内容に、まだ発展の余地があると指摘している。
矢野誠一さんが『落語手帖』でも引用しているが、アンツルさん、次のように書いている。
上方ばなしだと、京都の金持ちの旦那が、一八、繁八なる大阪の幇間を供に芸妓、舞妓をひき連れての山遊びで、東京と違って繁八が立役者だったり、京都と大阪のお国自慢などがあったり、いろいろと違った点も多いが、大阪と東京の落語家の相違は金を拾いにおりる幇間の演出が、大阪と東京のおなじ金銭に対する執着にしても、上方には気質的な相違があまりにもなまなましく表現されるので、そこへいくと、東京の一八のほうが、なにかというと鼻唄を交え、そのくせ、きわめてまた真剣な鼻唄である点などに、金銭に執着するむごたらしさが、ちょっとそこで救われる洒落ッ気があってよい。
ただし、この桂文楽の所演に、繁八を大阪言葉の幇間にして、芸妓、舞妓を京言葉にするというような、三都の言葉を使い分けるという多彩な演出が用意されたなら、はるかに上方ばなしの原話を遠く引き離す優れた落語になると思われるが、これはぜひとも次代の継承者の興味ある課題としたい。
ー舞台は京の春、山遊びも、ちょっと汗ばむ季節である。
この、東京・大阪・京都という“三都の言葉を使い分け”た『愛宕山』、たしかに、聴いてみたいものだ。
古今亭志ん朝なら、やろうと思えばできるだけの可能性も実力も秘めていたと思うが・・・・・・。
現役で、果たして“三都言葉使い分け”に挑戦できそうな人、いるかなぁ。
20年位前、NHK総合の関西ローカルで「上方落語百景」という二夜連続の番組があって、その時に流れたのが染丸師演ずる「愛宕山」でした。
愛宕山にはケーブルが通じていてスキー場もあったという事で、賑わっていたという事なども番組では紹介していました。又昔は茶屋が多くあって、実際にかわらけ投げも行われていたという事でした。
最初に生で聞いたのは、桜橋サンケイホールでの米朝一門会でした。その後、枝雀さんでも数回聞きました。春らしい光景が思い浮かぶ噺です。
枝雀著「落語DE枝雀」という本に「枝雀流サゲの分類」として、「愛宕山はドンデン(返し)」と出ています。確かにこの作品は、映像化してしまうと笑いが減ってしまいます。
愛宕山をNHK、曲垣平九郎と思ってしまうのは私もそうです。
学生時代、運動部でランニングの行き先は、東の左京側が多く、三千院、鞍馬、清水寺などには何度も走って行きました。
ところが、西、右京の愛宕山(あたごさん)には一度も行ったことがない・・・・・・。これも縁、なのでしょうね。
昨日は、携帯音楽プレーヤーで、吉朝版を聴きました。
いいんですよ、これがまた。
あたご「やま」と、あたご「さん」の言葉の響きの違い、大きいですね。
京都でも、正式には「あたごやま」らしいのですが、尊称の「さん」が根付いたようです。江戸名所図絵には、「やま」と「さん」の両方の表記があるとのこと。
なかなか、読み方だけでも、奥が深い!