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『快楽亭ブラック-忘れられたニッポン最高の外人タレント』(イアン・マッカーサー著)(2)

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イアン・マッカーサー著『快楽亭ブラック―忘れられたニッポン最高の外人タレント』

 さて、本書からの記事第二回目。
 第一回目の結びでは、快楽亭ブラック誕生まで書く予定、と案内していたが、修正したい。

 というのは、やはり父であるジョン・レディ・ブラックについても、ある程度書いておかないとならないと思ったからである。
 当たり前だが、初代快楽亭ブラックの誕生は、彼が日本に来ないことにはありえなかったことだ。
 父、ジョン・レディ・ブラックが、まず日本に来て、妻エリザベスとヘンリーを後から日本に呼んだと推察できるのだが、その詳細については情報が少ない。

 著者イアンは次のように書いている。


日本へ

 ジョン・ブラックは日本に永住するつもりなど、まったくなかったらしい。彼に関する死亡記事や、横浜で彼を知る同時代の人びとの思い出によると、彼はオーストラリアでの事業に挫折したあと、イギリスに帰国するつもりだった。ということは、イギリスへ帰る途上で日本に立ち寄り、感銘をうけたあまり、ふと永住の決意をしたのである。ジョンが日本に着き、エリザベスとヘンリーが来日するまでの間、二人はどうしていたのか、その記録はまったく見つからなかった。いくつかの可能性が考えられる。草創期の新聞は、船で到着、出発する人びとの名簿を掲載するのが習わしだった。わたしが見たアデレードの新聞には、ブラック一家の出発を記録したものはなかった。オーストラリアの別の町から出港したのだろうか?もしそうなら、ほかに出港地として考えられるのはメルボルンである。そこは、ジョンも滞在したことがあると書いているゴールドラッシュの町ベンディゴもふくむヴィクトリア州の州都だ。
 ジョンが日本にいくことが事前にわかっていたら、エリザベスはヘンリーとオーストラリアに残ったかもしれない。しかし、あらゆる点から、ジョンはオーストラリアを去るにおよんで、一路イギリスにもどるつもりだったことが明らかであるから、一家そろって出発したという仮定も成りたつ。その旅の途中で、ジョンが寄り道をして、イギリスに帰るエリザベスとヘンリーを残して、ひとりで日本に旅行したのかもしれない。だが、ジョンが単身オーストラリアをたち、エリザベスとヘンリーには、イギリスから送金できるようになるまで、暮らしていけるだけのものを残していったという可能性も捨てきれない。
 いずれにせよ、ジョンからの、いま横浜にいて、職も見つけ、二人にできるだけ早くきてほしいという手紙を受け取ったとき、二人は仰天したことだろう。

 オーストラリア人のイアンは、ブラック家が住んでいたアデレード周辺を友人と一緒に調査したが、なかなか、ブラック家の足跡を見出すことはできなかった。

 だから、新聞などの記録を元に、欠けたピースをつなぐためには、イアンの想像力を逞しくする必要があったことが、本書ではいたるところで確認できる。
 
 ともかく、ジョン・レディ・ブラックは、横浜で新聞発行の仕事を見つけることができた。

 アルバート・ハンサードという、競売や代理業務をとりしきり、しかも在日イギリス人ジャーナリストの草分けだった人物が、ジョン・ブラックを『ジャパン・ヘラルド』という、毎土曜日の夕方、横浜で発行されていた週刊新聞の主筆として招いたのだ。ハンサードは、この新聞を1861(文久一)年11月二十三日に創刊している。
 この申し出に、ジョン・ブラックはずいぶん魅力を感じたにちがいない。確たる当てもないまま。イギリスにもどりそうになっていたからだ。とにかくやるだけはやってみようと思って、仕事を引き受けたのだろう。彼の見込みでは、横浜は急速に発展しつつある町で、良質の新聞が必要とされるはずだった。ジョン・ブラックは呼びかけに応じた。そこそこの時間がたって、新しい仕事が安定した将来を保証してくれるものと判断したところで、彼はエリザベスに手紙を書き、息子のヘンリーを連れて、横浜にくるよう手配した。

 この、アルバート・ハンサードを検索すると、彼は「ジャパン・ヘラルド」創刊の前に長崎で、1861年6月22日(文久元年5月15日)から10月1日(8月27日)までという短期間ながら、「ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー」という船の来航情報などを中心とする英字新聞を発行しており、これが日本で初の英字新聞とのこと。幕末から明治にかけてのジャーナリズム史におけるハンサードの足跡なども、調べてみれば一つの冒険譚になりそうだ。
Wikipedia「ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー」

 ハンサードも日本の新聞の歴史に名を残す人物で、ジョンに多大な影響を与えたようだが、ジョン自身も横浜で、「日本初」の外国人による邦字新聞発行を成し遂げることになる。

 ヘンリーが十三歳のとき、ジョン・レディ・ブラックは新たな事業に取りくもうとしていた。『日新真事誌』という日本語新聞の発行である。1872(明治5)年4月のことだった。彼の意図は日本人記者に、本場西洋の新聞がどんあ形式と内容のものであるかを示すことだった。ブラックは、日本人読者と他の日本語新聞の発行者とを同時に教育するのが自分の務めだと感じていたようだ。
 著書の『ヤング・ジャパン』で、『横浜毎日新聞』と『東京日日新聞』という、産声をあげたばかりの日本語新聞二紙についてこう述べている。

  「両方とも論説を書こうとせず、その日の事件についても、真面目に
  解説するものではない。その紙面はいつも猥褻な小記事で塗りつぶ
  されていて、外国人の目には、情けないと言うよりも害毒を及ぼす
  ように見えた。それでも日本人は楽しんでいるようだった。大部分の
  日本人は、新聞のなんたるかも、その効用も知らなかったからだ」
  (ねずまさし・小池晴子訳、平凡社・東洋文庫)

 1872年、『日新真事誌』発刊直後、ジョン・ブラックは東京に移った。
  (中 略)
 ジョン・ブラックは新聞を利用して論陣を張った。ほとんど今の新聞のやり方に近い。たとえば警察の行為をよしと判断すると、警察を称賛するような記事を書く。ただし後日お礼にやってきた警察関係者に、将来は痛烈に批判することがあるかもしれないとわざわざ説明している。また、彼がヴィクトリア朝における文明化のしるしと考えていたある種の自由や規範が、度を越して濫用されると、大いに批判することもあった。

 少し前に発行された日本の新聞を読んで、ジョンはずいぶん不満を感じたに違いない。

 しかし、“紙面はいつも猥褻な小記事で塗りつぶされていて、外国人の目には、情けないと言うよりも害毒を及ぼす”新聞、今の世にもたくさんあるなぁ。

 本書を読みながら、私の好奇心は、初代快楽亭ブラックとともに、その父、ジュン・レディ・ブラックにも向けられていた。
 実は、神保町で『ヤング・ジャパン』を発見した。
 しかし、まだ購入するには至っていない。
 まずは、息子のブラックのことを記事にしてから、読むつもりだ。

 さて、第二回目は、父のことを中心に、これにてお開き。

 次回は・・・どこまで進むのか、私も分からない。
 
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by kogotokoubei | 2016-04-02 10:17 | 落語の本 | Comments(0)

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